第五章 蠢動②
丁度その頃。
トン……、トン、と。
新城学園の制服を着たその男は軽やかに空を飛んでいた。
とは言え、本当に飛んでいる訳ではない。ビルの屋上から別のビルの屋上へと凄まじい脚力で跳び移っているのだ。
常人を超えた脚力。男が一般人ではない証だった。
「おらよっと」
と呟き、男は再びビルの屋上を蹴って空高く飛翔する。
地上からおよそ数十メートルもある危険な空中移動。足が竦みそうな状況だ。
しかし、男の顔には緊張した様子など一切ない。それどころか、両手はズボンのポケットに入れ、「フンフン~♪」と、陽気に鼻歌まで口ずさんでいる。
そうして約五分。優雅にさえ見える空中移動を繰り返している内に、
「おっ、いたか」
――ズザザザッ。
と、ビルの屋上の一つに着地するが、勢いよく跳び過ぎていたか、すぐには止まれず靴がコンクリートを擦り二本の線を描く。わずかにゴムの焼ける匂いがした。
「……っと。やれやれ、少しはしゃぎすぎちまったな」
と、口では反省するような台詞を吐く制服の男だったが、それ以上は大して気にしたそぶりもなく、ビルの淵へと向かって悠然と歩を進めた。
そして遥か下。地上の光景を覗き込んで、嬉しそうに目を細める。
「……ふっ。派手にやってんな」
男の瞳に映るのは、立ち並ぶビル群が偶然生み出したような薄暗い広場。そこでは今、剣戟を繰り広げる二人の人間がいた。
予想通りの状況に、制服の男はその場にしゃがみ込んでニヤリと笑う。
「クカカッ、まるで武者修行だな。まあ、頑張れよ坊や」
――ギイィンッ!
「……クッ」
自身の刃を大剣で弾かれた少年は、大きく後ろへと跳んだ。
だが、間合いを広げても安堵している余裕などない。少年の動きを追って大剣の斬撃が風を切って迫ってきたからだ。
「くそ!」
険しい表情を浮かべつつ、少年は咄嗟に刀で大剣を受け止めた。
刃同士がぶつかり合い、右肩近くで火花が散る。
「……ぐ、うッ!」
少年は呻き声を上げた。刀を握る手が衝撃に痺れる。少年は歯を食いしばった。
直撃はどうにか凌いだが、怖ろしく重い剣だ。このままでは、恐らく十数秒後には刀ごと両断されてしまう。危機的な状況だった。
(……くそ、なら!)
少年は賭けに出る。一瞬だけ大剣を防ぐ刀の力を緩めたのだ。
大剣を持つ相手は微かに目を瞠り、ほんの少しだけ重心を崩した。それは隙と呼べるようなものではないが、それでも離脱するのに充分な時間が稼げた。
少年は地面を強く蹴り、後方へと大きく跳躍した。
そしてズザザッと両足でアスファルトを擦り、少年は体勢を整え直す。
……はあ、はあ、はあ。
微かに荒くなった呼吸が口元から零れる。
すでに戦い始めて二十分。極度の緊張から身体には異様な熱がこもっていた。
少年は乾いた喉を鳴らす。と、
(……ああ、そういえば、あの日もこんな暑い日だったな)
不意に思い出す。
――そう。あれは五年前。ある夏の日のこと。
蝉しぐれが聞こえる庭園で、彼女は微笑んで言った。
『凄いですね。太刀筋がまるでブレていません』
あの時、彼女から告げられた言葉。
……我ながら、単純だと思う。
きっと彼女にとって、あれは些細な感想にすぎなかったのだろう。
五年も経った今、すでに彼女は忘れているかもしれない。
しかし、彼にとっては、とても大切な言葉となった。
その言葉だけで努力を続けられるほど、大切なものとなった。
そして、その言葉を贈ってくれた少女もまた、彼にとって大切な人となって――。
「……どうした? もう息切れか?」
侮蔑が混じったその呟きに、少年は意識を前に向ける。
そこには一人の男が立っていた。声の主だ。灰色の紳士服を着た壮年の男。
一見すると、要職を担うサラリーマンのようにも見える男だが、そうではない。
なにせこの男は片腕を完全に覆う獣殻を纏い、身の丈ほどの大剣を構えているのだから。
少年はすっと目を細めた。ここまでの立ち合いではっきりと理解する。獣殻の霊格が示す通り、明らかに自分よりも格上の鬼狩りだ。
(……強い。これが超一流か……)
全くと言っていいほど隙のない相手だった。だが、たとえ格上であろうが、少年に今さら退くことなど考えられなかった。少年は無言で刀を上段に構え直した。
「ふん。まだやるつもりなのか」
少年の戦意を前にして壮年の男は、わずかに大剣の柄を強く握りしめる。
しかし、ややあって小さく嘆息すると、
「……小僧。今回の一件、今ならまだ大目に見てやるぞ」
先達者として血気盛んな若者に寛大な言葉をかけるが、少年は何も答えない。
ただ刀を構えたまま、じりじりと間合いを詰めるだけだ。
「馬鹿な若僧が」不愉快そうに、壮年の男は舌打ちした。
「だったら……自分の愚かさを知るがいい!」
言って、壮年の男は大剣を水平に構えた。その立ち姿にも隙はない。幾度となく過酷な戦場を越えてきた戦士の構えだ。少年の表情がより一層引き締まる。
そして静寂が薄暗い広場に訪れて、
「いくぞ! 小僧!」
壮年の男が、ドンッと地面を蹴りつけて跳躍した。
大剣という重量級の武具を持ちながら、その速度は砲弾のようだ。
「――うおおおおおおおおおおおおおッ!」
それに呼応して少年――鷹宮修司も双眸をカッと見開き、咆哮を上げる。
同時に、彼もまた渾身の力を込めて強く地を蹴った。
そして鷹宮が持つ刀と、壮年の男が持つ大剣が交差して――。
――ザンッ!
路地裏に、斬撃音が響いた。
◆
「おお~~」
という感嘆の声と共に、パチパチ、と間の抜けた拍手が響く。
ビルの屋上にて、戦闘の一部始終を見物していた制服の男の拍手だ。
「やっぱそこそこの地力はあるみてえだな。やったじゃねえか。鷹宮の坊ちゃんよ」
格上相手に挑み、流石にヒヤヒヤするような危うい戦況ではあったが、それでも彼のお気に入りの坊やは勝利を掴み取った。
「クカカ、どうやら一皮むけたか。けどまあ……」
そこで制服の男は壁に手をつきながらふらついた足取りで路地裏から去ろうとする少年に目をやった。よほど消耗したのか、肩で息をしているのがはっきりと分かる。
今にも倒れてしまいそうな、何とも頼りない様子だ。
「オイオイ。まだ始まったばかりだぜ。頑張ってくれよな坊や」
制服の男は、やれやれと苦笑じみた笑みを浮かべた、その時だった。
「……ぐ、うぅ」
と、不意に下の方から呻き声が上がる。制服の男は声の方に目をやった。
その呻き声は、男の足元で倒れている灰色の紳士服をを着た壮年の男のものだった。先程まで鷹宮修司が戦っていた相手である。鷹宮が去った直後に回収しておいたのだ。
「ぐ、う、だ、誰だお前は……?」
壮年の男は呻きながら問う。が、すぐに眉根を寄せた。
「いや、その制服、新城、学園の……?」
「あ~、もう目を覚ましたのかよ。面倒くせえな。おらよっと」
壮年の男の問いには答えず、制服の男は、倒れ伏した状態の壮年の男の首根っこを無造作に掴むと、地面からひっこ抜くように振り上げた。
「――なッ、なんだと!」
壮年の男はギョッとして目を剥いた。今の何気ない動きだけで、七十キロはある自分の身体が宙に飛んだのだ。体感からして恐らく五、六メートルは浮いている。
「ば、馬鹿な――ガハッ!」
そして屋上の中央辺りで、壮年の男はコンクリートの床に叩きつけられた。
背中から身体全体に走る衝撃。呼吸さえ困難な激痛に、その場でのたうち回る。
「へえ。今ので死なねえとは、中々頑丈なおっさんだな」
呆れたような、もしくは感心したような声を上げ、ゴロゴロと床に転がる壮年の男に近付く制服の男。そして、のたうつ男の首を強引に靴の裏で踏みつける。
「グ、グガッ、き、貴様、さっきの小僧の仲間か!」
うつ伏せの状態で抑えつけられた壮年の男が、血が少し混じった唾液を飛ばしながら声を張り上げる。すると、制服の男はポリポリと頬をかき、
「いや、仲間って言われると少し違うな。まあ、強いて言うなら『味方』か」
「み、味方、だと……?」
「ああ、少々一方的な『味方』だがな。クカカッ、ま、そう気にすんなや。そんなの、お前には一切関係のねえ話だしな」
「くッ、う、お、俺をどうする気だ……?」
不安げな声で問う壮年の男に、制服の男はニヤリと笑い、
「ああ、悪りいがここで死んでもらうわ」
「――なッ!?」
「まあ、半ば閉鎖されてるような学園内なら別にいいんだが、流石に校外だとな。今、外で騒がれんのは色々面倒なんだよ。だから、死んでくれよ」
何とも気軽な口調で告げられた死の宣告。まるで冗談のようにも聞こえるが、壮年の男は自分の首を踏みつける男が本気であると即座に悟った。
「ま、待て! 俺は何もしゃべらない! さっきの小僧のことも……」
と、青ざめた顔で命乞いをするが、彼の言葉は最後まで言えなかった。
「いやあ、本当に悪りいな。まっ、恨むんなら、あんなひよっこ鬼狩り相手に無様に負けちまった自分の軟弱ぶりを恨んでくれ」
「や、やめ――」
――ゴキン。
と、異音が響く。途端、壮年の男の身体が大きく痙攣を起こした。
大量の血が屋上に広がっていく。そして一度、二度と痙攣を繰り返した後、男は一切動かなくなった。
それを見届けた制服の男は、おもむろにスマホを取り出し、
「ああ、俺だ。死体が出たから処理しておいてくれ。あン? 美少女なんかじゃねえよ。おっさんの死体だ。……はあ? 嫌だと? 選り好みしてんじゃねえよ! さっさと来やがれ! で、場所だが――」
今いるビルの番地を告げると、未だ文句を垂れる相手を無視して通話を切る。
「ったく。姐さんのとこの部下どもは聞き分けがいいのに、俺の下にはなんでこんなのしか集まらねえんだよ」
思わず天を仰ぎみるが、愚痴を零したところで現実は変わらない。
「まあ、しゃあねえか」
そう呟くと、制服の男は再びビルの淵まで近付き、眼下へと視線を向けた。
鷹宮修司の様子をもう一度確認するためだ。
しばし目を凝らす。と、男の常人離れした視力は鷹宮の姿を捉えた。ふらふらとアーケード街を歩いている。鷹宮の足取りは先程より酷く、まるで夢遊病者のようだ。
「……やれやれ、まだヘコんでんのかよ」
制服の男は、くつくつと笑い、
「けどよ、大丈夫だぜ、坊や。お前の望みは必ず叶うさ。なにせ、俺というとびっきりの『味方』が付いているんだからな」
そんな男の皮肉混じりの呟きは、風の中へと消えていった。




