14人目 毛利季光(鎌倉)
毛利季光(大江季光)
出家名 西阿
生誕 建仁年(1202年)
死去 宝治元年6月5日(1247年7月8日)
父 大江広元
母 ?
妻 三浦義村娘
子 毛利広光
毛利光正
毛利泰光
毛利経光など
◇概要
3代将軍源実朝に仕えていたが、1219年に実朝が2代将軍源頼家の子公暁に暗殺されて死去した後に出家し、入道西阿と称しました。承久3年(1221年)に承久の乱が起こると、北条泰時に従って後鳥羽上皇らの勢力と戦い、美濃国の木曽川の突破戦や、山城国の宇治川・淀川の突破戦で武名をあげました。この功によって安芸国吉田荘の地頭職を与えられた。この時、安芸国を領することがあの人を生むこととなります。
天福元年(1233年)には3代執権北条泰時から関東評定衆に任命されます。寛元4年(1246年)には、藤原頼経・頼嗣父子を自邸に迎え、当時将軍職を継承したばかりの頼嗣の甲冑着初式を行うという栄誉を得ます。この時、将軍らを呼んでいることから宮騒動から続く得宗家と将軍家の対立において将軍家側に付いている人と評価できます。
宝治元年(1247年)、北条氏得宗派と対立していた妻の実家三浦氏方に付き敗北します(宝治合戦)。鎌倉法華堂で息子の広光・光正・泰光・師雄らと共に自刃しました。合戦の直前、季光は将軍御所に向かおうとしたが、妻の「兄泰村を見捨てることは、武士のすることではない」との言葉で三浦陣営に付いたといわれています。
宝治合戦の結果、毛利一族はこれによって大半が自刃や戦死をしてしまったが、合戦に関わらなかった越後国にいた四男の経光の家系だけが唯一残ったとされ、この経光の子孫から戦国時代に吉田荘の国人領主から一躍中国地方の覇者となる毛利元就が出ることとなります。これが、先ほどのあの人を生むことになりますの部分です。
なお、季光の娘は宝治合戦を執権として指揮した北条時頼の正室となっていたが、戦後に離別している。時頼の子北条時宗の母である葛西殿は季光の娘とする系図が一部にあるが、複数の確かな史料では時宗の母は継室の北条重時の娘であることが認められるため、季光の娘説は否定されているのが現状です。
◇考察
さて、今回の考察。どうして急にマイナーな人物を出したのか。実はこのあたりは私の大学での研究テーマだった場所です。テーマだったので今は違います。宮騒動、宝治合戦。1246年と1247年には北条家得宗と摂家将軍藤原(九条)頼家の対立が深刻化している時期です。そんな中鎌倉幕府の北条市以外で最大の有力御家人である三浦氏と婚姻関係にあった毛利季光は、宝治合戦に関与し敗れ、自刃してしまいます。
ちなみに逸話として、時の執権である5代執権北条時頼は毛利季光を自宅に呼び、自分の味方をするように言いますが、それを断り三浦に付くことになります。
また、2001年放送の大河ドラマ『北条時宗』では、高橋秀樹さんが演じてくれました。この大河ドラマみたいのですが、DVD化していないのですよね。皆さんNHKに要望しましょう。ちなみにこの大河はかなりフィクションであり、うーんと思う場所もありますが、この時代を知る程度では一見です。
この人が毛利元就に続く毛利家の初代です。毛利家は戦国時代にパッと出てくるイメージですが、出自自体はかなり名家です。大江ってもともと公家ですからね。
今回は、この辺で。それでは。
◇参考
・Wikipedia『毛利季光』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%AD%A3%E5%85%89
・Wikipedia『毛利経光』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%B5%8C%E5%85%89
・Wikipedia『北条時宗(NHK大河ドラマ)』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E5%AE%97_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)




