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4人目 北条朝時(鎌倉)

 北条(名越)朝時

 北条氏分家名越氏

 名越氏初代当主

 父 北条義時

 母 姫の前(比企朝宗女)

 生誕 1193年(建久4年)日付不明

 没年 1245年5月3日(寛元3年4月6日)

 主な役職 評定衆(1236年)

 

 概要

 さて、今回紹介しますのは北条(名越)朝時ともときです。以下、名越朝時で通します。さて、名越朝時が誰なのか知らない人もいるかもしれません。しかし、鎌倉時代を研究している人にとっては普通に名の知られている人です。とりわけ北条氏研究をしている人には大いに関わってくる人です。さて、朝時の父が誰なのかというと鎌倉幕府2代執権にして得宗家の得宗の名の由来となった北条義時(出家名得宗)です。そして、母は義時の正妻である姫の前です。姫の前の父は比企朝宗です。比企氏というと比企能員の乱で知られるように1203年に反乱を起こすため一族は滅亡してしまいます。義時に嫁いでいるということは比企氏がいかに大きな勢力を持っていた一族であり北条氏はその一族を取り込もうとしていたのか読み取ることができますね。

 そして、朝時の兄弟について見ていきます。まず、兄がいます。兄はあの鎌倉幕府3代執権泰時です。泰時は実は義時の側室の子である本来であれば朝時が北条氏の嫡流になるはずです。しかし、そうはなっていません。これについてはこの後に語ります。弟は、重時、有時、政村、実泰、竹殿、一条実雅室などがいます。重時は鎌倉幕府においては連署を務めるなど有力人です。政村も7代執権です。

 では、朝時の年表について見ていきましょう。

 1193年(建久4年)に北条義時の次男として鎌倉で生まれます。1203年(建仁3年)、朝時が11歳の時に比企能員の変が起こり、母姫の前の実家比企氏が義時ら北条一族によって滅ぼされた事で両親は離婚し、母は上洛して源具親に再嫁した3年後に死去しています。後に朝時は具親の次男源輔時を猶子にしています。猶子は、血縁関係のない子どもを親子の関係として結ぶことです。13歳で元服します。

 1212年(建暦2年5月7日)、20歳の時に将軍源実朝の御台所の信子に仕える官女である佐渡守親康の娘に艶書ようはラブレターを送り、一向になびかないので深夜に娘の局に忍んで誘い出した事が露見して実朝の怒りを買ったため、父義時から義絶(親子の縁を解かれること)され、駿河国富士郡での蟄居を余儀なくされます。その後、1年後の1213年(建暦3年)に和田義盛と北条氏の対立が起こった和田合戦の際に鎌倉に呼び戻されて兄の泰時と共に防戦にあたり、勇猛な朝比奈義秀と戦って負傷するなど活躍しました。この戦果として実朝からは未だに許されることがありませんでしたが、義時からの許しをもらい御家人として幕府に復帰することができます。ただ、北条氏嫡流としての地位は完全に兄の泰時に持って行かれてしまいました。

 1221年(承久3年)の承久の乱では北陸道の大将軍として、佐々木信実や結城朝広らとともに戦い、越後や越中の朝廷軍を撃破します。戦後は上皇方に組みした藤原範茂の処刑を行っている。1223年(貞応2年)では、現在知られている限り朝時は加賀・能登・越中・越後など北陸道諸国の守護を兼任してます。なお、名越氏は以降基本的に北陸に地盤を持ちます。

 1225年(嘉禄元年)に越後守となります。1236年(嘉禎2年9月)には評定衆に加えられるが、初参ののち即辞退しており、兄泰時政権に与しようとしない姿勢が見えます。

 1242年(仁治3年5月17日)、泰時の病による出家に伴い、朝時も翌日に出家して生西と号します。朝時の出家の直接的な理由は不明だが、泰時の死の前後、京では鎌倉で合戦が起こるとの噂が流れ、将軍御所が厳重警護され鎌倉への通路が封鎖された事が伝わっており、朝時を中心とした反執権勢力の暗闘があった事によると見られている説がありますが、『吾妻鏡』によるとこの出家は民衆に大いに驚かれたことが書かれています。理由としては普段仲が悪いことで知られていたと書かれています。その後、1245年(寛元3年4月6日)、53歳で死去します。

 なお、その後名越氏は得宗家に反乱を起こしまくっています。宮騒動と二月騒動です。得宗家に続く家格を持つ名越氏を得宗は警戒しました。家格が高い理由は本来の嫡流であるからです。

 北条朝時について見てきました。彼は、若いころに女子に夜這いをかけるということさえしていなければ執権になって鎌倉幕府の中層で権力を握っていたのかもしれません。しかし、私個人としてはこの出来事が本当にあったのか疑わしいと思っています。なぜなら、朝時の母は比企氏ですでに失脚しています。そんな失脚した子をわざわざ政権の幹部にするでしょうか。本来はしないと思います。まあ、この説を考えると同母弟に重時がいるのでそれはどうしたとなってしまいますので、まだまだ甘いですね。これから私自身の研究でこのあたりは詰めていこうと思います。

 さて、今回はこのあたりで。


 ◇参考

・ウィキペディア『姫の前』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E3%81%AE%E5%89%8D

・ウィキペディア『比企朝宗』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E4%BC%81%E6%9C%9D%E5%AE%97

・ウィキペディア『北条朝時』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E6%99%82

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