第3章 焚き火の前で
その日の夜は、いつにも増して静かだった。
雪原を渡る風は弱く、ただ遠くの氷河がきしむ音だけが響いている。
リュカとカイルは小さな窪地に身を寄せ、焚き火を囲んでいた。
昼間の対峙で出来た傷を手当てし、ようやく落ち着いて座り込める状況になったのだ。
リュカは火を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……あんた、本当に危なかったのよ。
あと一歩遅れてたら……」
言いかけて息を吞み、唇を噛む。
カイルはその横顔をじっと見つめ、静かに言った。
「君がいなければ、私は間違いなく死んでいた」
「そんなの……わかってるけど、言われると困るわよ」
「なぜ困る?」
「……責任が重くなるでしょ」
リュカは顔を隠すように焚き火へ向き直った。
その肩が、わずかに震えている。
「私、傭兵の頃に……仲間を守れなかったことがあるの。
そのせいで、守るって言葉が……ちょっと苦手なのよ」
初めて聞く彼女の“弱さ”に、カイルは胸が締め付けられた。
「だから逃げた。
ここに来れば……もう二度と、誰かの命を背負わないと思ってた」
リュカは小さく笑って、自嘲の色をにじませる。
「なのに、あんたみたいな怪我人を見つけちゃってさ。
見捨てるどころか、王国まで送るなんて約束までしちゃって……
本当に、バカみたいでしょ」
「……バカではない」
カイルはゆっくりと首を振った。
「それは、優しいということだ」
「やめて。優しいなんて言葉、似合わないのよ」
「似合う。君はそれを恐れているだけだ」
リュカは驚いたように目を開いた。
カイルは焚き火の光に照らされたその瞳をまっすぐに見つめる。
「君は誰かを救った。それは偶然ではなく、君の本質だ。
逃げたつもりでも、真っ直ぐな心は隠しきれない」
「……あんたに、そんな大げさなこと言われても」
「大げさではない。
今日の私は、君の判断と勇気に救われた。
誰よりも強く、誰よりも優しい――君の力に」
リュカはうつむき、膝に手を置いた。
焚き火の熱が頬を赤らめているのか、彼女自身が照れているのか判別がつかない。
「……そんなふうに言われたら……守ってよかったって思っちゃうじゃない」
「それでいい。私はそう思わせたい」
「……うるさいわね。ほんと、あんたは真っ直ぐすぎるのよ」
リュカは少し肩の力を抜き、深く息を吐いた。
「でも……ありがとう。
あんたが生きてて、よかった」
その一言は、昼間の恐怖と緊張をようやく解きほぐすように静かだった。
カイルは胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
「リュカ。私も言わせてくれ。
——君が無事で、心から安堵した」
その言葉を聞いた瞬間、リュカの表情がわずかに揺れる。
「……あんた、本当に……騎士なのね」
「どういう意味だ?」
「誰かの無事を、当たり前みたいに願えるところよ」
リュカは照れ隠しのように笑い、火ばさみで薪を動かした。
炎がぱちりと弾け、火の粉が舞う。
その瞬間、彼女の顔にはほんの一瞬だけ、柔らかい笑みが浮かんでいた。
それは戦場を捨てた女ではなく、
誰かの生をそっと抱きしめる優しさを持つ“人間”そのものだった。




