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地鳴り

掲載日:2010/05/02

 何でこんな事になってしまったのか、これからどうすればいいのか。頭が混乱していて、整理がつかなかった。

 夕方の公園の中の木立の中を、まるで富士の樹海のような気分で歩いた。雑木林のをぬけるとベンチがあり、そこに腰かけた。古びたボストンバッグをとなりに置いて、大きく息をつく。

 つい一時間前までは、部屋で横になっていたのだ。古雑誌をめくって、うとうととしていた。こんな事になるなんて夢にも思っていなかった。

 突然、一階に住む大家さんが訊ねてきた。

「ああ、大家さん。いつも、お世話になっています。どうぞどうぞ」

 俺は、今まで二つ折りにして、枕になっていた座布団を広げ大家さんに勧めた。この部屋に唯一の座布団だ。大家は一瞬ためらうようにしてから、こわごわとあぐらをかいた。

「お茶、入れましょうかね……」

 俺はガス台を指さして、大家さんの顔を窺った。

「いや、そんなことはいいですから、ちょっと話を聞いて下さい……」

 大家さんは七〇歳になるという健康おたくだ。酒もタバコもやらずに、毎朝、ジョギングをしている。聞くところによると、ここ六十年風邪さえもひいていないという。背中はしゃんと伸びて、白くなった髪は豊かだ。

「例の件ですがね……」

 大家さんは曇りない瞳を向けて話し始めた。内容は言われる前からわかっていた。早い話、家賃を払ってくれ、ということだ。三ヶ月払っていない。

「あとで、必ず払いますから……」

 俺だって、払えればすぐに払う。お金が無くて払えないのだ。失業してしまって、お金が無くなってしまったのだ。

 大家さんもそのことは知っていて、やや気の毒がっているふしもあるにはある。俺が、すいませんね~、と謝ると、わかりますわかります、とでもいうふうに二度ほど深々と肯いたりする。

 でもこの大家さんは、親から引き継いだもともとの地主だから、俺のような下流庶民の現実を完全には理解できない。最終的にはお金を払わせようとする。ひどい話だ。だって、こちらの事情がわかるなら、もうすこし待つことにするとか、かわりに払ってくれるとかあるではないか。

 このひどい大家さんは、今日は鬼のようになっていた。

「払えないのなら、出て行ってもらわなけばなりませんが……」

「そんな……」

 俺は、言葉を失った。

 頭に血が昇った。

 こんな冷血人間にこれ以上かかわりたくなかった。出て行こうじゃないか。行き先に心当たりはないけれど、ここにはいたくないという気持ちが上回った。

 俺はボストンバックに身の回りのものを手当たり次第詰め込んで飛び出した。


 公園のベンチの前は広場になっている。小さな公園だ。噴水もオブジェもない。ベンチの前の広場といったって狭い。道が広がった程度だ。小学生が相撲する程度しかない。

 だから、誰も何もしていない。時々、公園の中を抜けていく買い物帰りの主婦が通るだけだ。俺を避けるように小さな広場の端っこを通っていく。主婦の手に提げられるスーパーの袋は俺がいつも行く店のものだ。

 俺はあのスーパーでいつも食料と酒を買う。

 ああ、腹が減った。それよりもなりよりも、今は酒が飲みたい。

 俺はボストンバッグをあさり、財布を取り出すと中身を確認した。酒代くらいはある。しかし、今後のことを考えると無駄遣いは控えるべきだ。

 今後? どうなるのかもわからないのに、いくら必要になるかもわからない。

 俺は混乱してきた。

 この混乱を沈め、このさきどうしていくべきか、ちゃんと考えなくては。この混乱を沈めることが最優先課題だ。混乱を沈める方法……。俺は深呼吸をすると荷物をかかえ、酒を買いに行った。


 俺はアル中ではないが、失業してからは酒がないとダメになった。酒を飲んでないと落ち着かないのだ。酒を飲んでないと、惨めになるのだ、空気に押し潰されそうになるのだ。

 酒を飲み始める時間が早くなった。夜が待ちきれず夕方には飲み始めた。それがだんだん、昼からになった。ここ数日は昼に起き出して、顔を洗うと、酒を飲んでいた。

 アル中の定義は何だろう。もしかしたら、俺みたいのをアル中というのかもしれん。まあ、よくわからんが。それならそれでもかまわないが。

 俺はスーパーで買ってきた、ワンカップを口に運んだ。透明な液体が咽を滑り落ちていく。うまい。

 少し気持ちが落ち着くと、さっきの大家さんとのやり取りをまた、思い出した。

「仕事紹介しようか?」

 俺がボストンバッグに荷物を押しこんでいると、大家さんが背中に声をかけてきた。どうせ、ろくな仕事じゃあるまいと思いながら、俺は、どんな仕事が訊ねてみた。駅前の大型家電販売店に知り合いがいるというのだ。以前に世話した事がある人がそこで管理職をやっているというのだ。

「ありえませんよ」

 俺は呆れ果てた。よりによって、駅前の大型家電販売店の就職口とは。俺は失業前、電気屋をやっていたのだ。父親から譲り受けた店が倒産したのは、その駅前大型家電販売店に客を取られたからだ。そんな、かたきの店で働けるわけがない。俺にだって、ちょっとくらいはプライドがある。

 でも、その駅前大型家電販売店ができる前に、店のオーナーが挨拶に来たことがある。いろいろ、筋の通ったような通らないような話をしていったのだが、あのときちょっとだけ俺のプライドをくすぐっていったのだ。

 もし、その大型家電販売店にきてくれたら、幹部として迎えます。この町と家電とを結ぶ先駆者としてやってこられた経験を買いたい。いつでも待っていると。

 ワンカップを流し込み、空を仰ぐ。悪い話ではないのか。一昨年、死んでしまった父親が生きていればなんというだろうか。


「カントク、なにやってんですか、こんなところで」


 明け方に夢を見た。数年前のことが夢に出てきた。

 俺は少年野球の監督だった。日曜日の朝、河原のグランドに行くと子供たちが騒いでいた。近づいていくと、みんなは輪になっていって中心に誰かがつったっているようだ。。いじめと言うほどではない。冷やかし程度だ。

「ほら、なにやってんだ! 練習練習!」

 俺は大声でみんなでグランドを走るように指示を出した。

 いじめの原因を探るとか、悪いものを裁くとか、考えたこともなかった。みんなで野球をやるという、厳しくも楽しい目的に向かわせるだけだった。

 三年間、監督をやった。子供のいない俺が、大勢の子供と向き合った。遊びのつもりが、本気になっていた。本気でチームのことを考えて、試合に勝てば子供以上に喜んだ。


「カントク、風邪ひいちゃいますよ」

 誰かに肩を揺さぶられて、俺は目を覚ました。酒を飲んで、そのまま公園のベンチで眠ったのだった。

 半分寝ぼけたまま、俺を起こした人の顔を見る。子供だ……。

「カントク、おはようございます」

 俺のことをカントクと呼ぶ子供は……。思い出した。

「おお、信一か」

 俺は体勢を直し、ベンチに座り、隣のスペースを示して信一にも座るように促した。

 二人は早朝の公園で並んで腰かけた。空は明るんでいるが、二人の他に人影はない。まだ出勤、通学には時間がある。木立の中で、かん高い鳥の鳴き声がしている。

「カントク、こんなところで何してるんですか」

 信一が俺の横顔に視線を向ける。

「ああ、寝てた……」

 とぼけた返事に信一の表情が緩む。

「おまえ今、六年生だったかな」

「はい」

「身長伸びたな」

 信一は照れ臭そうに目をそらした。無口な少年である。


 信一の家に入るのは初めてだった。信一に引っ張り込まれたのである。シャワーを浴びさせてくれるという。

 信一の家は公園の隣のアパートだ。部屋から、見えたのかと訊ねると、ええまあと答えた。

 母親と二人暮らしという部屋は、質素で無駄なものがひとつもなかった。たぶん必要なものも、無い物があるのだろうと思わせるような広さだった。

 シャワーを使わせてもらった。狭いシャワールームには、トイレとユニットバスがすれすれに設置されていた。俺はユニットバスの中に仁王立ちになって頭からお湯をかけた。

「カントク、扉の前にバスタオル置いておきます」

 扉ごしに、明るい声が飛びこんできた。

「おう!」

 なんだか、気分が良くなって、思わず偉そうな返事をしてしまった。

「おまえ、おふくろさんどうしたんだ」

「仕事に行きました」

 俺がシャワールームから訊ねると、すぐ返事があった。

 信一の家は母子家庭だから、母親が働いているとは聞いていたが、こんなに早くから働きに出ているとは、驚きである。さっき、信一に起こされたのが六時だったから、まだ六時半にもなっていないはずだ。どんな仕事をしているのか、聞いたことがあるような気もするが忘れてしまった。

 俺が頭を拭きながらシャワーから出てくると、ちゃぶ台に朝食が並んでいる。ご飯も味噌汁も二人分ある。頭を拭く手が止まった。ギョッとして、信一を見る。

「カントク食べましょう」

 信一が白い歯を見せた。

「こんなこと……。お前気を使わなくて良いんだぞ」

 俺は、ちょっと困ったように信一を覗きこんだ。

「でも、母ちゃんが、そうしろって……」

「おふくろさん、俺が公園にいたこと知ってるのか?」

「うん。母ちゃん、仕事行くとき、公園でカントクが寝ているのを見かけたんです。それで、すぐに家に戻ってきて俺に言ったんです。カントクをすぐに家にお連れして、シャワーを使ってもらって、朝食を食べてもらって、布団に寝てもらえって」

 俺は、何だが複雑な気持ちになった。

 俺と信一は向かい合って、信一が作ったという朝食を食べた。目玉焼きに、ポテトサラダ。味噌汁には豆腐が入っていた。小学六年生が作ってくれた朝食は、旅館の朝食よりもありがたくて、おいしくて、昨夜も酒ばかりで何も食ってなかったこともあり、三膳も食べてしまった。食ったら、眠くなった。隣の和室には布団が敷いてあって、信一はどうぞと言ったが。俺は、我慢した。

「おまえ、学校だろ。家の人がいない部屋で、昼間っから眠るわけにはいかないだろ」

「じゃあ、学校休みます。カントクが起きるまで部屋にいます」

「バカ言ってんじゃねえ」

 信一は学校休むというのは冗談だったようで、笑っていた。

 行くところがあると、嘘をついて俺はアパートを出た。玄関から出るとき、背中に声がかかった。

「また、夜になったら来て下さい。母ちゃんが、カントクに夕飯ごちそうしたいって。必ず来て下さいね」

 俺は何も言わず、笑顔で片手を上げて、出て行った。


 信一の母親の手料理を食べさせてもらった。

 鶏の唐揚げが大皿に山盛りになっていて、お刺身がズラリと並び、コップにはよく冷えたビールがつがれた。

 こんなにもてなしを受ける理由が良くわからなかったけれど、昼食を食べていなかったので大食いになってしまった。それで、さんざん腹いっぱい食べてから、理由を尋ねてみた。

「だって、うちの息子がカントクにただならぬお世話になりましたから」

 父親がいないために、野球チームに入れないでいた信一をチームに迎えたのは、俺の一存だった。チームの父兄たちからの反対を押し切って、信一の母親を説得して、信一にユニホームを着せてやった。

 実際のところ、信一以上に野球をする資格を持っているものなどいなかったし、信一に野球をさせないことはあり得ないことだと思った。あのとき、俺は信一のことばかり考えていた。


 あれは、四、五年前のことだ。

 俺は少年野球チームの監督だった。毎週日曜日の午後一時に河原のグランドに集まって、練習したり、試合をしたりしていた。

 選手は、三十人ぐらいいただろうか。父兄もよく参加してくれて、にぎやかだった。

 そんなグランドを眺める、一人の少年がいた。土手の斜面にちょこんと座って、グランドの練習を眺めていた。毎週である。きっとチームに入りたいんだろうと思った。練習が終わった後、チームの子供にあの土手の少年を知っているか訪ねた。するとひとりの下級生がクラスメイトだといった。

「あの子、一緒に野球やりたいんじゃないかな。何か言ってなかったかい」

 すると、その子はもじもじとして、小さい声になった。

「あいつね、母子家庭なんです。だから、お金無いから野球チームには入れないって……」

「それ、誰が言ったんだい?」

 俺が怒りを抑えて訊ねると、

「お母さんとか……」

「とか……? 誰?」

「友達とか」

「そんなこと言ったって、このチームの月謝なんて安いもんじゃないか」

 いつのまにか、俺の声は尖っていた。子供は俯いて黙ってしまった。

 俺は、土手に目をやった。さっきまで座っていた少年が、立ち上がってこちらをジッと見ている。自分のクラスメイトが叱られていると思って驚いたのかも知れない。

「きみっ!」

 俺は右手を挙げて少年に呼びかけてみた。

 少年はちょっとびっくりした様子だったが、素早く後ろを振り返ると、走り出した。あっという間に、土手の向こうに消えてしまった。


 その翌週は雨だった。雨の時の、練習中止の判断は監督の一存で決まる。昨夜からの雨だったし、雨脚も強い。今日の夕方まで強い雨が降り続けるとの予報だった。

 俺は迷わず、チームの連絡網を使って中止の連絡を流した。

 数分後には連絡網の最後の子供から電話が来た。練習が中止になってうれしそうな声だった。

 俺は部屋の窓から雨を眺めた。家の前の道路を、宅配便のトラックがワイパーを激しく動かしながら通っていく。昼間だというのに空は暗くヘッドライトを灯している。

 ひどい雨だ、たまの雨の日に選手たちは何をやっているのだろう。普段野球ばかりやっている小学生だから、こんな日くらいは家でテレビでも見ているのだろうか、ゲームでもしているのだろうか。

「あ、あいつ、まさか!」

 俺はふいに思い出して、傘をつかむと大雨の中に走り出した。グランドに向かう。すごい雨だ。誰もいないだろう。そう思おうとした。でも、胸騒ぎが静まらなかった。

 川沿いまでたどり着いて土手に上がる。ゴーッという地鳴りのような音がする。川が異常とも思える水量に溢れかえり、激流になって流れていく。俺は地響きのする土手の上をグランドに向かって歩いた。靴の中まで濡れていた。

 グランドが見えてきた。土手の斜面に目をやる。いつも少年が座っている辺り。人影はない。よかった。俺は少し安心した。まだ、チームに入っていない少年が、中止と知らずにグランドに来ているのではないかと心配したのだ。

 グランドに着いた。誰もいない。木、一本もない河原には大粒の雨が叩きつけるように降っていた。大粒の雨が地面や水面で跳ね返り、しぶきになって辺りを白く煙らせていた。

 俺は振り返り、家路に向かった。その瞬間、雨に煙るグランドでなにかの影が動いたような気がした。気のせいだと思った。でも目は、バックネットの辺りに吸い込まれた。動く人影がある。目を凝らし、よくよく見る。

 あの少年だ。バッターボックスに立って棒きれを手にしている。少年は見えないピッチャーから投げられた、剛速球を打ち返し、ホームランを打った。バンザイしながらダイヤモンドを一周して、見えない仲間に祝福を受けていた。

 大雨の中でびちょびちょに濡れてたったひとりで野球をする少年に釘付けになった。俺は長いあいだ、少年の姿を追い続けていた。


 翌週、選手たちに紅白戦をやらせた。土手に目をやると、あの少年が来ていた。しゃがんで、食い入るように試合を見ている。

 俺は少年から遠ざかるように横に向かって歩いた。そして、遠回りして少年に接近した。土手の上から少年の背中に迫り、少年の横に腰を下ろした。少年がアレッて顔でこちらを見る。俺は笑いかけた。

「今日は良い天気だね」

 そういいながら、俺はチームの帽子を少年に差し出した。少年は怖がって手を伸ばさない。俺はその帽子を少年の頭に被せた。

「一緒に野球やろうよ」

「でも……」

 少年は戸惑いながら、頭から帽子を脱いでしまった。両手にとって、チームのマークを見つめ、それをそっと指でなぞった。

「何も心配いらない。月謝はいらない。古いヤツだけど、ユニホームも、グローブもあげる。チームのみんなは良い子ばかりですぐに友達になれる。野球だって一生懸命やっただけ上手になるよ。レギュラーにだってきっとなれる。試合に出てヒットを打ったら、かっこいいぞ」

 少年は、瞳を輝かせた。


 俺はその日の夕方、少年の母親に挨拶に行った。野球チームに迎えたいという話をすると、母親は喜んだ。

 月謝はちゃんと払いますという母親の主張は揺るがなかった。そうは言っても、今回は自分が少年を誘ったといういきさつがあるのだから受け取れないと俺も頑張った。でも最後は母親の頑固さに俺は折れた。

 俺も子供のころから、裕福でない家庭で育ったから、その気持ちは良くわかった。限りある家計をやりくりするとき、最優先するのが、他人に迷惑をかけないように、ということだった。

 母親は少年がチームに入ることを、この上なく喜んでくれた。少年は、なにも趣味がないのだという。好奇心旺盛な子供なはずなのに、どうしてだろうと、母親は考えていたらしい。もしかしたら、家が貧しいから、家計に負担をかけないように、遠慮をしているのかもしれない。母親は、少年に趣味がないことを自分の責任のように感じて苦しんでいたのだという。

 雨の日に見た少年のことを話すと、知りませんでしたと言って、ハンカチで目頭を押さえた。


 この、母親思いの少年が信一だった。


「カントク、仕事しないとダメですよ」

 信一が洗いざらいのタオルで汗を拭きながら言った。

「おまえ、そんなに汗かいてどうしたんだ」

 俺は早朝の公園のベンチで寝ているところを信一に起こされたのだ。

 梅雨の晴れ間で、朝からムシムシとしいていた。

「いま、新聞配って来たところだから」

 信一は新聞を配っていたのか。そんなことも知らなかった。

「そうか、おまえ偉いな。俺は働いてなくて、ダメだな」

「いえ、カントクそうではなくて……」

 信一が返答に窮してしまう。やはり、まだ小学生なのだ。

「新聞配達は大変だろう、朝起きるの辛くないか」

 信一の顔が明るくなる。

「いえ、全然。最初は眠かったけど、今はもう馴れました。早起きは、気持ちが良いです。僕は新聞休刊日にも早起きだけはするんです」

「そうか」

「カントク、このまま仕事しないつもりなんですか」

「いや……」

 俺は自分の気持ちがまだ整理できていなかった。あの日、大家さんにアパートを追い出されてから、ずっとこんなふうに公園暮らしだ。時々、信一の家のシャワーを貸してもらっている。

「仕事をしないつもりというわけではないんだ。ただ、気持ちの整理ができていないんだよ」

「カントク、こんな所で寝泊まりしていたら、いつまでも考えなんかまとまりませんよ。働かないと。働いて、ちゃんとした家に住んで、それから考えるんですよ」

「生意気言うになったな」

 俺は優しく言った。

「だってこれカントクの言葉じゃないですか。考える前に動きだせって。やることは決まっている。ボールが飛んできて、エラーをしてしまったら、すぐに拾う。なぜエラーをしたのかとか、どうしたらエラーしないでいられたのかなんて、考えてる場合じゃない、って。今の監督はエラーをした選手と同じですよ。早く、ボールを拾わないと……」

「……うん」

 驚いた、俺そんなことを言ったことがあったんだ。覚えていない。

「カントク、しっかりして下さい」

 参った。信一に完全に飲まれてしまっている。公園で寝泊まりしているうちに、エネルギーが衰えてしまったらしい。

 信一の言うとおりだな、何でも良いから仕事をしよう。仕事をしながら、考えれば良いのだ。いろんなことを。どうしてこんなことになってしまったのか。信一はどうしてこんなに良い子なんだろうかとか。信一の母親は美人だなとか……。

「カントク、行きましょう」

 信一は俺の腕をとって立ち上がらせた。どこへ行くんだ? またシャワーを浴びさせてくれるのか。エネルギー不足で考えが言葉にならなかった。俺は無言で、小学生に立たされた。

 信一は俺の荷物を持って、俺の腕を引っ張り始めた。家の方角とは違う。うまく歩けない。足がもつれる。

「カントク、社長に掛け合ってみましょう。仕事やらせてもらえるように僕、頭下げます」

「……シゴトって……?」

 震えるような声が出た。

「新聞配達ですよ。社長とってもいい人なんです。困ったことがあったら何でも言えよっていつも言ってくれるんです」

 そうか、信一の周りにはいい人がたくさんいるのだ。母親とか、社長とか。お金より、大切なモノをたくさん持っているから、こんなに素直で良い子になったのだろう。

 でもまて、それはそうと俺に新聞配達なんてできるか。歩くのでさえ足がもつれるというのに、重い新聞を山のように積んで、バイクや自転車などに乗れるのだろうか。

 俺の腕を掴む信一の手を見ると、節くれ立っている。小学校六年生とは到底思えない、大きくてたくましい手だ。苦労をしているのだろう。顔はまだあどけなさが残るというのに、手だけは既に世間の苦労に立ち向かっている。胸が締めつけられた。いけねえ、呼吸が苦しい。これでは無理だ。新聞配達なんてできそうにない。でも、希望の瞳を朝日に照らされている信一に言い出すことができなかった。


「ただいま戻りました!」

 信一が大きな声を出して、販売店に入っていった。俺は俺は腕をとられたままだった。数人の新聞配達員が不審そうな顔で俺を見た。みんな俺よりもはるかに若い。どの顔も日に灼けてたくましい。

 信一は部屋の奥までどんどん俺を引っ張っていく。奥の机には中年の男が座っていた。鼻に老眼鏡をかけて、新聞を広げている。近づいていく我々に目をやった。

「ああ、信一。おかえり、おつかれさま」

 男は心のこもった声をかけた。

「こちらは?」

 男は俺のほうに掌を向け、信一に尋ねた。

「社長、こちらは私の恩師の大和田カントクです。社長にお願いがあります」

 信一が首をぺこりと下げた。俺も突っ立っているだけでは間抜けなので、腰を曲げてお辞儀をした。

「はじめまして……」

 俺が小さな声で挨拶すると社長も、

「ああ、はじめまして」

 と、感じのよい挨拶を返してくれた。

 信一がことの説明をする間。社長は物わかりのよさそうな顔で黙って聞いていた。背後の方で、配達員の若者たちが聞き耳を立てている。

「なるほどわかった。大和田さん、二丁目の電気屋さんだったんですか」

 信一が話し終えると、社長は俺に尋ねてきた。

「はいそうです」

「そうですか。あの電気屋さん知ってますよ。うちでも配達してましたしね。あなたのお父さんのことも知ってます。将棋を指したことがあります」

「え?」

 おどろいた。父を知っているとは、確かに父の趣味は将棋だった。けっこう強かった。地元の将棋クラブにも属していて、通っていた。では社長は将棋クラブの人なのだろうか。

「一時期、私も将棋クラブに入っていましてね。私は弱いんですけどね、お父さんにはいつも負けてましたけどね。まあ、われわれも近所付き合いが商売の基本みたいなとこがありますからね……」

「それは、それは父がお世話になりました」

 俺は、頭を下げた。

 社長は笑いながら、俺のお辞儀を制した。

「では、明日からでも。来てもらえますか?」

 俺はここで戸惑った。やはり、体力に自信がない。周りの足を引っ張ることになったら、申し訳ない。

「その……。仕事はしたいのですが、実は……」

 俺は正直な気持ちを口にした。

「わかりました。では最初は屋内作業をやってもらいましょう。広告の折り込み、倉庫の整理、電話の応対、いろいろありますが一番期待したいのは、勧誘です」

 社長はそういうとケラケラと笑った。社長もこちら同様正直な気持ちを言ってくれたのだ。俺は急に胸の中が温かくなった。

「ありがとうございます。全力で頑張ります。よろしくお願いします」

 俺は深々と腰を折った。

 社長が右手を伸ばしながら椅子から立ち上がった。俺はその手を握った。信一がにこにこと目を細めていた。


 新聞販売店では寮まで使わせてくれた。六畳一間だけれど、公園で寝るのに較べれば天国だった。

 いちにちは午前二時に始まる。配達員と新聞輸送トラックがくる前に、店を開け、明かりを付ける。

 仕事はすぐになれた。一週間は屋内作業をやっていた。酒はやめた。酒が抜けると、背中に力が戻ってきた。社長に言うと、バイクを一台与えてくれて、それで配達もするようになった。若者の仲間も増えて、楽しかった。

 毎日を充実して過ごす日々が始まった。ホームレスをやっていた、十日間が嘘のようだった。電気屋で経営に行きづまって苦しんでいたことさえ、夢のような感じだ。


 新しい生活は、順調そのものだった。季節は秋になっていた。あるとき、社長に呼ばれた。朝の配達が終わり、俺は店の三階にある寮の自室に戻っていたところ、社長がやってきたのだ。

 俺と社長は一階の店にもどり、椅子に座った。

「大和田君、いつもよくやってくれて助かっとるよ」

「いえ、こちらこそ、こうして仕事させていただいて感謝しております」

 と半年たった今でも、他人行儀の残る挨拶を交わした後、社長はすぐに本題を切り出してきた。

「どうかね、大和田君。ちょっと力を貸してはくれんかね」

 社長は困り切った顔をして、続けた。

「実は、経営の方にも君の力を貸してもらいたいんだ」

「経営といいますと?」

「うん。まあ、はっきり言えば、今のわが社の経営状態はくるしい。自転車操業そのものだ。いつ倒産してもおかしくないんだ。わしも何度も苦しいところを乗り越えてきたが、今度ばかりは……」

 語尾を濁らせることのない社長が珍しく言い淀んだ。

「お力になれるかは分かりませんが、私にやれることならば、この店の役に立つことなら、協力したいと思いますが、いったいどんな状況ですか」

 俺は話の先を促した。

 社長は厳しい状況を、たんたんと説明した。もう、社長にできることは全てやり尽くしていてこれ以上やりようがなかった。

 数ヶ月前、俺が電気屋を潰してしまったときと、まるで似た状態になっていた。長引く不景気で、経営が楽な会社など存在しない。規模の小さい会社から、一つまた一つと、この世の中から姿を消していく。

「俺に、いったい何ができますでしょうか」

 社長は頭を振った。

「すまんが、それも考えてくれないか」


 俺は信一の母親に恋していたようだった。

 そのことには早くから気がついていた。しかし、その気持ちを育てることよりは、ためらう気持ちの方がはるかに上回った。それはそうというものだ。小学校六年生の子供がいるのだ。これから、難しい年齢にかかろうというときに、たった一人の家族である母親と信頼している近所の大人とが結婚などしようものなら、心のバランスを失ってしまいかねない。あくまでも俺は近所のおじさんと言うことで外部からの応援が望ましいと思っていた。それに、だいたい、その母親の気持ちだって、俺に対してそんな甘い感情はひとつもないと思っていた。


「カントクは結婚しないんですか?」

 そう、信一が聞いてきた。

「しないわけないだろう。そのうちするよ。……たぶんな」

 俺は、信一の家の夕飯に招かれていた。信一の母親が俺の誕生日だというので呼んでくれたのだ。よく冷えた白ワインと母親のイタリア料理で、俺は気持ちよくなっていた。この女性は料理が上手だ。


 母親は駅に近いお弁当屋さんで働いていた。俺もちょくちょく弁当を買いに行く。昼食、夕食と一日に二回、利用することもある。

「大和田さん、いらっしゃい。今日は良いお天気ですね」

 店に入ると母親は、カウンターの向こう側で信一に似たニコニコの瞳を向けてくれる。


 イタリア料理は初めて作ったいという母親は、料理がちゃんとできていたか、何度も俺に尋ねた。

「パスタのゆで加減がはどうですか?」

 とか、

「サラダのドレッシングはうすくありませんか?」

 とか。

 不安そうに俺を覗きこむ目元が子供のようだった。

「ものすごく、おいしいです。こんなにおいしい料理生まれて初めて食べました」

「誉めすぎですよ」

 と、母親は少し口を尖らせて、そのあと愉快そうに笑った。俺もつられて笑った。

「ねえ、カントク、誰か結婚考えてる人とかいるんですか」

 信一はさっきから、おかしな質問ばかりする。俺は首を振った。

「俺、もてないからな……。お前はどうだ。結婚考えてる人いるのか」

 と、むちゃくちゃな質問をしてみた。

 信一は困ったように否定してから、

「ねえカントク、相手が子持ちだとかって気にしますか」

 なるほど、信一が言いたいことはわかった。

 信一はどうやら、母親と俺とを結婚させたいらしい。なんと無邪気でうれしい気持ちなのだ。しかし、小学校六年生でこの無邪気さとは……、節くれ立った手とのギャップにとまどう。

 母親は信一のこの質問を止めようとしない。お皿を片付けながら、耳を澄ませて、俺の返答を待っているようだ。

 部屋に、妙な間が空いた。

「そんなこと、気になんかしないさ。でも、その場合、その子供が俺を父親として認めるかどうかが一番の問題だからな」

「それは大丈夫」

 信一が間をおかず、即答した。

 俺は母親を見た。体を横に向け、下を向いていた。

 俺は信一に視線を戻し、呆れて叱るように言った。

「おまえ、わかんないこと言うんじゃない」

「えへへ」

 と信一は頭を掻いた。


 三、四日雨が続いたあとの晴れで俺は気分が良かった。雨の日の新聞配達は普段の三倍の疲労を伴う。それを三日以上も連続でやると体は感覚をなくすほど疲れ果てる。俺ほどではないが若者たちも口数は少なくなり、動きが重くなる。

 昼近くになって、俺は信一の母親のお弁当屋に足を向けた。良いお天気になりましたね、という言葉を聞きたかった。ところが俺は、お弁当屋に入る直前で足を止めた。中に入れなかった。閉じられたままの扉には閉店のお知らせが貼ってあった。

 突然の閉店だった。扉のガラスの部分から中を覗くと明かりはなく薄暗かった。いつも弁当を並べていたショーケースはそのままそこにあるのに、弁当は一つも並んでいなかった。

 俺は振り返った。なんだか、近くに信一の母親がいるような気がしたのだ。でも誰もいなかった。俺は道を引き返し始めた。

 歩道に大きな花輪が出ていた。来るときには気がつかなかった。それは新しいお店の開店の飾りだった。人が行列をなしている。中を覗いてみる。お弁当屋さんだった。看板を見上げてみる。テレビのコマーシャルでも見たことのある有名なお弁当屋さんだった。

 そうか、信一の母親の店が閉店になってしまったのはこのせいだったのか。この店が悪いわけではないが、俺はやはり穏やかな気持ちではいられなかった。しばらくそこで立ち止まっていた。次から次へと人が列に加わっていく。新しい店に客を取られていく。かつて自分の電気屋がやはりそうして倒産してしまったことが鮮明に蘇った。

 新聞販売店の経営も苦しいままだ。まるで、真綿で首を絞められるように一日一日その苦しさは増していっている。社長に相談されたけれど、俺にできることはあまりなかった。せいぜい、勧誘活動で一軒でも多くの契約を取ることだけだった。

 とはいっても、時代の流れだろう。新聞を取らない人が多くなっていた。他紙に流れているならやりようがあるのに、ライバルはインターネットであり、テレビだった。時代の風を受けた巨大な敵に立ち向かう術は無かった。


 数日後、新しい弁当屋に行った。弁当の食事が習慣になっていたし、またその道を歩くことが体に馴染んでもいた。

 俺はそこで、信一の母親を見かけた。新しい弁当屋の奥の調理場に立っていた。


 俺は店頭の若い女の子に注文をして、弁当が出てくるまでの間、母親の横顔を見ていた。母親は、やつぎばやに飛びこんでくる注文を消化するのに忙殺されていた。

 ところが、ふと一瞬こちらを見た。俺の視線に気がついたのかもしれない。母親はばつが悪そうに目を逸らした。

「おまちどうさまでした」

 若い女の子が目の前に弁当を差し出していた。俺はそれを受け取ると、歩き始めた。


 まずは生きることだ。俺たちはみんな時代の激流に流されている。生きること……。

 俺は歩いていた。むごいまでの不景気に怒りを感じながらも、その中で傷つきながらも負けずに生きようとする人々に感動していた。

 俺は感動で震えながら歩いていた。

                  (お わ り)


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