第18章 影が名を名乗る夜
夜は、異様なほど静かだった。
風は止み、雪も降らない。
焚き火の炎だけが、岩壁に揺れる影を映している。
リュカは無意識に、弓の弦を指でなぞっていた。
「……おかしいわね」
「何がだ?」
カイルは火の向こうで、剣を膝に置いたまま顔を上げる。
「ここまで来て、
影狩りが“姿を見せない”のが」
リュカは周囲を見回す。
「クロウなら、もう追いついていてもおかしくない。
なのに……音も、気配も、何もない」
その言葉が終わる前だった。
ぱち……
焚き火が、突然音を立ててはぜた。
——違う。
それは、薪がはじけた音ではなかった。
誰かが、火に小石を投げた音。
リュカとカイルは、同時に立ち上がった。
「……気づいていたか」
低く、静かな声。
闇の向こう、焚き火の光が届かない場所から、
一人の男が歩み出てきた。
黒衣。
無駄のない動き。
獣のように静かな足取り。
クロウ・ザハル。
リュカは弓を構えたまま、声を落とす。
「……随分、礼儀正しい登場ね」
「隠れて殺すこともできた。
だが、それでは意味がない」
クロウは両手を見せ、ゆっくりと近づく。
「今夜は“話をしに来た”」
カイルの目が鋭くなる。
「話だと?
騎士を狩る影が、よく言う」
「だからこそだ、騎士長」
クロウは、初めてはっきりとカイルを見た。
「お前は死ぬ運命にある。
だが——
“理解したうえで死ぬ権利”くらいは与えよう」
リュカの背筋が、ぞっとするほど冷える。
「……ずいぶん、傲慢ね」
「結果を知っている者は、常に傲慢だ」
クロウは視線をリュカへ移す。
「狩人の女。
お前は、ここまで本当によくやった」
「褒め言葉なら要らない」
「惜しいと思っている。
お前ほどの腕を持つ者は、そう多くない」
クロウは淡々と告げた。
「——だから提案だ」
焚き火の炎が、三人の影を揺らす。
「今すぐ、騎士長から手を離せ。
この場を去れ。
そうすれば、お前は見逃そう」
空気が、凍りつく。
カイルが一歩前に出ようとした瞬間、
リュカがそれを制した。
「……断るわ」
即答だった。
「私は“人を選別する殺し屋”と取引する気はない」
クロウの眉が、わずかに動く。
「考え直す時間を与えても?」
「必要ない」
リュカは弓を下ろさず、真っ直ぐに睨み返す。
「私はね、
この人を守るって“選んだ”の」
クロウは、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
その声には、怒りも失望もなかった。
ただ、決断だけがあった。
「ならば——
明日、決着をつけよう」
クロウは一歩下がり、闇へ溶けていく。
「夜襲はしない。
それでは“選択の結果”が見えない」
最後に、振り返って言った。
「夜明けとともに、
狩りを終わらせる」
次の瞬間、
彼の気配は完全に消えた。
■嵐の前
沈黙が戻る。
焚き火の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……本気だな」
カイルが低く言う。
「ええ。
遊びは終わり。
明日は……正真正銘の“殺し合い”よ」
リュカは弓を置き、深く息を吸った。
「……後悔してる?」
そう聞くと、カイルは首を振った。
「一切ない」
迷いのない声。
「君がここに立っていること。
それ自体が、私の答えだ」
リュカは小さく笑った。
「……ほんと、逃げ道塞ぐの上手ね」
「逃げる必要はない。
共に立つだけだ」
二人は焚き火の前に並んで座る。
夜は長い。
だが、迷いはもうなかった。
夜明けとともに、狩りは終わる。
生き残るのが誰か——
それを決めるのは、明日の一瞬だ。




