2人目 北条時頼(鎌倉)
北条時頼
北条氏得宗家
鎌倉幕府第5代執権
生誕 1227年6月29日(安貞元年5月14日)
没年 1263年12月24日(弘長3年11月22日)
執権在職期間 寛元4年(1246年)3月23日~康元元年(1256年)11月22日
概要
さて、2人目の説明に入りたいと思います。今回紹介する人は鎌倉幕府第5代執権北条時頼です。さて、なぜに北条時頼にしたのか。それには私の大学での研究が深くかかわっています。私は1246年(寛元元年)に発生した宮騒動という事件について研究しています。もともとは名越氏研究をしていたのですが、教授の方からアドバイスをもらいましてテーマを鎌倉政変にしました。宮騒動において主役は名越氏当主の名越光時なのですが、知名度が低いので今回は執権北条時頼にすることにしました。私の期末レポートのための研究の一環だと考えてください。
エッセイなので自由にやらせてもらいます。
北条時頼は北条家嫡流得宗家の北条時氏の二男として生まれますが、父北条時氏は若くして亡くなります。そのため祖父の3代執権北条泰時が養父として育てることになります。
1237年(嘉禎3年)4月に元服し、時の将軍藤原頼経より頼の字をもらい時頼と名乗る。
1246年(寛元4年)3月4代執権で兄の経時が病気により執権職を引退、弟である時頼に譲ることになりました。さて、実はこの経時には2人の息子がいました。しかし、どちらもまだ元服しておらず長男で6歳でした。こんな年で執権になれるはずなどありません。そこで弟の時頼に執権職を譲ることになります。経時はその後閏4月に死去します。
さて、執権になった時頼ですが彼に反対する勢力は多くいました。まず、北条氏内では得宗家に対して反感を持っているナンバー2の家格を持つ名越氏。名越は、私の研究対象なのであとで別段特集でもしてみましょうかね。続いて、有力御家人三浦氏。さらには藤原将軍家。この3つの主なところです。ほかにも数勢力ありますが、今回はこのあたりだけとしておきます。そして、この勢力がさっそく反抗してきます。まず、同年5月に将軍藤原頼経の側近であり北条氏一門名越氏当主名越光時が反乱を企てます。しかし、この動きは時頼によって事前に察知され、光時は出家、関わっていた名越時幸は出家後すぐに病死、ただし他の名越氏、時章、時長、教時は無罪でおとがめなしであった。将軍側近の藤原定員もくび、他の評定衆数人も停止処分されます。こののち藤原頼経は京都に送り返され皇族将軍の宗尊親王が来ます。この事件を宮騒動と言います。翌年には自分に批判的であった有力御家人三浦氏を宝治合戦で破り滅ぼします。さらに千葉秀胤も攻めて滅ぼしてしまいます。
また、自身の政治基盤を固めるために六波羅探題北方であった北条重時を幕府で執権に続くナンバー2の地位連署(室町幕府だと管領、江戸幕府だと老中に当たる)に任命します。
1252年に自分の批判的な5代将軍藤原頼嗣を追放して京都から皇族の宗尊親王を立てます。皇族将軍の始まりです。
さらに、幕府最高議決機関評定衆の下に引付(衆)を設置したり、大番役の期間を短くするなど御家人を打倒し自身の不満勢力が増えている中で懐柔しようとする動きもしています。
1256年(康元元年)に連署北条重時が出家し、連署を辞任。執権、連署は出家するとなれないという規則があるためです。後任の連署に異母弟の北条政村を任じます。しかし、時頼もこの年赤痢にかかるなど病気がちとなり出家、執権を辞します。後任の執権には息子の時宗がまだ若かったこともあり執権にさせるわけにはいかないので義兄にあたり、北条氏分家赤橋氏の北条長時(重時の息子)に譲ります。
しかし、出家した後も時頼は政治権力を握り幕府を裏から操ります。
1263年(弘長3年)に、本格的に体調を崩し37歳で死去します。
時頼と言えば、『鉢木』の話で有名などと名君として知られます。しかし、実際の時頼は宮騒動、宝治合戦など自分に反抗する勢力を徹底的に潰しているため名君というよりか暴君というイメージもあります。しかし、紛れもなく彼は北条氏得宗家による得宗専制体制の基盤を作ったことに間違いありません。
今回はここまでです。次回は誰にするかまだ決めていません。
◇参考文献
・ウィキペディア『北条時頼』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E9%A0%BC
・高橋慎一朗『人物叢書 北条時頼』吉川弘文社、2013年。