鬼女
―1―
ふと、唐突に、何の前触れもなく『嫌な予感』というものに襲われることがある。楽しい予感であれば思わずクスリと笑いを洩らすかもしれないけれどもこの場合、今回の場合、私の場合においてはそうではなかった。楽しい、悲しいあるいは嬉しい懐かしい、なんとも形容の難しい思いが去来する。ヒガンバナのような真っ赤な火花を散らし、周りを虜にするような、それでいて誰も寄せ付けない。紅い長髪に白いワンピース、そして獣の眼。触れるものは何者を何に置いても何が何でも傷つける女。そんな彼女に出会う前、出会ってしまった直前に電撃の如く渡来した気持ちの悪い嫌悪感にも似た好奇心。
凶悪で横暴で優雅で綺麗で荘厳で輝かしくも足下に常人の数倍はあろうかとも思える影を黒々と落とす。深淵という表現がこんなにも似つかわしいと感じたのはその時くらいなものであろう。そんな魅力のパロメータを振り切って逆に魅力が無い女。血を好み血を恐れ、肉を食むが暴力を恐れ、悲しいと笑い声をあげ、楽しいと眉間に皺を寄せる。
悲劇的で喜劇的な快楽的で消極的な鬼女。
―2―
殊更、鬼女に対してどういう感情を持っている訳ではないと私は思っている。彼女に出会ったきっかけは、とある一組の夫婦間のトラブルに対応したときのことであった。それはなんというか、今日日、犬も食わぬようなただの痴話喧嘩とも言い換えていいようなくだらない話。。
「夫は浮気をしているんです。そんな人じゃなかったのに……」
「妻は浮気をしているんです。そんな人じゃなかったのに……」
勿論、夫婦別々に対応したのは言うまでもないのであるが。妻は夫に対して興信所に依頼をし、夫は妻に対して探偵を雇っていた。そしてその結果が双方共に浮気をしていたという事実であった。よくある話である。
その個別の事情に関しては私の関与する余地は欠片も残っていなかった。ただただ、テーブルの上に証拠と差し出された写真を並べられ「あの人には何かが憑りついていると思うのです」そんな具合だ。ようは現実が受け入れられずに妻は興信所から、夫は探偵から私を紹介されたという経緯であった。体のいい『面倒な事を言い出した客の受け入れ先』なのであった。私の価値は大体そんなものなのである。
しかしながら、人間の勘というのも存外に馬鹿にできるものではない。虫の知らせともいわれるような第六感的な直観は触覚、嗅覚のような体感できる五感ではないだけに非常に的を射ていることが多い。ただの気のせいということも多分に含まれていることだとは思われるが、なかなかどうして、それをそうと割り切ることは私にはできない。
そのご夫婦には大変申し訳ないが、双方の浮気相手とされていた写真に写り込んだ相手方。つまりは浮気の相手先であの男性あるいは女性はそれぞれが眉目秀麗でいて、依頼主の夫婦には天秤に合わないような様相をしていた。ここまで美しい姿であれば、狐か狸に化かされているという安易な終着点を設けることは造作もないことではあったが、それだけで終わらすことは何故か憚られた。前述の話ではないが、私の中の第六感でそういう結論にいたったというところであろうか。
―3―
興信所、探偵、ともに浮気相手の男性と女性の身辺調査を行えども何もでてこなかったとのことであった。年齢はおろか住んでいる所すらも。どこから現れてどこへ消えているのか、皆目見当もつかないという具合だ。それだけでも人外の存在の仕業である可能性があるのではないかと思うのであるが、どうにも夫婦間においての目下の争点は浮気したことの事実の押し付け合いであった。押し付ける先が見えなくなってしまったが為に結果的に正解である人外『あやかし者』の仕業に違いないと、犯人に仕立て上げたという方がより正しいのかもしれないが。
夫婦には面倒くさい趣味があった。廃墟巡り。かつて人が居た場所の朽ちている姿に心を揺さぶられるという。『バナナは腐りかけが旨い』的な話なのだろうか、ちっとも、私には到底共感することのできない趣味であった。建物は新しい方が好きだしスタイリッシュな方が好みだ。ツタの巻いた建物なんてものに興味は沸かない。話を聞くことで、今回のケースは、まぁ十中八九、巡った廃墟のうちのどこかで何か良くないものに憑りつかれていたとかそんな程度に考えていたのであるが、どうにもそういう簡単な話でもなかった。
実のところ、夫婦双方の弁によれば「浮気相手には見覚えがある」とのことであった。それでも名前を思い出すことすらできない。要は旅のまにまに、廃墟巡りをしていた際にすれ違ったか、少し会話をした程度だったのだろうと推察される。その時点で私の中で動物霊の可能性を排除した。狐も狸もどんなに賢くなったところで獣は獣だ。ただ欲を満たすために憑りつくのであれば浮気などというまどろっこしい真似はしない。YESかNOの二択。そう考えると人間に近い存在、地縛霊であるとか浮遊霊のような意思があってないようなあやかし者でもない。そうなって結果的に『鬼』に行き着いた。
―4―
鬼女。
鬼とは、それはあらゆる災厄を持ってくるというあの世の存在。この世とあの世のあやふやで曖昧な場所を徘徊するような中途半端なあやかし者ではなく、己の意思をもって行動する点、神の行いよりも厄介であった。
何故、夫婦が狙われたのか。廃墟と化したスポットに偶然にも鬼門が開いていたのかもしれない。それにしても相当に運が悪かったのだろう。鬼が何をやろうとしているか。それは私が人間と対峙したときと同じで。それは『わからない』という回答になる。
果たしてその鬼は何かしらの目的をもっているのかどうかさえも定かではない。あるいは単なる暇つぶしの可能性だってある。鬼の尺度は人間には計りきれないものだ。それでも無理矢理に定石で語ってしまえば、神聖な場を乱した人間に制裁を加えるであるとか、夫婦が深層意識に持つ欲望を増幅させて夫婦関係を破滅へと導びくことで、負の感情をもたらしてそれを喰らおうとしているであるとか、そんな所であろう。
何にしても夫婦間における問題ともいえる浮気を引き起こした原因たる鬼に直接聞いてしまうことが手っ取り早いと思い、奥さんと旦那さんにそれぞれ浮気相手を騙して呼び出してもらうことに決めた。
勿論、夫婦は同席させずに鬼と私だけで。
私の意思に反して鬼は素直にやってきた。指定のファミレスに指定の時間通りにキッチリと。いや、この場合、どうせ来ないであろうという私の意思に反しているのであるから鬼の行動としては当然といえば当然なのかもしれないが。
その姿は写真の姿とは別人であった眉目秀麗には違いないが背格好も肌の色も髪の長さも雰囲気も何もかも。それでいてとても綺麗であった。性別は……中性といえばいいのだろうか。現れたのは一人。つまり夫婦は同一人物に対して不貞行為を働いていたことになる。
鬼は私がどういう人間かをわかった上で、顔を出したのである。鬼の力、鬼女の成せる業ともいえよう。その者が理想と考えている男性像あるいは女性像にその姿を千変万化させて現れる。男女間だけではない。ファンタジー的な表現でいえば、勇者とされる者が『理想とする魔王像』というものがあったとして、一片の狂いなく鬼女はその姿、その能力で現れる。強い、強大と思えば強く強大な力を持つ存在として、弱く、小さなと思えば村人のようなちっぽけな存在で現れる。そんな存在である。それは人の表面上の願いではなく、深層心理、心の奥深くに匿われて普段は外に出現しないようなそんな想い。
だからこそ私には魅力的であり、魅力を感じない。存在自体を人の心に任せている超自然的な存在。そんなものに私は興味がないから興味深い。好きか嫌いかでいえば、好きであり嫌いでもある。そんなあやふやで曖昧な存在でありながら確定的に明らかな実在する存在。
無論、そんな鬼をどうこうできる力など私には無いのであるからハナから相手にしない。要件だけを伝える。「ご夫婦が迷惑を被っているようだ。今回は手を引いてくれないか?」それに対して鬼女は一言だけ心底笑顔を浮かべ、綺麗で澄んだドブのような濁った声で「どうでもいい」そう述べた。
私は全てを察した。
なんとなく想定をしていたことが正解していたという訳だ。たまたま鬼が居たスポットにたまたま夫婦が現れたので流れで……
鬼女のそこには愛情など微塵たりとも存在していなかった。愛情どころか信頼も友情も、親しみすらも持ち合わせていなかった。ほんの偶然。最悪の偶然で夫婦が出会ったしまったのが気まぐれな鬼女であった。ただそれだけが事実であり、真実である。
美しく汚い鬼は、コーヒーを一口だけ飲んで飲み干すことは無かった。彼女曰く「実に不味いコーヒーだ」とのことであった。
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