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15人目 新田朝氏(鎌倉)

 新田朝氏


 新田氏

 新田氏宗家7代当主


 改名 朝兼など


 生誕 文永11年(1274年)


 死去 文保2年1月2日(1318年1月21日) 


 父 新田基氏


 母 ?


 妻 諸説あり


 子 新田義貞

   脇屋義助



 ◇概要

 鎌倉時代中期から後期にかけての御家人。

 のちに朝兼に名前を変える。

 『長楽寺文書』を始め現存の史料では朝兼の名前で残る。

 「新田足利両家系図」には、正和2年(1313年)頃に、朝氏は新田一族ゆかりである朝谷氏の頭領である朝谷義秋・正義兄弟が常陸国南部を拠点に悪党として活躍している評判を聞いたそうだ。朝氏は遠い親戚である朝谷兄弟を新田荘に招き、自分の妹と領地を与えて優遇したことが記されているそうです。

 文保2年に死去します。


 ◇考察

 今回は、かなりマイナーな人です。新田朝氏。誰でこりゃ? と思われると思いますが、これは私の卒業研究のテーマでもある新田氏の人物でもあるので今回書きました。

 さて、概要がかなり短いのですがこの人の史料がほとんどないのです。ウィキにあった概要は、本当に史料から見たのかと思うようなものもありましたが、一応上の通りです。『長楽寺文書』は研究室にもあったので内容を確認したことがあります。というか、それで研究しています。この文書もんじょにおいて朝氏という名前は出て来ず基本的に朝兼の名前で出てきます。ですので、朝兼の方が正しいのではないかとかいろいろなアプローチをしているところです。そもそも有名な新田義貞の父親だというのに残っている史料があまりにも少なすぎます。

 やはり滅びた人物というのは調べづらいですね。これだからきっと家康も新田の末裔を名乗ろうとしたのでしょう。まあ、新田といっても世良田の方なんですが。

 今回は、このあたりで。

 次回もおそらく新田になるかもです。

 ちなみに、現在執筆中なのは村田新八と千利休です。これもなるべく早くに書き上げるように調べ物を終わらせたいと思います。

  それでは、また次回お会いしましょう。


 ◇参考


・Wikipedia『新田朝氏』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%9C%9D%E6%B0%8F

・『長楽寺文書』

その他系図類参照

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