第二話 ネガティブ令嬢の抗議
「こんな話、聞いてませんでしたわ!」
怒鳴るつもりはなかったのに、思わず声が上ずっていた。
屋敷の書斎で父に詰め寄った私は、もはや取り繕うこともできず、怒りと困惑をそのまま言葉にしていた。
「“婚約”とおっしゃいますけれど、あれは子どもの頃の呼び名の延長ではありませんでしたの? 社交シーズンのたびに顔を合わせて、ただの“ジージーお兄様”だったじゃありませんか!」
父、シエンシー・ベイガンは、困ったように眼鏡を押し上げた。中堅貴族の当主らしい堅実な顔立ちで、無用な争いを避けるタイプの人間だ。だからこそ、こういう場では話がややこしくなる。
「確かに“仮”の婚約だ。だがな、シャオジー。あの格上のラーガン家からの申し出は、我が家にとっても信用の証だ。無下に断れるようなものではない」
「では、わたくしの意思は?」
「……シャオジー」
父は少し視線を外し、微妙に言いよどんだ。
「お前のネガティブ思考によってうちが危機回避できたことは一度や二度ではない。確かにそれがわが家の経営を支えてきたのは事実だ。だが一方で、お前の将来の選択肢を狭めているのではないかと、私は案じている」
「わたくしの思考は、計画的警戒です」
「それもよく分かっている」
父は苦笑しながら書類を閉じ、ぽんぽんと軽く手のひらで叩いた。
「だが、ジージー君はそれを受け入れてくれている。あの子は昔から、お前のネガティブを“可能性”として見てきたじゃないか」
──可能性?
何を言っているのか分からない。だってジージーお兄様は、いつだって太陽のように前しか向いていなかった。私とは真逆の人間。違う生き方。別世界。
それなのに――
「“君のように最悪を想定してくれる人がそばにいれば、僕は何も恐れず進める”……そう言ってたよ。ジージー君が」
「…………!」
胸の奥が、少しだけ、ざわめいた。
そんなこと、聞いていない。
そういう風に見られたことなんて、あっただろうか。
これまでの人生で一度でも、誰かに肯定されたことが――。
いや、そんなはずはない。きっとお父様の聞き間違いか、勘違い。
「でもお父様、ジージーお兄様は……“外交の星”なのですわよ? それにラーガン家は、家訓が“生きてるだけでぼろ儲け”だって、笑い話のように言われていて……」
「実際、あの家は儲かっている」
「真面目に返さないでください」
はぁ、と深くため息をついた。結局、抗議に来たはずが、半分自滅している。
でもこれは、人生がかかっている話なのだ。私という人間にとって、何かを決めるには“十分すぎる懸念”が必要になる。
そして今は、なにもかもが“懸念だらけ”。
仮初とはいえ婚約なんて、破滅の始まりにしか思えない。
けれど――
「……わたくし、近いうちに断頭台へ送られるのかもしれません」
そう言ったとき、隣で笑った“ジージーお兄様”の横顔が、脳裏にちらりと浮かんだ。
あれほど“通じない人”だと思っていたのに。
彼だけは、なぜか私の言葉を“ちゃんと聞いて”笑ったのだ。
それは少し、奇妙な感覚だった。




