地縛霊
「地縛霊」は以前、短編でアップしたものを加筆したものとなります。
よろしければご一読ください。
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木枯らしが吹き始める時節、独り身としてはどうしても人恋しくなる季節である。だがしかし、それは何も人に限った話ではない。
風にのって淡雪でもちらりちらりと見えようものならそれはもう格段の思いといえるであろう。
思わず涙が出る程だ。これは私に限った話だ(と思いたい)。
この世にあって常世に在らず、人であって生者に在らず。人恋しさが募り募って人々の集う場が設けられでもしようものなら、その場の隅などにこっそりと紛れ込み、それは人を視ている。
それでも寂しさが溢れだしてしまうようであれば、それは人知れず、人の知れない闇深い場所から手をこまねいて己の下へと誘き寄せるのである。「お話しませんか?」と。あるいは、想像しうる最高の男性像、女性像を心の内から盗み見てそれを化かすことも厭わないだろう。
それがそうするのは、寂しさからの行動であるのであるから。
-2-
夜を夜と認識させるのは陰陽の仕業である。生は陽を好み、生でないものは陰を好む。
人は近代化をもって陰であった時間を陽へと変貌させてしまった。
それは人為らざる者も同じで陽の中に陰を求めるようになっていった。
それらが入り乱れる夕暮れ時のことを人は「逢魔が時」と昔から言い伝えてきた。
魑魅魍魎と生者の境目が曖昧な魔の時間帯、陰陽の境目が虚ろで空虚な時間帯。
その昔、陰陽道を司る者として、安倍家と賀茂家があったという。賀茂家は戦乱のさ中、嫡流が途絶え、安倍家も同じく運命を翻弄されるのであるが、時を経て土御門家と名を改め朝廷における陰陽寮にて陰陽を司ってきたが、明治の頃、近代化の波に流されその陰陽寮も廃止とされた。今はもう無い。
そのため、現在『陰陽師』を名乗っている者はすべからく偽物ということになる。いや、紛い物と表現した方が正しいのかもしれない。それでも陰陽師を自称している者はあるいは儲けの為なのかもしれない。無論、陰陽師自体が存在し得ない状況下においてそれを咎める者もまた同じくいないのであるが。
人は栄えた。それに比例して夜に陽をもたらした。陽が輝けば輝く程に影である陰は色濃くその色を写し出していく。陰陽とは表裏一体のものであり、片方が大きくなればもう一方も同等に大きくなるものである。逆もまた然り。自然の摂理といってしまえばそれまでなのであるが。
変わらないものは逢魔が時のもたらす心寂しさくらいなものであろう。
この物語では陰の者、人為らざる者、鬼、霊障、彼らをまとめて『あやかし者』と呼ぶこととしよう。
あやかし者は稀に人に危害を加えることがある。その目的は構って欲しい、一緒に居て欲しい、話を聞いて欲しい、そういった類のものから怨み妬みから同じ目に合わせようとするものまで幅が広い。
とはいっても裏を返せばそのような者達を除けば危害を加えないことが大抵なのである。
さもすれば彼らと相まみえることがあるかもしれない。
それでも、彼らを毛嫌いするのはやめてあげて欲しい。
彼らは人恋しさのあまり人に擦り寄りたがるのだから。
だからといって、彼らに同情するのはやめておいた方がいい。
彼らは人恋しさのあまりその人に甘えてしまうから。
-3-
今日、寒風吹きすさぶ中、防虫剤の匂いが染みついたマフラーを取り出し、首に巻いて、それでもシャツにジャケットだけという秋冬言い現しがたいファッションセンスで作り上げた格好で荒川沿いを散策しているのは、そんな理由からであった。
「くぅ、手袋も出してくるんだった。寒い寒い」
冷たい空気が喉元を凍らせるかの如く煽ってくる中、こんなことを口に出したところで天から手袋が降ってくるわけでもなければ話を聞いてくれるツレがいる訳でもないのであるが。非常に寂しい限りである。これでは私自身が陰の者のようである。ダラダラと講釈を垂れ流すだけ垂れ流して、挙句の果てには私は幽霊でした。などといったしょうもないオチをつけるつもりはないけれども。
それにしても、逢魔が時までまだ少しあるようで、青々とした空はまだ8割がた蒼であった。それでも夕暮れ時を見据えた上で自宅を出ていたので待つまでもなく奥の方から橙が近づいてきていた。1年365日、いついつどこにおいても、陽の落ちる風景を1人で見るにはやはり心寂しいものがある。
通りに設置された我が友、自動販売機に温かさを求めてみたものの、『あったかーい』と書かれたそれは冷たく冷え切った指先を痺れさせ、火傷を意識する程に熱されており思わず右手に左手にと一人キャッチボールを敢行し、程よい温度に冷めるまで繰り返すのであった。
「ぬるい……」
目的の荒川に面した土手に到着すると、川沿いをゆっくりとした歩調で進み始める。熱い缶コーヒーの中身は生ぬるく、風に冷やされた体を温めるには力不足の代物になってしまっていたが。
ある程度進んだ所で、年がら年中晒されている若干草臥れた具合が目に優しいベンチに腰掛け、土手に造られたグラウンドで少年たちが野球をしている光景を温かい目線で眺めていた。応援している親御さん達も心なしか寒そうに見えた。声援する訳でもなし、一体どういう心境なのかしばらく考えてみたが、自分なりに納得のいく回答に辿り着くことができなかったので、まぁいいか。と目線を少年らに戻した。
それにしても、どうにも10月にしては寒すぎるくらいに風が冷たい。
-4-
そのまましばらくの間、ベンチで呆けていたが、空の橙が半分くらいになりほのかに星が見え始めたことを確認した私は誰に急かされる訳でもなく立ち上がり、少し歩いた。日頃の運動不足の賜物なのか、冷え切った腰が重く感じ、左足が痺れてしまっていたが、すれ違うジョギング中の御仁に変な目で見られないようにその場で屈伸するなどして「左足がおかしいな」などと心にもない独り言をポツリと漏らした。
振り返ると土手ではまだ少年たちが元気な声を張り上げていた。
さて、生来、水というものはあやかし者に好かれるという。それは単に古来の人々が水難にあったのでそれを予防ないし防止するための教訓とするために言い出したこと。と考えるのが一番わかりやすく腹落ちしやすいというものであるが、どうにもこうにも、人の体の半分以上が水でできているということも少なからず因果関係がありそうである。
今よりも少し前の心霊特番などで使われていた水辺の霊障、心霊写真というヤツにはそういった類のものが映りこんでいただのと騒いでいたものであるが、今日日それも懐かしくすら思える。
「じゃあ何か、あやかし者は海まで流れて雲になって雨になるんかい」
そういうことである。
「どうしたい? 一緒に野球がやりたいのか?」
荒川の土手を降りたところ、グラウンドと駐車場の境目に少年は居た。頭に大きな傷がある少年とお姉さんであろうか、黒髪をずぶ濡れにして前に垂らしている少し背の高い女の子。
桜の木に半身を隠し、桜の木の影からピクリとも動きやしなかった。
彼女らが陰にしている桜の木の根元には萎れた花束が飾ってあった。
一体いつから置かれているのであろうか。萎れ方からみて半年はそのまま放置されているのではなかろうか。親御さんであろうか、友人であろうか。どっちにしても酷なものである。亡くした者はショックを受けるが、亡くなった者は得てしてそれを覚えてはいないのであるから。
数日前に彼女らを見かけた時から気になって過去の新聞記事などをあたってみたが、終ぞ彼女らに関することを探し出すことはできなかった。ただ彼女らは、この世に未練がある訳でもなく、恨みがある訳でもなく、すがりつくなにかがある訳ではなかった。
地縛霊。
恐らく彼女らの近親者が彼女たちをこの場に縛ってしまっているのであろう。萎れた花束から察するにその縛っていた人はこの地域にはいないのかもしれない。あるいは、もうこの世界にすら……
「送ってあげるよ」
和紙で拵えた人型を少年の少女の足下へとそっと並べ、印を結び「カラリンチョウカラリンソワカ」と唱えると、少年と少女はそれぞれの人型の中へと吸い込まれていった。
「ごめんな。このまま見続けていたらいつの日か彼らに交じりたくなっちゃうからな」
表面だけの謝罪の言葉を述べながらその人型をビリっと縦に真っ二つに裂くと彼らを迎えに来たかのように突風が巻き起こり、私の掌から人型を奪っていった。
その風は足下の萎れた花束をコロコロと川の方へと追いやり、そのまま川の中に消えていった。
それを見送った私は踵を返し、土手を登り帰路についたのだが、やはり木枯らしが吹きすさぶと人恋しくなってしまうのでたまらない。
陰陽師と自身を名乗るということはあまり気乗りはしない。霊能力者みたいなインチキ臭い呼び方も個人的にはお断りである。占い師辺りが無難なところなのかもしれない。
実にくだらない。
私も彼女らと何ら変わりはしない。この世に何かしがらみがある訳ではないけれど、生という縛りがあるので私はこの世に縛られている。ただそれだけのことなのだ。