第一章 その名は《魔皇》③
(――くそッ! 何なんだッ! あいつはッ!)
場所は戻って、廃墟ビル。
夕日が差し込むビルの廊下を、制服を着た妖鬼は走っていた。
(ちくしょう! 何故だ! 何故あいつは俺をつけ狙うんだ!)
走りながら、唇を強く噛む。
そして窓の淵に足をかけると躊躇いなく飛び降りた。ここはビルの四階。人間ならば死んでもおかしくない高さだ。しかし妖鬼である自分にとっては何の問題もない高さである。
(とにかく一旦姿をくらまさなければ。あんな化け物に付き合っていられるか)
妖鬼はビル群の隙間である路地裏に着地した――が、
――ドンッ!
直後、後方から何かが落下する音が聞こえて来た。
「――くッ」
嫌な予感を抱き、妖鬼は後ろを振り向いた。
そこには予想通りの相手がいた。黒いコートを纏うあの男だった。
(くそがッ!)
妖鬼は、血走った眼差しで、改めて自分の敵を睨みつけた。
身長は百七十センチほど。見た目はごく普通の人間だ。男であることは分かるが、コートに付いたフードを深々と被っているため、顔までは分からない。
最初はこいつも鬼狩りだと思っていた。
しかし、最初のわずかな戦闘。そこからの逃走劇から今は自分の同類だと確信していた。それも確実に自分よりも格上の同類だ。
「貴様ッ! 一体どういうつもりだ! 何故俺をつけ狙う!」
「……何を言っているんだ? そんなのお前を狩るために決まってるだろ」
コートの男は、淡々とした様子でそう返してくる。
「ふざけるなよ……」
妖鬼は苛立ちに歯を軋ませた。
鬼狩りならばいざ知らず、どうして同類に殺されなければならないのか。
「格下だと思って愚弄するのも大概にしろ!」
そう叫ぶ妖鬼の身体は一気に変貌していった。
メキメキと牙や爪が伸びると同時に筋肉が膨れ上がり、上半身の制服も引き千切れる。露出した皮膚はどんどん浅黒くなり、そして最後に額から宝石で作られたような一本角が生えてきた。妖鬼の証の宝角である。
完全に擬態を解いたその姿は、二メートルほどの体躯を持つ一本角の鬼だった。
『俺の名はアサン』
ごふうっと灼熱の息を吐く。
『第四階位の妖鬼。アサンだ』
完全に鬼の姿へと変貌を遂げた妖鬼――アサンがそう名乗った。
『さあ、貴様も早く擬態を解け。そして名乗りを上げろ』
すると、その挑発に、コートの男は怪訝な様子を見せて、
「擬態を解け? お前、もしかして僕を妖鬼だと思っているのか?」
『……なに?』一瞬、アサンは眉をしかめたが、すぐに凶眼で向けて、
『擬態を解かんならそれでいい。そのまま死ねッ!』
そう叫ぶなり、アサンはその巨大な右手をコートの男に向けた!
直後、コートの男は後方に吹き飛んで、ビルの壁に勢いよく叩きつけられた。
「……? これは異能か?」コートの男は呟く。
「念動力の一種か。対象に手を向けるのが発動条件なのか?」
『……ふん。自分の異能の詳細を敵に明かして何の得がある?』
言って、アサンは右手をかざしたまま、間合いを詰めてくる。
一方、コートの男はフードの下で双眸を細めた。
「それには同感だよ。しかし、第四階位なのに異能持ちなのか。少し驚いたな」
『……減らず口を。今すぐ黙らせてやるぞ!』
――ズシンッ!
アサンの左拳がコートの男の頭部に炸裂した!
ビルの壁に放射状の大きな亀裂が入る。大型車両が衝突したような一撃だった。
『最期まで擬態を解かんとはな。格下だと侮るからそうなるのだ』
と、アサンは侮蔑の笑みを浮かべる――が、すぐに表情を強張らせた。
アサンの腹部にコートの男の爪先がめり込んだからだ。凄まじい衝撃。直後、二百キロ近い巨体が軽々と宙に舞い、今度はアサンがビルの壁に叩きつけられた。
『な、何だと……』
ガラガラと壁の破片と共に崩れ落ちながら、アサンは唖然とした。
まさか、擬態も解いていない蹴りで、自分の巨体が吹き飛ばされるとは――。
(いや待て!? そもそも俺の渾身の拳さえ全く効いていないのか!?)
信じがたい状況に目を剥いていると、コートの男が近付いてきていた。アサンの攻撃によるダメージをまるで感じさせない足取りだ。
「なるほど。手のひらを外すと自然と解けるのか。シンプルだが強力な異能だ」
『――クッ!』
アサンは立ち上がり、再び敵の頭部を殴りつけるが、ビクともしない。
まるで分厚い鉄の壁でも打ちつけたような感触だ。
『――な、何なんだ、貴様は!』
「……ああ、そうか。まだ名乗ってもいなかったか」
コートの男は告げる。
「僕は鬼狩りだ」
『……は? な、なん、だと?』
拳を突き出したままアサンが唖然とした、その直後だった。
――ズドンッ!
コートの男の後ろ回し蹴りが叩きつけられる!
アサンは五メートルほど吹き飛び、アスファルトに転がった。
『ぐ、あ……き、貴様、何が鬼狩りだ! 獣殻を使わん鬼狩りがどこにいる!』
「それは勘違いだ。獣殻ならずっと使っている。街中だったから形を変化させてただけだよ。と言うより、お前、本気で僕を妖鬼だと思ってたのか?」
コートの男は呆れた口調でそう告げた。が、おもむろに双眸を細めて、
「いや。確かにこの姿じゃ誤解も招くか。待っていろ。すぐ戦闘用に編み直すよ」
『な、なに? 編み直す?』
満身創痍ながらも立ち上がったアサンは眉をしかめた。
が、すぐにその光景を見て――表情が凍りつく。
いきなり眼前の男が纏う黒いコートが、銀色の帯となってほどけたのだ。
それは銀霊布と呼ばれるモノだった。霊獣が実体化した帯であり、それが巻き付くことで獣殻と化す。紛れもない鬼狩りの証である。そして、その銀霊布は消えることもなく、男の全身に再度巻きつき、徐々にその身体を巨大化させていく。
そうして数秒後、アサンは呆然と呟いた。
『……お、お前……何だ、その姿は……』
『……むしろ、こっちの方が誤解を招くか?』
鬼であるアサンを見下ろして、劇的な変貌を遂げた敵はそんなことを呟いている。
アサンは言葉を失っていた。
そいつの姿は獣――いや、まるで西洋の伝承にある『竜』のようだった。
まず全身を覆うのは、鋭い岩を思わせる黒い甲殻。先端部がやや赤い。頭部には前天へと伸びる太い黄金の二本角を持ち、アギトには剥き出しの白い牙が並んでいる。
双眸の色は真紅だ。膨れ上がるほどに発達した首回りと背面には青白く光る鬼火のような鬣を持ち、獣毛は肩回りも覆っていた。両腕は丸太のごとく太く、前腕部の甲殻は最も分厚く、鋭利な装甲のようだ。竜尾にも鬼火の体毛と甲殻を纏っている。
ただ、その手に武具は持っていない。そこだけは人間時と変わらなかった。
そうして、二メートル半にも至る巨躯を持つ黒い竜人は、わずかにひしゃげた恐竜のような足でズシンッと地面を踏みしめた。
『う、うお……』
ただ動いただけで気圧される。アサンは喉を鳴らした。
(ほ、本当に何なんだ、こいつは……)
鬼狩りにとって、獣殻の甲冑で覆われる部位はそのまま霊獣の格を示すはずだ。
その最高位は片腕を丸ごと覆うまでのはずなのだ。
しかし、目の前に立ち塞がる鬼狩りを自称する怪物は、片腕どころか全身を余すことなく覆っている。そもそも甲冑ですらない。完全に生物の姿だった。
(いや、待てよ)
そこで、不意に思い出す。
(そう言えば最近噂で聞いたことがあるぞ。海外から来たという、全身に獣殻を纏う正体不明の鬼狩りがいると。確かそいつの名は――)
アサンは眼前の敵を睨みつけて問い質した。
『……貴様、鬼狩りだと言ったな。まさか噂に聞く《魔皇》なのか』
その問いかけに、黒い竜人は足取りを止めた。
『……そんな大層な名前、自分で名乗ったことは一度もないんだが』
やや諦観じみた声でそう呟く。それは暗に質問の内容を認めた返答でもあった。
アサンの表情がさらに強張った。
(やはりそうなのか。くそ、最悪だ。なら、こいつが第五階位さえも単独で倒したという噂も本当なのか? くそ、くそ! どうすれば……どうすればいい……)
と、内心で焦りを抱きつつ、打開策をめぐらせていると、不意に竜人がクイクイと手を動かして挑発し始めた。
遭遇時の意趣返しか。いずれにせよ格下相手に対する態度だ。
『くそッ! 妖鬼をなめるなよ! この化け物もどきがッ!』
アサンは地を強く蹴り、再び竜人に殴りかかった。
とにかく今は攻撃を続けて隙を窺うしかない。そう判断したのだが、それは完全に彼我の戦力差を見誤った行為だった。
アサンの拳が届くよりも先に、竜人の右腕がゆらりと動いたのだ。
直後、アサンの顔が大きく歪む。強烈な張り手を横っ面に喰らったのである。首さえもげそうな威力に、アサンの体は回転しながら勢いよく吹き飛び、壁にまで叩きつけられた。鬼の巨体がコンクリート壁に半分近くもめり込んでいる。
『――ッ!? ぎいィ!?』
あまりの激痛にアサンは膝を崩した。
対し、竜人は一切容赦しない。おもむろに鬼の首を片腕で掴むと、もう片方の手も添え、アサンの巨体を軽々と持ち上げたのである。
『ぎィ? き、き、貴様、何を……ッ!』
いきなり逆さに担がれてアサンは蒼白になる。必死にもがくがビクともしない。とんでもない怪力だ。丸太よりも太い腕はさらに膨れあがり、まるで鋼のようだった。
続けて竜人は、そのままの状態で軽やかに宙を舞った。
『うおおおおおおおおおおおッ!?』
グングンと上昇し、アサンは絶叫する。
――ズズゥンッッ!
そうしてアサンは、五メートル以上の高さから脳天を地面に叩きつけられた!
アスファルトが放射状に砕け散り、アサンの意識は一瞬真っ白になる。あり得ないことに、妖鬼である自分が人間相手に『脳天落とし』を決められたのだ。
アサンの体重は百九十キロを超す。たとえ鬼狩りといえども、易々と担ぎ上げられるような重量ではない。こんな馬鹿げた技を食らったのは生まれて初めてだった。
『……が、はっ』
アサンは仰向けになって血の混じった息を吐いた。今の一撃で完全に首の骨がやられてしまった。時間があれば再生もするが、しばらくは動くこともままならない。
アサンの顔色が、どんどん青ざめていく。
(こ、こいつは人間なんかじゃない……。こ、殺される……)
一本角の鬼は地面を這いずりながら、必死の思いで震える掌を竜人に向けた。
念動力だ。もうこの異能に縋るしか生き残る術がない。
しかし、グニャグニャと歪む視界で竜人を見据えた時、アサンは絶句した。
『その異能はもう使わせないよ』
ズシン、とアサンに近付きながら、竜人は言う。
『悪いが時間もかなり押しているんだ。ここで終わりにさせてもらうぞ。なにせ妖鬼なんかよりもずっと怖い姫さまを待たせているからな』
そう言い捨て、黒い竜人は炎が溢れ出るアギトをアサンに向けた。
アサンは愕然として両目を見開いた。
信じられなかった。まさかこの化け物は――。
『火まで吐けるのか!? くそッ! くそくそッ! この化け物があああァ――』
アサンの絶叫が虚しく空に消えた。そして次の瞬間。
――ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!
路地裏に響く轟音。
それが、妖鬼アサンが最後に聞いた音であった。
「……これで今日の仕事も終了か」
焼け焦げた場所から第四階位の角を拾い上げ、その少年はそう呟いた。
妖鬼は死ぬと一気に劣化して土塊となる。まあ、今回は火の息吹に焼かれて土塊さえも残らなかったが、通常は自分の格を示す宝角だけを残して死ぬのだ。
代々の鬼狩りたちは討伐の証として、宝角を持ち帰るのを慣例としていた。しかるべき組織に受け渡して換金するためにだ。
ともあれ、これで目的は果たした。少年は首に片手を当ててコキンと鳴らし、
「けど、随分と時間を掛けたかな。由良、怒ってるかも。帰りにコンビニで何かお土産でも買っていった方が無難かな……」
そんなことを呟きながら、路地裏を後にするのであった――……。




