第六話 迎賓サロンにて、交わる視線と乱入者
ラーガン家の迎賓サロンは、陽光の加減まで計算された優美な空間だった。
淡いミントグリーンの壁に銀の装飾が静かにきらめき、窓辺には季節の花が控えめに揺れている。訪問者を迎え入れるには申し分のない格式がありながら、威圧感はなく、どこか居心地のよさを残していた。
ジージー・ラーガンは、シャオジーに対して丁寧にティーカップを差し出す。
「本日はようこそ、シャオジー嬢」
社交辞令をさらりと織り込んだ声音はやわらかく、しかし逃げ場のないほど自然だった。
「ツオチャさんが……お礼を言っておられたものですから」
シャオジーは視線を紅茶の表面に落とす。
思えばこうして形式的な挨拶をジージーと交わすようになったのは、最近のことだ。子どもの頃はもっと——呼吸を合わせずにいられた気がするのに。
その間、ジージーは笑っていた。どこまでも自然で、完璧な笑顔。けれど——
(……この人の笑顔は、少しだけ、作りものだ)
そんなことに気づいてしまった日が、確かにあった。
「姉の本、読んでくださったんですね」
ジージーが話題を切り出す。シャオジーは微かに肩を揺らした。
「ええ。……すごく、濃密でした。というか、暴露本というより……痛快でした」
ジージーは笑いを深める。
「あれを“痛快”と言えるのは、君くらいかもしれませんね」
「……つまり君は、未だに自分が“仕方なく結婚相手候補にされている”と信じて疑わないわけだね?」
ソファに腰かけたジージーは、頬杖をついてシャオジーを見つめていた。
「ええ。お父様同士が懇意で、わたくしが、まあまあ無難で……断らなさそうだから、という理由だと思っていました」
「君は、“無難”でも“断らなさそう”でもないよ。むしろかなり尖ってるし、断る気満々だと思っていたけど?」
「……断る気満々については否定はしません」
ジージーがふっと笑う。今日の彼の笑みには、珍しく棘が混ざっていた。
「じゃあ、どうしてだと思う? 君がこの婚約話に“選ばれた”理由」
シャオジーは言葉を失う。
彼女の胸の中には、未だに自分が“好かれるはずがない”という確信が根を張っていた。
だが、それでも。
(ジージーお兄様は、なぜか、私のことを……)
「君が、他人の“気づかせたくない部分”を感じ取ってしまうのは、欠点じゃない。……そういう君を、私は見逃せなかった」
その言葉に、シャオジーは目を見開いた。
(それは……選ばれた理由?)
「おや、思ったより穏やかに進行中だな」
サロンの扉が開き、ザンシー・ダーラオがふらりと現れた。
この迎賓サロンは、社交関係にある家々にとって“気軽に立ち寄れる場”でもある。とはいえ、ザンシー・ダーラオほど勝手な客も珍しい。
彼は勝手知ったる顔で、何の遠慮もなく室内へ足を踏み入れた。
その声に、シャオジーは思わず身をこわばらせる。
「どうして、あなたがここに?」
ザンシー・ダーラオ子爵家の令息。ジージーとは年も近く、何かと付き合いのある家柄だと聞いていたが、シャオジー自身とは、ほんの数度、社交の場で言葉を交わしたにすぎなかった。
そのわずかな接点の中でも、彼の態度はどこか値踏みするようで——何より、シャオジーの沈黙や気弱さを、面白がって突こうとする雰囲気があった。
彼の前では、うっかりネガティブをこぼすこともできない。そう思わせる相手だった。
ザンシーは飄々と肩をすくめる。
「ジージーに用があってね。使用人に“伝えてくれ”と言ったら、そのまま通されてしまった」
全く悪びれる様子もない。
「……ラーガン家の警備体制、緩くなったな」
ジージーが小さく呟いたが、それは一種の皮肉にすぎなかった。ザンシー・ダーラオがこういう男であることは、よく知っている。
「ところで、お邪魔だった?」
ザンシーがにやりと笑うと、シャオジーは小さく首を横に振った。
「いいえ、どうせわたくしは……用件を済ませたら帰るつもりでしたから」
ザンシーはサロンの広いソファに腰を下ろす。
「まさか、こんなところで君に会うとはな。ここのところ、ラーガン家の内情、実に興味深いよね?」
その言葉に、シャオジーの背筋がわずかに強ばる。
ジージーはその様子を冷静に見つめていた。
(ザンシーは相変わらずだ。表面は陽気に振る舞うけれど、何かを探っている。いや、探っているのは俺も同じか――)
沈黙が三人を包んだ。
シャオジーは、胸の奥でざわめく不安を必死に抑える。
(でも、ジージーがいるから、きっと大丈夫)
ジージーが口を開いた。
「君には関係のないことだ。そっとしておいてくれ」
ダーラオは軽く笑いながらも、その眼差しには鋭い光が宿っていた。
「ふむ、ジージーらしいな。だが、お前も知っているだろう? 世の中は計算と策略の場だと」
シャオジーは、気を抜けば簡単に滑り落ちてしまいそうな“計算と策略の海”を笑顔で渡っていくジージーを想い、胸が締めつけられた。
なぜそんなふうに思ってしまったのか、自分でもわからず、戸惑いを覚える。
「ここにはそんな世の中を、堅固な石橋をかけて、それを叩いて渡るご令嬢がいるからね。シャオジー、外交の秘訣でも教えてくれよ」
ジージーが微笑を向ける。
シャオジーは少し照れながらも答えた。
「わたくしの外交は失敗だらけだから、失敗例を並べるしかないの」
ジージーは軽く笑い、やさしく言う。
「失敗から学べば、それが一番の武器になる。君はすでに強い」
三人の間に、ほんの少しだけ和やかな空気が戻った。
それでも、誰も口にしないまま、部屋の外では、新たな動きが静かに始まっていた。