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-1-

 今日という日の朝をここ数年で一番の緊張の面持ちで迎えることになってしまったことは何も後述する女史に心をときめかせているからという訳ではない。ましてや、その女史の一人住まいの家に男一人で出かけることが原因であるということでもない。昇る朝日に照らされる室内は夏を髣髴とさせるほどに燦燦と煌いてみえたが、乾燥した冬の空気に背筋がゾクリとする辺り、もう一度布団の中へと入りこみたいという邪な思いを沸々と抱いてしまうのは人としての性といってもよいのではないだろうか。ともすれば室内ですらもカラカラの空気にならんとしていたが、私の額からは滝のようなと形容しても差し支えない位に汗が流れ落ちているのであった。とりあえず水を一杯飲んで落ち着こうと立ち上がることを試みるが震えから上手く歩くことさえも叶わなかった。なんて日だ。


 呑み仲間と言えばいいのだろうか、犬神と同じく腐れ縁とでも表現した方がいいのかもしれない。行きつけの居酒屋でバッタリと再会したのが……再会してしまったのが、その女史であった。お酒のためか仕事帰りの疲れた美人OLの色香に翻弄されてしまったのかは定かではないが、できれば記憶の彼方に放り投げてしまいたい過去を思い出させる女である。汚い男だらけの居酒屋に蝶のように舞い降りた可憐で清楚で酷く疲れたような魅力的な女性ではあるのだが。


「黒川って定職に就かないの?」

「黒川、彼女出来た?」

「黒川、女の子紹介してあげようか?」


 化粧の為か、いや、昔から三白眼で他人を見るようなヤツであった。化け狸のように眼尻に添って一際暗く落ちている影はそんな彼女の魅力を際立たせていた。少し照れくさい気になりながらも横からの一斉射撃にタジタジというかデレデレというか、そんなものだから安請け合いをしてしまう。昔からそうだ。高校時代にも気があるようなフリをして何の気も持っていない。幾人もの男子生徒の心を砕いてきたクラッシャーは大人になっても未だ健在のようであった。私もその中の一人であることは今思えばなんとも嘆かわしい話ではある。


―2―

「ヅカ、来てやったぞ」


 オートロックのドアの前に無機質に設置されている共用のインターフォンに向かって少し恐縮しながら話し掛けた。

 土曜の午前10時、呼び出されたのは港区のタワーマンション。何階建てなのか数えようにもその高さに首が痛くなるほどに高層であった。先ほどから降りてくるのがマダムと言う呼び方が相応しいセレビリティ溢れる奥様方ばかりであった。まさか、仕事のできる女だとは思っていたが、自分と同じ年齢でこんなにも生活に差があるとは思いもしなかった。私の通っていた居酒屋はそれこそ庶民の味方のような価格で非常に助かっているのであるが、こんな立派なマンションに住んでいるような御方が立ち寄るには些か不釣り合いであると言えよう。マスターには申し訳ないがそれが現実だ。

 後にして思えば、それもこれも私に何某かの依頼をしたいがために行った事なのだと考えると何となく納得はできた。


「はい、あー、黒川か、ちょっと待って開けるから……」


 寝起きのような声でオートロックを解除してもらい、15階の彼女の部屋へと向かう足取りは……やはり重かった。

 彼女、私がヅカの愛称で呼んでいる鶉塚楓うずらづかかえでは高校の時の同級生である。眉目秀麗というか、立てば芍薬というか、なんというか外面だけは異常に良い。余談ではあるが、私は高校時代に生徒会に属していたことがある。というか生徒会長であった。その時の副会長こそがヅカであった。

 だからどうしたと言われてしまうと困るが、要は彼女の裏の顔を知っているということである。副会長として会議に出席する際には、あるいは街頭で挨拶する時、校内では笑顔を絶やさず、気軽に話しかけることのできる秀才を気取り。生徒会室では空気が抜けた風船のようにしぼみ、重たそうな身体を椅子にどっかりと腰かけため息をつくような女の子。

 今でこそギャップ萌えとでもいうのであろうが、そんなものアニメや漫画だけで充分である。というよりもこの手のギャップは周囲を落胆させるだけに過ぎない。何故、生徒会長の私が副会長のヅカにお茶を注がなければいけなかったのか。特段、何か弱味を握られていたという訳でもないのに……

 思い出すだけで苦い高校生活であった。


―3― 

 15階のヅカの部屋の前に立つと嫌な雰囲気がドアから漏れ出しているように感じた。それはあやかし者がどうとやらというものではなく、単に嫌悪感から発せされたものであると思う。そしてそれは彼女を、ヅカを毛嫌いする理由ともいえる。人としては申し分ないのだ。見てくれも外面も良い、それをONOFF切り替えできるといったハッキリした性格も問題ないと思う。それでもヅカだけは駄目なのだ。ヅカだけは。


 地獄の門が開くようにゆっくりと扉が開いていく感じがした。開け放たれると、芳香剤の匂いか何かわからないが鼻腔を微かにくすぐるような香りがホワリと漂う。迎えてくれたのは完全OFFモードの鶉塚楓。上下色違いのスウェットに適当に結ばれた三つ編み。極めつけは覗き込めば輪郭が歪んで見える程の度の強い厚い眼鏡。いや、まだこれはまだいい。許せる。少なくともヅカを女性として見ることはないのであるからそれが衝撃的な様相であったとしても構いやしない。というよりは旧友とはいえ男を迎えるのに恥ずかしげもなくこの姿を晒すことのできる彼女には一周廻って好印象を持つくらいである。


 この立派なマンションに相応しいかと言えばなんともいえないが。


「さ、上がって上がって。大丈夫だよ。普段は寝ているから」


 緊張から一歩を踏み出せない私の手をグイと掴み、ヅカは部屋へと引き入れた。ゴミ屋敷なんて話であれば片付ける手間だけで何ら緊張することはない。ぐいぐいと引っ張られ進んだ部屋先には水の入っていない水槽がいくつも、いくつも並んでいた。人間の、人としての生活スペースを圧迫する程の数の水槽。


 匂いはしない。しいて言えば間近にあるヅカのシャンプーの匂いと、それに水槽に敷き詰められた土の匂いが混ざり合ったようなものである。ドタドタとした足音にすら水槽の住人は姿を見せない。


「何? 女の子の部屋に入るのに緊張しているの? 黒川も男の子だねぇ」


 などと茶化すような口振りでヅカは話し掛けてくるが、私が最も苦手とするもののことをコイツが知らない訳が無かった。というよりも高校の時からそうであったので確信犯であることは間違いない。


 蛇。


 ヅカが一つの水槽に手を伸ばすと、水槽の中の小屋のようなものの影からニョロリと姿を現したそれはまごうことなき蛇であった。そう、彼女は部屋の中にある無数の水槽の中にそれぞれ蛇を飼っているのである。ヅカの腕に手慣れた様子でグルリグルリと巻き付く小型のソレを見て彼女は微笑みを返す。


「どお? かわいいでしょ?」


「はぁ、どこが?」


 咄嗟に出た決死の言葉である。恥ずかしいことに呼吸すらもままならない。


「えぇ、可愛いじゃん」とかなんとか言いながら腕に巻き付いたソレを突き出された私はもう気がどうにかなりそうな程に声が出なかった。ヅカの依頼は部屋の掃除。要は男手が欲しかっただけである。だったら何もいきつけの居酒屋なんか探さずにその辺の男にでも頼めばいいものを、薄れいく意識の中で、悪い顔をしたヅカが腹を抱えて笑っている姿を視た気がした……


―4―

 蛇神信仰。


 蛇は昔から広く神の化身のような扱いを受けていた。それは蛇、巳『み』を転じて『水』とするといったものや『見ず』者から転じてあやかし者とするといった具合である。あるいは流れる水の姿を模したような独特な動きをもって水の神とされてきたのだともいわれている。他方で、脱皮する蛇の姿を見て成長、あるいは増殖、もしくは若返りといった良い表現をもって祀られてきた。

そして、蛇蝎の如くという言葉がある。ヘビのほかにサソリも含まれてはいるものの、要は人が恐れるもの嫌うもののことを指すのであるが、これも恐れるという意味合いが日常使われているものと少しばかり異なるものと考えることができる。神を祀る、恵が欲しいから祀る、恐ろしいから祀る。ヘビの恐ろしさとは本来、神様への敬意、恐怖を表する意味合いが強い。

 陰陽道で見た場合においても玄武に代表されるように蛇、巳とはやはり神聖視されているものであったりする。

 ところで、蛇の交尾を視たことがあるであろうか。今となってはそんなものインターネットで調べればすぐにでも見つけることができるのであるが、中々に神秘的というか独特なものである。あるいは嫌悪感を抱く者もいるかもしれない。それこそ蛇蝎の如く。しめ縄のようなその奇妙な、それでいて現実味の無い姿を見て昔の人々はこれを生命の象徴とし崇めた、そして同時にその姿に畏怖を覚えた。曰く、人に知恵の実を食べるように促した悪魔は蛇の姿であるし、日本神話上の八岐大蛇も蛇である。正月の鏡餅も元々は蛇が蜷局とぐろを巻いた姿を模したものであるともいわれている。

 そんな蛇の神秘性に触れた高校時代のヅカこと鶉塚楓は以来盲目的に蛇に好意を抱くようになった。オカルトであるとか、そういった類いの集団というものはどこの世界にいってもマイノリティでこそあれ存在するのである。そんな生徒会であったのである。端的に言ってしまえばヅカは蛇女である(ちょっと意味合いが違うけれども)。ただ、特段、蛇を神聖的に見ている訳ではないようであるので今のところは何ともないが、仮に蛇に神聖性を求め、蛇神信仰に走るようなことがあれば友人として手を貸す必要があると思う。何せ蛇は生きながらにして神とも悪魔ともされる生き物だ。


 だからこそこの部屋には踏み入れたくはなかった。私は蛇が、それこそ蛇蝎の如く苦手であるのだから。主に見た目の話ではあるが、見えないものを見える者が、目に見える存在にこそ恐怖を覚えるのであるから滑稽と言えよう。それが気の置けない間柄であればなおさら滑稽に思えることである。そう考えるとありがたいようなありがたくないような……


 友人の嫌がる姿を見て腹を抱えて笑う輩にロクなヤツはいないということだけは少なからず真理であろう。

読了ありがとうございます。

今後も更新してまいりますので気軽にブクマをお願いします。

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