カゲロウ
―1―
その少女は儚く、細く、脆そうでいて薄く咲くことなく散る花のような異彩な存在感を放っていた。そう見えたのはあるいは錯覚なのかもしれないが、私の眼にはそのように弱々しく映った。
「おじさんにはみえているのでしょう?」
隣り合う人にすら聞こえていないであろう囁くような口調で一言だけ。もしかするとそれすらも電車に揺られる環境音による空耳のようなものであったのかもしれない。異常でいて異様な日常に疲れた私が妄想の果てに生み出した産物。人の夢を形にしたような女の子。
気が付くと目的の駅に到着しており、発射を知らせるけたたましくも軽快な音楽に背中を押されるようにして下車するのであった。勿論、そこには女の子の姿などありはしなかったのだけれども。果たしてあれは……
幻想にも似た空虚な感情を抱えながら依頼人に指定された場所へと歩を進める。普段は降りも寄りもしないような駅。春には桜並木でさぞかし賑わいを魅せるであろう歩道は季節柄、枯れに枯れた木々で賑わっていた。清掃されてしまったのであろう。落ち葉は路肩にチラホラと見えるだけで私が好きな落ち葉を踏みしめる音を楽しむことはここでは叶わなかった。
―2―
並木道を抜けて程なく、オープンテラス席のある洒落ていて、それでいてこじんまりとしたカフェが姿を現した。こんな店の内装から何まで店主が拘りに拘りを重ねたような私が不得意とするようなカフェで提供されるコーヒーなど、やれマンダリンだの、やれブルーマウンテンであったり、グアテマラがどうだのといった物に違いない。私はコーヒーにコクも香りも求めてなどいない。一杯数百円もするような代物なんてもってのほかだ。とかなんとか思いつつ『本日のコーヒー』なんてものに逃げ道を得てしまう辺り私はやはり小心者なのだろう。
依頼人から指定された時間は既に二十分前に経過していた。私に依頼する位の事なのであるから会うギリギリまで悩みに悩んだ挙句、会うという選択肢を放棄するといったことも無くはない。それはそうだろう。どこの誰が『あやかし者』だのといったオカルト色の極めて強い輩に会いたがるものか。私が依頼主であったとすれば万策尽きてしまった段になってからようやく検討を始めるであろう。自分で言うのもなんだが胡散臭い新興宗教や魔除けの札だったり、数珠だったりといったものを売りつける偽者や紛い物が世の中に溢れていることくらいは承知している。私がそういう類いの者でないことを証明してくれる奇特な人は極々僅かだ。口コミであったり紹介であったりという経路が依頼の主な入口である理由はそんな感じである。
それにしてもこの店のコーヒーは美味しい。一口含むと鼻から抜けるコーヒーの豊潤な香りはいつものそれと比べ物にならない。三杯目のコーヒーを注文しようとメニューと睨み合いを繰り広げている所でテーブルを挟んで対面に一組の母娘が腰掛けるのであった。
「黒川さんですか?」
母親の方はサングラスにマスクと、変装なのか花粉症なのか意図は定かではないが、一目に物騒な格好であった。あるいは前述の前提よろしく何かを売りつけられやしないかと警戒しているのかもしれないが……
「はい。私が黒川です。お待ちしておりましたよ」
多少皮肉を込めたつもりでいながらも満面の笑みでそう伝え、私に対する警戒を解いてもらおうと試みたがどうにもその作り笑いが不気味であったのであろうことは母親の無言をもって何となく察した。
「えー、あー、今回はお子さんの件でよろしかったですよね?」
小学生それも低学年といったところであろうか。駄々をこねるような年齢でもなく、自ら進んで素知らぬ人間に挨拶する程には成長しきれていない。生まれてこの方、切ったことがないような腰までありそうな長い長い髪を頭の高い位置で両サイドに二つに束ねたツインテール姿の少女であった。
事前に聞いていた話によれば、手のかからない大変良い子なのだそうだ。だが如何せん生まれつき体が弱いところがあり、原因不明の病に悩まされているそうであった。不憫に思ったこの娘の両親は西に腕の立つ医師がいれば赴きその娘をみせ、東に東洋医学の権威がいれば赴いて見合った漢方治療を施してきたそうだ。幸いにも親からの遺産や財産などには困ることがなかったため、それこそ金に糸目はつけず一人娘の将来の為を思い今までやってきたのだそうだ。
もうここまで言ってしまえば何となくわかってしまうのであるが、その夫婦に狙いを定めたのは悪質な宗教団体であった。
あらゆる医学のエキスパートの手に掛かってもなかなか状態が良くならない我が子可愛さに手をだしてしまった。甘言にそそのかされてしまった。娘さんには『よからぬ者』が憑いている。一目見てそう言われてしまった母親は宗教にのめり込んだ。それまでの医学的な処置の代替手段として購入した石に拝んだ。願った。本当はそんなこと無意味なのかもしれないと常識的な判断の入る余地がなくなってしまったのは、その結果、その娘の容態が回復に向かっていったからであったそうだ。
我が子の無事を祝う両親を信者たちは見逃さなかった。これは全て石のお陰、本当なら既に死んでいてもおかしくはなかった。祈ることを止めてしまうとまた症状が現れる。鬼か悪魔かはたまた人か、両親はそれでも可愛い子供の為を思い、宗教への信仰を邁進する。これは我が子のため、無駄ではない。実際に石は願いを、祈りを聞き届けてくれたのだから。
と、ここまでが入口。
―3―
私に話を持ってきたのは、ガス欠。要は金欠。無尽の如くあったと思っていた遺産も財産も使ってしまえば無くなるのは道理。いつまでもそんなことが続く訳がなかった。そうなってからというものあれだけ熱心に勧誘を続けてきた宗教団体からはプッツリと連絡が来ることはなかったそうだ。手元に残されたのは奇妙な石と数珠であったり御札であったり。それでも我が子の為ならばと毎日、かかさずに石に祈っているそうだ。もうあんな目には合わせたくはないと。可愛い我が子を思う親心であった。
しばらくの間は良かった。石が願いを聞き入れてくれたのだと母親は言っていた。だがしかし、そう甘い話ではなかった。宗教団体からのしつような勧誘や販売が無くなり、石に祈るという行動以外は極々普通の暮らしであったのであるが、娘の容態はそれまでため込んでいた病魔の堰を切ったかのように暴れ始め、現在では高名な医師の下で治療に励んでいる。
「そんなに苦しそうにはお見受けできないですがね?」
「ええ、発作といいますか、突然なんです。癇癪を起こしたように身体中が痛みだすようで」
「なるほど。そうですねぇ」
私はチョロリと伸びた顎髭を撫でるようにしてふむふむと頷いた。
「なんとか、何か……黒川さんに相談してみるといい。友人からそう聞いて、藁をも掴む思いで今日、ここに来ました。なんとか、なんとか娘を……」
泣き崩れそうな口調の母親であったが、なんとなく腑に落ちない。腹を割っていない。と言い換えようか。母親の口調からはどうしても『娘の為』という言葉の重みが伝わってこないような気がしていた。
「隠し立てする必要もないと思いますので率直にいいましょう。カゲロウが憑いています」
「カゲロウ……ですか?」
悪徳宗教も願いが届けば良心的な宗教であろう。この母親は何を吹き込まれたのか、父親も同様かもしれないけれども。その石とやらに拝んでいるせいか、この手の話にはアレルギー的な反応を示す。それでも自分が我慢すれば娘は助かる。この黒川とかいう男もどうせ偽者だ。そう言いたいのであろう。ちょっとだけ卑屈になり過ぎな気もしないではないが。
「カゲロウ。正確にはウスバカゲロウですね。端的にいえば蟲ですよ虫ならぬ蟲。それが苦しめている元凶」
「……ということは祓っていただけるのですか? 黒川さんにお願いすればこの苦しみから解放されるのでしょう?」
母親は僥倖とばかりに声をまくし立ててそう答えた。苦しみから解放されることに対して皺のよった眼尻がニマリと動いたことが見て取れた。
「と、その前にお嬢ちゃん。今からママと少し難しい話をするから外で遊んでいてくれないかな。僕のお友達を紹介するからさ」
私は財布の中から徐に一枚の和紙で出来た人形を取り出した。腹に白虎と書かれたその人形を椅子の傍らに落とすように息を吹きかけるとポンッっと小さな炸裂音と共に犬のような顔をした式神が姿を現した。白装束姿の50cm程の背丈の犬の顔をした式神。というよりは柴犬だ。柴犬に白装束を着せたような四足の獣。白虎。私が使役する式神のうちの一人だ(一匹?)。
「お嬢ちゃん、このワンちゃんと少しの間、遊んであげてくれるかい? 白虎も。いいかな?」
少女は興味深げに白虎をしげしげと見つめ、大きくコクリと頷いてくれた。白虎は姿こそ柴犬そのものであるが、頭のいい子である。私の顔を一目だけ見て、少女の袖に軽く噛みついて引っ張るようにしてカフェの店外へと場所を移してくれるのであった。
「……一体何をされたんですか? 何が何だか私にはさっぱりわからないのですが……」
母親には白虎の姿は見えていなかった。私の行動の一挙手一投足がパントマイムのように映っていたことであろう。……なるほど、気持ち悪く思われても仕方がない。
「例えば、例えばですけれど、奥さんは地球が丸いと思いますか、それとも別の形をしていると思いますか」
「何を仰りたいかはわかりませんが、地球は丸いものではないのですか」
「では、何故丸いとお考えで?」
「それは……それは学校でそう習いましたし、今日日、宇宙から地球を捉えた映像もあるではないですか」
奥さんの答えを受けて、私はすっかり冷めきってしまった三杯目のコーヒーを飲み干し、店主へ四杯目を告げた。奥さんにも勧めたが断られてしまった。残念だ。こんなにも美味しいのに。
「全ては主観ではなく、第三者の目線で観測された出来事を、さも自分が視たように思われている。そういうことでよろしいですよね?」
回りくどい私の言い回しに少しばかり苛立ってきたのか奥さんは「それはそうでしょう。何か疑う余地がありますか、無いでしょう」と少し声を荒げてくるのであった。そう、それはつまり、自分で観測していないにも関わらずそれをあたかも自身で観測したかのように錯覚している、あるいは事実を、現実を第三者の判断に委ねてしまっていることに他ならない。
「では、先ほどのやりとりに戻りましょう。私は使役する式神というものを呼びよせました。それは信じることができますか?」
「黒川さんは何が仰りたいのですか? 私を馬鹿にしているのですか。そんなもの見えていないのに信じる事なんてできる訳がないじゃないですか」
「しかし、お嬢さんと私の眼にはしっかりと映っていたようですよ?」
「……」
「石に願う、祈ることでお嬢さんの体調が回復した。それは果たして事実でしょうか?」
「……」
「さも、石のお陰であると繰り返し繰り返し言われることによって、あるいは偶然かもしれない、医師の薬が効いていたかもしれない。にも関わらず何故今も石に祈りを続けているのでしょうか?」
「それは……それは……」
「奥さん。本当に苦しんでいたのは貴女のお子さんでしたか?」
「……えっ?」
「女性というものは元来、陰の性質を持った生物ですので憑かれやすいといわれています。それも子供ともなればその魂は成長する肉体と精神を繋ぐために柔軟な、それでいて外の影響を酷く受けやすい性質を持っているのです。蟲はそれ自体に力はありません。所詮、虫ですからね。でも弱い赤ん坊などは、蟲に憑かれて気が乱れることが多いのですよ。その大半は人の持つ自浄作用で将来まで住み憑くなんてことは滅多にないですけれどね」
決して声を荒げて伝える訳でもなく、ある種の医師が無感情に診断結果を伝えるように、ただただ淡々と、それでも一方的に押し付けるように声を吐いた。
「それって、私の娘はその、あの『蟲』という存在に憑りつかれて苦しんでいたということですか?」
「恐らくはそうでしょう。現に私が視たところ、お嬢さんには何も憑いてはいませんでした」
―4―
「でも、先ほど黒川さんはカゲロウが憑いていると……」
「奥さん、もう一度聞きます。本当に苦しんでいたのは貴女のお子さんでしたか?」
程なくして、母親は遺産も財産も使い果たしてしまい、爪に火をともすような日々の生活に追われる状況にあることを語った。入口は子供の為であったのかもしれない。それが、回数を重ねるごとに、子供に振り回される可哀相な親。になってしまっていたのであろう。新興宗教にハマってしまったのも子の為、と表面では言い続けていてもその実、救いを求めていたのは自分の心であった。財産が底をついてからというもの、ただの石に祈り続けてきたのもそうだったのであろう。我が子の為という大義名分のもとに行われる自身を救うための行動。
ウスバカゲロウ。
カゲロウの一種であるが、その幼虫期はアリジゴクと呼ばれている。蟻を捕食するために地中に潜み、その穴に足を踏み入れた蟻が自身の手元に届くのをジッと待つ。この場合、娘の両親は蟻であったのであろう。ウスバカゲロウに憑かれていた人間は、富や社会的な地位、立場、人脈、血縁、ありとあらゆる物を失っていくことになる。食べられる。というよりは失う。他者へと渡される。どんなにもがこうとも。
そこまで説明をすると奥さんは納得したかのようにガックリと肩を落とした。自らの行いの全てが搾取されるために行われた行動であったのだから仕方のないことでああろう。
サングラスの奥から流れたひとすじの涙が、我が子の無事を喜んで流れたものなのか、それとも後悔の念によるものなのかは私にはわからない。
母娘が帰った後、一人残された私は、またもやすっかり冷え切ってしまったコーヒーを口に含み、それでもなお、いつものファミレスとは一味も二味も違うことを実感し、充実した気持ちでカフェを後にした。
駅までの途中、幸せそうな子連れの夫婦とすれ違い思う、『幸せの形』の定義とは一体何なのであろうかと。家族の幸せは子供にとっての幸せであるとか、奥さんの幸せ、旦那さんの幸せとは違う形のものなのかもしれない。そんな答えのない自問に対して独り身の私には不相応な考えを廻らしていると冷えた夕暮れ時の風が痛いほどに突き刺さり、身を震わせながら涙腺が潤ませるのであった。
読了ありがとうございました。
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