雪童
―1―
午前八時、自宅から徒歩数分の公園。今日の最高気温は六度らしい。日本海側は雪が降り関東地方も昼過ぎには雪がみられるかもしれないと出かける前の天気予報ではそう言っていた。
「あてにならないな。天気予報。もう降ってきたじゃん」
霙にも似た雪がチラリと目に入ってきて思わず私は呟いた。吐く息は白くはなかったがそれでも断続的に吹くささやかな風だけでも身を切る寒さを感じ、それだけでも秋の終わりを感じさせるには申し分ないほどの説得力をもっていた。公園といっても住宅街の一角にあるような、そんな立地であるため、ここを抜けて出勤する会社員の項垂れた姿が駅に向かって歩を進めているのであるが、一様に暗い顔をした大人達の行列は寒さも相まって何か己の意図していない戦地に赴く兵隊のような感じがして気持ちが悪かった。
もっとも、通勤中の会社員からしてみれば『お気楽なフリーター』『人生を甘く見ている奴』というレッテルを貼られているのかもしれない。そう思えば御相子ともいえよう。
私としては日課の朝の散歩と何も変わらないのであるが、いつもは腰かけないベンチに座るだけでも毎日とは違った顔を見せてくれる。以前住んでいた所はちょっとした繁華街に面していただけに、それこそ道を一本逸れただけでも大きく違った側面を魅せつけてくれたのであったが、この街はそうはいかない。前述の通り住宅街であるから。一つ手前の曲がり角で曲がってみても目に入るのは住宅だ。楽しくはない。とはいえ、こうしてベンチに座って通勤している会社員を眺めていることに優越感を感じているという訳でも勿論ない。彼らは彼らで生活のために己の目的のためにそうであることを望んだのであろうから否定するどころか、尊敬の念すら覚える。私には無理だ。ちょっと違うな、私は我慢が苦手だ。己の信条を曲げてまで人の下に付くということはできることなら避けて通りたい類いの人間であるのだから。
生活が豊かかと聞かれると正直しんどい所もあるのではあるが……
―2―
公園には何も一人で来たのではない。ベンチに腰を下ろしたのも理由がある。今日は猫を外に連れ出した。「寒いから断る」そういって聞かなかった猫ではあったが、私の家に来てからというもの少し太ってしまったのではないか、と藪をつついてみたところ猫が出てきた。猫曰く「確かに少し運動したい気分ではあるし、外の空気も久しぶりに吸いたいと思い始めて来たところではあった」とのことであるが。
そんなこんなで猫を連れ出したのである。今は私の人形と遊んでいる最中だ。式神を呼んで遊ばせている。という訳ではなく、気を注いだ人形を人形のままヒラリヒラリと中空を舞わしている。猫の本能なのかどうなのかは知らないが、家の中では上から目線の猫もこれを玩具に右へ飛び左へ飛び、自動猫じゃらしのような具合に遊んでくれているから身が楽だ。私はベンチで季節の風を感じながら猫が疲れてくれるのを待つだけでいい。
という話ではない。
何の気配も感じさせず私の横にすぅっと舞い散る木の葉のように座ってきたのは淡い水色のカーディガンの女性。流石に寒そうな格好ではあった。私ですらタートルネックのセーターを漸く引っ張りだして、さらにマフラーをしているような格好であるのにも関わらず、その女性は白い足を晒すような姿であった。私よりも少し年齢が上くらいの、そおっと触れてしまえば体温に溶けて消えてなくなりそうなくらいに儚く薄い女性。
「黒川さん、お願いできますか?」
女性の足を掴んで甘えているような小さな少年の背中をポンっと押して、私に差し出す素振りを見せながらそう言った。
「ええ、構いませんよ」
私は少年の小さな小さな手を掴み、猫の元へと歩を進めた。「猫、一緒に遊んであげておくれ」と、ただそれだけ。猫と人形の下に男の子を誘導しただけ。猫は「ああ、そういう魂胆か」と捨て去るような台詞を吐いたが、次の瞬間には少年と共に逃げる人形を追いかけ始めてくれた。少年は始めの頃こそ、表情が硬く、怯えている訳ではないが無表情でいてどこか物悲し気な年齢にそぐわない冷笑を浮かべていたが、猫と戯れる中で徐々にそれが解れていっているように思えた。
―3―
アニマルセラピーというものがある。
私はベンチに戻り、女性と並んで猫と少年の姿を目で追いながら独り言のように女性と目を合わさずに説明をした。女性の目はどことなく遠くを見ているような不思議な目をしていた。『吸い込まれるような』という表現が至極似合うような綺麗なガラス玉のような眼。
アニマルセラピー、それは主に精神面に良い影響があるとされているセラピーの一つである。単純な思考を持つ動物と触れ合うことで人と人との間に起こるような摩擦や弊害、社会的ストレスから解放されて症状を緩和させるような療養法のことではあるが、何もそれは人に限った話ではない。あやかし者であっても少なからずそれは通用する。人は肉体と精神とを魂で繋ぎとめる形で人として成り立つ。ストレスというものは精神を傷つける行為である。精神が傷つけば肉体と魂にも影響が出てくる。その辺りの話は長々とするつもりはないが。常世にあるあやかし者にも同じことが言えるのであろう。
さて、この女性と猫と戯れている少年の正体は何か。現代社会に溶け込むようにしてストレスを抱え込んでしまったあやかし者。肉体を持たず、けれども魂だけの存在ではなく、精神までも手に入れてしまった悲しきあやかし者。人が信仰心を忘れてしまっても存在を忘れることができず、必ず思ってしまうそんな存在。あるいは、人間社会がここまで居場所を奪うことをしなければ都会にやってくる必要などなかったかもしれないそんなある意味での被害者のようなあやかし者。
雪女。
彼女と初めて会ったのは依頼人としてであった。いつものファミレス。私は熱々の薄く不味いコーヒーを手に持ち、彼女はアイスティーを。彼女のからの依頼は大筋ではこうだ。
雪女としての力が失われつつある。そうなると私の存在は一体どうなってしまうのか。山に帰りたくても帰る山は既になく、このまま消え去ってしまうのが正解なのか、でも人間はそれも許してはくれない。雪というものへの畏怖がある限り、力を失おうとも存在は残ってしまう。どうすればいいのか相談にのってもらえないか。
なるほど、そういった悩みも世の中にはあるものなのかと同情をした。それは雪女として生まれてしまったが為に、雪女として生きる術しか持たない人間になりきれていない人間のような存在。そう生きるしか生きる方法を知らないあやかし者。
―4―
雪女の仕事、習性というべきか、でもそれは言い方によっては失礼にあたるのかもしれないが、文字通り雪を降らせること。昔話や怪異譚では若い男を雪山に閉じ込めて氷漬けにするなどといった教訓めいた話が有名であるが、これも海や川、森といった自然を信仰する中で生まれた危険を知らせるための物語である。彼女が、彼女達が好き好んで男を氷漬けにしてきた訳ではない。そうであるならば何故、男ばかりなのか。一説によれば雪女は大層男好きだそうだが、彼女曰くそういう訳でもない。昔々の話で雪山に入るのは男の仕事であった。木を切るにしろ、狩人になるにしろ被害を被ったのが男ばかりである理由は単純にそれだけだ。
雪を降らせること、と言ってしまったが厳密にいえばこれも少し違う。雪女は雪童を産み。それは人が子を産むようなものであるが、そこに生殖行為は介在しない。生理現象なのだそうだ。そうして生まれた雪童が雪を降らせる。雪女は雪童を産み育て野に放つ。冬から春先に掛けてそれを繰り返して雪女は力を使い果たす。元々肉体と呼べる肉体は持っていないのであるから精神と魂だけが次の冬に掛けて眠りにつく。
であるならば雪女は自然現象か、と言えばそういう訳でもない。自然信仰の中で母なる大地を崇めた人間の想像による産物である。だから生きる、死ぬといった概念がない。人が雪を恐れなくなってしまえば消える。ただそれだけの哀しい存在である。
「しかし、私が貴女にできることがあるとは思えませんが……」
雪女はニコリと冷え切った温かい笑顔で私の問いに対して答えてくれた。
「ええ、ですから、私に対してというよりは私の子と遊んであげてほしいのです」
元来、雪女は産んだ複数の雪童を野に放ち駆け回らせ、人々に雪が降ることを知らせてから大雪をもたらせたとされている。しかし、都会に生きる雪女は雪童を一人しか産み出すことができないのだという。自我を持たない童を一人都会に放つというのは母としての雪女の心が許してくれないのであろう。それでもできる限り目いっぱい遊ばせてあげたい。
「ああ、なるほど。確かに幼稚園に入れる訳にもいきませんし、かといって、公園に放置する訳にもいきませんからね。見える人にでも会ってしまえば化け物扱いされる可能性だってある。苦肉の策ってところですか」
「黒川さんには申し訳ないのですが、概ねその通りです」
あやかし者であっても親は親で子は子。親が子を想う気持ちに人だのなんだのといった区別をつけるのは失礼というものであろう。
公園のベンチで猫と戯れる少年は人間の同世代の子と何ら変わらない無垢な笑顔で遊んでいた。行き交う会社員からは雪女の姿は見えたとしても恐らく子の姿までは見ることはできないだろう。それ程までに脆弱な存在である。雪女に関するものと同じくらいに雪童に関する逸話は全国で聞かれる。内容は大体こんな感じだ。子のいない老夫婦。子供の愛しさ余りに降り積もった雪で雪だるまを作っていた。ある朝。可愛らしい子が訪ねてきて、老夫婦はそれを歓迎する。春先には煙のようにいなくなってしまうのであるが、それから毎年老夫婦の下には子が訪れたという。老夫婦はその子が雪の精であることに気づく。といったものだ。
そんなことを思い出していると一時間もしないうちに、子の姿は見えなくなってしまった。雪女は「今年もありがとうございました。また、来年もお願いいたします」と一言残し、どこかへ去っていった。猫もいい加減くたびれてしまったのか、息も絶え絶えベンチへとトコトコ歩いてきてへたりこんでしまった。全てが一編に終わってしまったかのような出来事であったが、私は地に落ちた人形を拾うと歩くことさえも億劫になってしまった猫を小脇に抱え家路についた。
午後二時過ぎ、天気予報はどうやら的中したようで、今度は正真正銘の雪がハラリと天から降りてくるのを部屋の窓から覗きみるのであった。
雪が降る景色を眺めると、今年も冬になったものだと感慨に耽るようになってしまったのはいったい何歳になった頃だったであろうか。そんなことを想いながら今日も逢魔が時を迎えることになりそうだ。
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