第3章 氷原の影
旅立ちの朝は、珍しく風が弱かった。
雪原は薄い光を受けてきらきらと輝き、氷の粒が静かに空気中を漂っている。
「……思ったより歩けてるわね。無茶はしないでよ」
「君の支えがあるからな」
「支えてないでしょ。ただ歩幅を合わせてるだけよ」
そんな軽口を交わしながら、二人はキャンプ跡から北西へ向かって歩き始めた。
しばらく進むと、氷河の裂け目が複雑に入り組む《白霧の氷原》へ到達する。
「今日、越えるのはこの氷原よ。足場は滑るし、風が強い日は地獄よ」
「気を引き締めよう」
二人は慎重に足を運ぶ。
氷原には方角を狂わせる白い霧が流れ込み始め、視界は次第に白んでいった。
そのとき――
ガウゥォォォ……ッ!
低く、腹の底を震わせるような咆哮が響き渡る。
「……今のは」
「北方熊。最悪のタイミングね」
リュカが言い終えぬうちに、霧の中から巨大な影が一歩、また一歩と姿を現した。
白い体毛は霜をまとい、爪は人の頭ほどの長さ。
鼻先から吐く蒸気は黒く濁り、怒りを示している。
体長三メートル級――谷で最も危険な捕食者だ。
「リュカ……これはさすがに、退くべきでは?」
「あんた、今の身体で戦えると思ってるの?」
「……思っていない」
「なら逃げるわよ! ついてきて!」
リュカはカイルの腕を掴み、氷原の溝へ向かって走り出した。
だが、その瞬間――
ドンッ!
北方熊が氷を砕きながら猛突進してきた。
足場が揺れ、バランスを崩しかける。
「止まるな! 一気に走れ!」
「う、うむ!」
二人は溝へ飛び込み、狭い通路に身を滑り込ませた。
熊は大きすぎて追いづらいが、その分、怒り狂った爪が頭上から振り下ろされる。
バギィィッ!!
氷壁に爪痕が刻まれ、破片が二人に降りかかる。
「くっ……! このままじゃ押しつぶされる!」
「だから言ったでしょうが、氷原は危険だって!」
リュカは素早く腰袋から小さな金属筒を取り出す。
「カイル、耳をふさいで!」
「えっ——」
リュカは迷わず筒の輪を引き抜き、上へ投げる。
カンッ! ……ドォォォン!
まばゆい閃光と衝撃音が爆発した。
北方熊が一瞬、怯んだようにのけ反る。
「今よ! 走る!」
二人は溝を抜け、氷原の反対側へ滑り込むように走った。
熊は追ってこようとしたが、爆音で方向感覚を狂わせたのか、別方向に進み始めた。
息を切らしながら、二人は雪の丘の影に身を隠す。
「……はぁ……っ、助かったのか?」
「ええ、まあ。あの子は音に弱いからね」
リュカは額の汗を拭きながら、カイルを確認する。
「怪我は?」
「……少し転んだだけだ。君は?」
「大丈夫よ。慣れてるし」
そう言いながらも、リュカの手は微かに震えていた。
カイルはその震えを見逃さない。
彼は静かに言った。
「……怖かったのは、君の方だろう」
「は? 何言ってんのよ」
「私はまだ戦えない。もし君が倒れたら……私は何もできずに死ぬところだった。
君はその恐怖の中で、私をかばって走ってくれたんだ」
リュカは呼吸を整えながら、顔をそむけた。
「……別に。
あんたを助けるって言ったんだから、責任を果たしただけよ」
「それでも、ありがとう」
その言葉に、リュカの心臓が少しだけ跳ねた。
「……もう、先急ぐわよ。あんたのせいで死にかけたんだから」
「あぁ。君についていく」
二人は息を整え、氷原を進む。
追ってくる熊の影はもう見えないが、緊張だけは残っていた。
しかし、その緊張の中で、カイルは確信する。
この旅は、ただ国へ帰るだけの旅ではない。
自分を変える旅でもあるのだと。
そしてリュカもまた——
心の奥底で、彼を守る理由が少しずつ変わり始めていることに気付いていた。




