第十話 『超ネガティブ令嬢の婚約』、仮題にあらず
本の装丁がやたらと現代っぽいのはあまり気にしないでください
——思った以上に、シャオジーは使える。
ツオチャ・ラーガンは、書きかけの原稿を前にして頬杖をついた。
《『超ネガティブ令嬢の婚約』——愛される自信も、好かれる理由も、何もないと信じていた彼女が、それでも選ばれた理由。》
そこまで書き込んで、手を止める。
「問題は、ここからなのよね……」
最初の一歩としては、想像以上の素材だった。あの紅茶の話、彼の“笑顔の裏”に気づいてしまったこと。ネガティブという名の鎧を纏って、他者の優しさに気づいても、そこから一歩が踏み出せない乙女。
書きたくなるに決まってる。
「でも……今のままだと、ただの“素材提供者”よ、あの子」
あまりにも“受動的”すぎる。
まぶしいものを見ては目を逸らし、希望らしき何かに触れてはすぐに引っ込める。
このままでは、物語としての“芯”ができない。
「どうしたものかしらねえ……」
紅茶のカップを手に取り、ひと口すする。
——そう。ここで、“変化”がいる。
読者が期待するのは、陰の中に差し込む光だ。そして、それを受け入れようと葛藤する姿だ。
「ジージーの方からの“好意”は見えつつある。なら……彼女の方が、もう一歩、踏み出さないと」
意図的な“揺さぶり”が必要になる。
放っておいては、あの子は一生、自分の中の“地獄”にすら慣れて、居座ってしまう。
「ネガティブ令嬢、あなたの幸せは、もうすぐそこにあるのに」
ツオチャは、再びペンをとると、新たな用紙に次の章の見出しを書き込む。
《第五章:笑顔を見て、泣きたくなった日。》
その指が一瞬、止まる。
「……まずいわね。私のほうが、感情移入しすぎてる」
物語を書くときに、何より気をつけなければいけないのは、自分の私情だ。
だけど今回は、少し違う。
「これは、私の物語じゃない。でも——私が書かなきゃ、誰も書けない物語」
小さく笑って、またさらさらと筆を走らせ始める。
その背後で、ツオチャの暴露本『夫よ、あなたはフィクションにしてやる』シリーズ四部作の第一作、『麗しの仮面夫婦』の書影ポスターが誇らしげに壁に貼られていた。
——タイトルが、決まっていた。
シャオジー・ベイガンは、読んではいけないものを見てしまったような気分で、ツオチャ様の机の上のメモを凝視した。
『超ネガティブ令嬢の婚約』
それは、もともと仮題だったはずだ。冗談のように呼ばれていた、あくまで内部用のメモだったはず。
なのに、それが——メインタイトルとして、でんと置かれている。
(これは……これはもう確定ですわ。出版されるんです。全国書店に、並ぶんです。恥を晒すにもほどがあります)
原稿の進行状況メモには「第六章まで初稿完了」とまで書かれている。
(第六章!? そこまで!? いささか速筆すぎではありませんか!? 私が“紅茶でジージーお兄様の疲労を察した件”が第五章とするなら、その次は……!)
嫌な予感しかしなかった。
しかも、机の上に転がっているのは、過去のツオチャ様の代表作『麗しの仮面夫婦』の再販帯付き見本誌。その帯には——
《真実か、妄想か——すべては“彼女”の視点で描かれる。》
「……まずい。これは本格的に、終わりの始まりですわ」
ツオチャ様が“愛情”と称して“好奇心”をぶつけてくるとき、それは地獄の始まりである。
そして今、彼女はあろうことか筆がノッているらしい。
(ジージーお兄様にも、きっと知られてしまうのですわ……! 私が、どれだけみじめで、情けなくて、妄想癖で、気弱で、非社交的で、どこまでも後ろ向きで!)
そのとき——
「シャオジー嬢」
「ぴゃっ……!」
背後からかけられた声に、思わず肩が跳ねた。
「ご、ごきげんよう、お兄様……!」
「そんなに驚かなくても。僕、幽霊じゃないよ」
彼は、いつもの微笑でそう言った。でも、その目は——少しだけ、前より長く、私を見ていた。
「さっき姉さんとすれ違ったら、何やら原稿が進んでるって喜んでたよ」
「っ……っっっ……!」
ツオチャ様、余計なことをぺらぺらと……!
「でもね、僕は気づいてた」
「……え?」
「君が、姉さんの創作意欲に“利用されてる”ってこと。だけど君は、怒ったり嫌がったりしなかった。……僕の知る限り、ずっと」
それは、誰にも気づかれないと思っていたところに、スポットライトを当てられたような感覚だった。
「……だって、断ったら……ツオチャ様、傷つかれますし」
「それだけじゃないだろう? 君は、誰かの役に立つならって、つい自分を後回しにする」
——見透かされていた。
でも、嫌ではなかった。
「……それって、悪いことですか?」
「いいや。好きだよ、君のそういうところが」
まただ。
また、お兄様は、そんなことを、さらっと言って……。
でも今回は、逃げなかった。
胸の中に渦巻く恥や自己嫌悪や、無数の“ありえない妄想”を抱えたまま、それでも、顔を上げて彼を見つめた。
「……ありがとうございます」
ジージーは少しだけ目を細めて、優しく頷いた。
「その本のタイトル、気になるかもしれないけど——最後のページは、君が決めるんだよ」
「……わたくしが、ですか?」
「うん。君が、自分の物語をどう終わらせたいか。それだけが、本当の意味での“結末”だと思うから」
その言葉が、胸に深く、柔らかく染み込んでいった。
——私は、自分の物語を、自分で終わらせられる?
——だったら。
——だったら少しくらい、進んでみてもいいのかもしれない。
ツオチャ・ラーガン著『夫よ、あなたはフィクションにしてやる』シリーズ四部作
既刊:
第1作『麗しの仮面夫婦』
※自分の元夫がモデル。話題沸騰の代表作。
第2作『夫婦という名の契約書』
※実在の貴族夫妻をモデルにした暴露風創作
第3作『愛と保守義務』
※若干リーガル寄りのアプローチで話題に
第4作『夫婦間戦争とその終戦協定』
※ややファンタジックな比喩が多く、評論家ウケがよかった
新シリーズ、乞うご期待!




