第15章 読まれぬはずの道
雪はほとんど降っていなかった。
それにもかかわらず、クロウ・ザハルは足を止めた。
森と岩場の境界、かつて人が行き交った痕跡が完全に消えた地点。
「……妙だな」
彼は膝をつき、岩肌と雪の境をじっと見つめる。
足跡はない。
匂いも、乱れた枝も、踏み荒らされた雪も。
あまりに、何もなさすぎる。
「逃走者は、ここで“消えた”」
部下の一人が低い声で言った。
「罠の可能性は?」
「違う」
クロウは即答した。
「罠を張る者は、必ず“痕跡”を残す。
彼女は違う。
痕跡を消し、“選択そのもの”を隠した」
立ち上がり、周囲の地形を見渡す。
正面は、比較的歩きやすい山道。
右手は川沿いの氷原。
そして左——崩れた岩場と雪に覆われた細い通路。
人が使わなくなった、古い交易路。
部下が眉をひそめる。
「……まさか、あそこを?」
「だからこそだ」
クロウの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「合理を捨てる判断ができる者は、そう多くない。
だが……あの狩人は、“合理より生存”を選ぶ」
彼は岩場に近づき、指先で岩肌をなぞる。
風にさらされていない、微細な雪の欠け。
人の体温でわずかに溶け、再凍結した跡。
「……通っている。
しかも、慎重に」
部下の一人が息を呑む。
「隊長……あの道は危険すぎます。
獣の巣、崩落地帯……」
「だからこそ、影狩りの領域だ」
クロウは淡々と答えた。
「危険な場所ほど、獲物は油断する。
“敵は来ない”と思い込むからな」
彼は部下たちを振り返る。
「分隊を二つに分ける。
一つは正面の山道を進め。
痕跡がなくとも、音と匂いを拾え」
「では隊長は?」
クロウは交易路の闇を見据えた。
「私が行く」
「単独で、ですか?」
「十分だ。
あの狩人は優秀だが——」
一瞬、クロウの目が細くなる。
「“守る者”ができた瞬間、人は必ず遅くなる」
冷たい断定だった。
「騎士長を守るため、彼女は判断を分け合い始めている。
それは強さでもあるが……同時に、隙でもある」
クロウはフードを深くかぶる。
「その隙を突く」
風が吹き、雪煙が舞う。
影狩りの部下たちは音もなく散開し、
クロウはただ一人、忘れられた交易路へ足を踏み入れた。
■影の独白
岩場を進みながら、クロウは淡々と考える。
(狩人の女……)
(殺すのは惜しい。あれほどの技量……)
(だが、目的のためには排除するしかない)
足元の岩がわずかに崩れた。
クロウは即座に体重を移し、音を最小限に抑える。
「……見事だ」
思わず、誰にともなく呟いた。
「この道を選ぶとはな」
彼の脳裏には、倒木の罠、偽装された足跡、
そして霧の中で一瞬交わった“視線”が浮かぶ。
「だが……狩りは、もう終盤だ」
前方に、かすかな“匂い”が漂っていた。
焚き火ではない。
人の体温と、血と、布の匂い。
「……見つけたぞ」
クロウの足取りが、わずかに速くなる。
それは焦りではない。
確信だった。
一方その頃、交易路のさらに奥で——
リュカとカイルは、まだこの事実を知らない。
影は再び、確実に距離を詰めていた。




