第2章 旅立ちの支度(前半)
カイルを救ってから十日が経った。
依然として寒波の谷は凍てついた風で満ちているが、テントの中だけは焚き火の熱と煮込んだスープの香りが漂っていた。
「動くのはまだ早いわよと言ったけど……だいぶ顔色は良くなってきたわね」
リュカは鍋の中をかき混ぜながら、横目でカイルを見やった。
男は簡易ベッドの上で上半身を起こし、包帯の巻かれた腕を軽く動かして確かめている。
「君の手当のおかげだ。痛みはまだあるが、歩くぐらいなら問題ない」
「歩くぐらいって……油断したらすぐ倒れるわよ」
そう言いながらも、リュカはどこか嬉しそうだった。
彼の生気が戻りつつあるのを目にするたび、胸の奥が静かに緩んでいく。
カイルはリュカの様子に気付き、柔らかく微笑んだ。
「君は、本当に優しいな。表情には出さないが」
「は? 優しくなんかないわよ」
「では、なぜ十日も看病を続けた?」
「……死なれたら後味悪いからよ」
ぶっきらぼうに言い放つが、声の端がわずかに照れている。
カイルはその変化に気付いたが、指摘しないでおいた。
■外の世界へ
「今日は……外の空気を吸ってもいいか?」
「まだ早いと思うけど……まあ、テントのすぐ外ぐらいなら。歩けなければ私が引きずって帰ってくるだけだし」
「引きずる……それは避けたいな」
二人はテントのフラップを開け、まばゆい白銀の世界へ踏み出した。
空気は鋭く頬を刺すが、太陽が薄く雪を照らし、幻想的な光景を生み出している。
カイルは深く息を吸い込み、微かに目を細めた。
「……美しい場所だな。寒さは厳しいが、心が洗われるような静けさがある」
「気に入った? 私はここが好きよ。余計なものが何もないから」
「なるほど……君がここに来た理由が、なんとなくだがわかる気がする」
リュカは言葉を返さず、雪を踏みしめながら歩き始めた。
カイルもゆっくりとその後に続く。
肩を並べて歩くのは、これが初めてだった。
■獣の痕跡
「気をつけて。ほら、あそこ」
リュカが指差す先、雪原に大きな足跡が残っていた。
深い爪痕と重い体重の沈み。大型獣のものだ。
「……これは?」
「北方熊よ。この時期は腹を空かせて凶暴になってる。運が悪いとテントごと襲われるわ」
「それは……恐ろしいな」
「だから旅立つ前に、火薬玉と罠をいくつか用意する必要がある。
ほら、戻るわよ。準備を始めないと」
リュカは振り返り、彼を気遣うように歩幅を緩める。
カイルはその気遣いを感じ取り、静かに礼を言った。
「ありがとう、リュカ」
「何に対してのありがとうよ」
「……歩く速度を合わせてくれているだろう」
リュカの頬がわずかに赤くなる。
「べ、別に……倒れられたら困るだけ」
「ふふ……そういうことにしておこう」
「……うるさい」
やりとりは小さく、しかし確実に二人の距離を縮めていた。
■旅立ちの覚悟
テントに戻ると、リュカは地図を広げた。
カイルは簡単な椅子に腰掛け、真剣な眼差しでそれを見つめる。
「ここから王国まで……大きく迂回して歩く。最短でも二ヶ月はかかるわ」
「二ヶ月……その間、敵が再び追ってくる可能性は?」
「ゼロじゃないわね。狙われて落とされたなら、あんたの生死を確認しに来る者がいてもおかしくない」
リュカは地図の上に小さな石を置き、進路を示す。
「森、氷原、山脈……全部危険地帯よ。
でも、行くしかないんでしょう? 王国が危ないんでしょ?」
「あぁ……君の助力がなければ、私は帰れない。どうか……頼む」
リュカはしばし沈黙したのち、真っ直ぐな瞳で男を見返した。
「もう決めたのよ。
あんたを王国まで“無事に”送り届けるってね」
その言葉には、かつて傭兵として人を守るために剣を握った頃の強さが宿っていた。
カイルは胸の奥が温かくなるのを感じ、深く頭を下げた。
「……心から感謝する、リュカ」
「気にしないで。どうせ一度助けたら最後まで面倒見る性分なのよ、私は」
そう言いながら、リュカの瞳にはほんの少しだけ笑みが浮かんだ。




