浮遊霊
2話目です。以前短編で書いたものを不定期連載にしました。
是非ご一読ください。
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この世のものでない彼らを見ることができることに気づいたのは何歳の頃からであったであろうか。唐突にそう考えることがココの所、頻繁に訪れる。それは単にやることがないだけの話なのかもしれないが、思い出そうと思ってもなかなか思い出せないことなど人間であれば往々にしてあるだろう。私にとってそれがこれであるだけのことだ。
よく世間一般では成人を迎えるまでに彼らを見る事ができなければ生涯を通して見ることはないという。そんなこと、誰が言い出したのか知らないが。この手の伝聞も往々にして的を得ていたりするので侮れない。
そもそも成人の年齢が20歳となったのは日本の歴史の上では極々最近の話であり、ひと昔前までの元服といえば今でいうところの15歳前後であったという。ということは、江戸時代と呼ばれる時代までは成人男性があやかし者を見るという機会はあったのかもしれない。怪異譚、怪異絵巻などで伝えられるあやかし者を見たのがそれくらいの年齢層ということであれば前述の前提もある意味腹落ちするものであるといえる。
陰陽寮が廃止された明治初頭と時を同じくして成人年齢が20歳となったことも何か因縁めいたものを感じる。あるいは、陰陽寮廃止に伴って朝廷の庇護から外れてしまう陰陽寮の者達がそれでも市井の人々を守るために成人年齢を20歳とすべきだと進言したのであったとすれば面白い。個人的にはとても興味深い。
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人は年を経るごとに過去の記憶は薄れていくものである。何か人生に影響を及ぼすような大きな出来事でもない限りはそうであるだろう。その中においてでもトラウマと呼ばれるような体験談は往々にして記憶に蓋がされてしまう。
見てはいけないもの。
見えてはいけないもの。
あやかし者。
彼らは存在しない訳ではない。街に出れば名も知らない人たちとすれ違う。何人も何人も。よくよく考えるとそれも恐ろしい話なのかもしれない。さっきすれ違った人が凶悪犯罪を犯すかもしれない。スマホを見て前を見ていない学生は実は国家スパイで私のことを張っているのかもしれない。……そこまでいくとちょっと統合失調症の気があるので直ちに適切な施設で診察を受けることをお勧めする。
とはいえ、そんな中において誰が彼らの存在を否定することができるであろう。人ではない者の存在を。自分には見えているけれども実は他の人からは見えていないのかもしれないということを。
世捨て人。住居を持たない人。端的に言えばホームレス。彼らに限った話ではないのであるが、今回出会ったのはそう呼ばれる人たちに紛れ込んだあやかし者であった。
ホームレスに縁がある訳ではもちろんないが、出会ってしまったものは仕方がない。それにしても、何か悪さをする訳でもない。もしかすると本人は死んだことにすら気づいていないのかもしれない。死にながらにして生きながらえようと生前の行動をひたすらに繰り返しているだけなのかもしれない。
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今日の朝も相変わらず空気が澄み切る程に身を切るように爽やかな風が吹きすさぶ中で、未だに防虫剤の匂いの取れないマフラーを首に巻き街に繰り出すと、そのあやかし者はボロボロのスカジャンとデニム姿で道の先からトボトボと歩いてきた。
午前6時。
秋も深くなる頃のこの時間帯は日によって薄暗い位であった。
早朝出勤と朝帰りの生者が死にそうな顔をしながら往来している中にあって彼の顔からは、そのどちらも感じ取ることができなかった。死にそうな顔という表現を使っているが、そんな顔ができるのは無論生きている証拠であることは念の為に補足をしておきたいと思う。辛い、キツイ、眠い、だるい、いずれも生きている者の特権といっていいのかもしれない。江戸時代の妖怪絵巻や百鬼夜行などの中では漫画チックに表情豊かなあやかし者が描かれていることは往々にしてあるのではあるが、この現代において、街中をウロウロするようなあやかし者に表情など存在しない。
彼は行き交う人とぶつかることのないように道の隅を選び、人は彼を見ようとはしなかった。
いや、見えてはいないのであろうが。
この数日、彼の行動を観察してみてわかったことは、ただ一つだけ。
朝方、どこからともなく現れてはその日のうちは同じルートをグルグルと廻り、逢魔が時を越え、闇が現れると、ふと消える。廻るルートは日によってマチマチであった。
人ひとりが霞のように消えてしまうのであるから見える者からすれば、それがこの世に生きていない存在であることはすぐにわかるであろう。
幼い頃、興味本位で世界を見回し、そういった存在を目にした子供は手を伸ばし指し示す。
「お母さん。あの人見て」
消えてしまった存在を指し示す子供に対して悪戯を叱るようにして母親はそれを認めない……
そんなことを繰り返すものだから年齢を重ね、ある程度の自我を持つようになると見えなくなる。本当は視界に捉えているはずの存在を認識しなくなる。
モスキート音というものをご存じであろうか。それは高周波の音域のことであり、子供の耳には聴こえるが大人になるにつれて聴こえなくなるという音域である。
面白いもので『子供にしか聴こえない音』という前提を置くことで、大人は『それが聴こえてしまうと子供』という意識が働いてしまうらしい。結果的に聴こえているはずの音を「聴こえなかった」と感じてしまうことにつながる。というものである。ちなみに私も聴こえない。
勿論、耳の老化も影響しているのであるのであろうが、それは問題ではない。
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彼がトボトボと、まるで夢遊病者のように徘徊する道の中には必ず立ち寄る場所があった。これを観て彼がこの世に縛られている理由がなんとなくわかった気がした。推察となっているのは自信が無いという訳ではなく、本人にしか知り得ないためである。客観的にあーだこーだと決めつけることができるのはインチキ霊能者に過ぎない。生きている人の考えていることすらわからないのにこの世にいないものの気持ちがわかってたまるか。
駅に程近い立派なマンション。
確かマンションができる前は古い住宅地と公園であったはずである。
もう一度言おう。それが何を意味しているのかは私にはわからない。それでも確かなことは彼がそのマンションの前に来ると必ず立ち止まって一言「ごめん」と口を動かし深々と頭を下げるのであった。声が聴こえた訳ではない。それでもそう言っているであろうことが彼の体から溢れる思いのようなものから感じ取れた。実に理論的ではないが、そういったものなのである。
では、彼の謝罪に何の意味が含まれているのか。
このマンションができる前に彼の家があったのかもしれない。あるいは、彼が生きていた頃に立ち退きを迫った不幸な家族がいたのかもしれない。繰り返すがそれは本人でなければ理解することはできない。
物語などいくらでも想像できる。
真実については彼が語ることは未来永劫ない。だからこそ想像し、望むことをしてあげたいと考えている。それができる人間はそんなにいないのであるから。なので今回は送らない。
退魔譚を謳っているこの話において彼を祓う必要がないのか、と問われるかもしれないが、彼のように陰陽の理に反する恐れのない者は私の手の施しようがない。
浮遊霊。
とりわけ、自身が持つ後悔の念の塊である彼のような浮遊霊は行き場所がない。これから何年、何十年と同じことを繰り返していくことで後悔の念を自身が許すことができたその時に、ようやく解放される存在である。
果たして自我を失った浮遊霊が己の後悔を許す。ということができるのか、個人的には甚だ疑問であるが……
彼は今日もあてのない散歩を続けている。寒空の下で。後悔の念に押しつぶされながら。
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