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突然だが、私は春という季節が大嫌いだ。
春になって外に出たりすると、不快な感じがして憂鬱になる。
それは秋も同じだった。
きっと私という人物は、過ごしやすい季節ほど過ごしにくいと感じるのかもしれない
もっとも、冬は冬で精神状態を崩しやすくなるので、それが的を射ているかどうかは分かりかねた。
唯一、普通の気分で過ごせる季節は夏だけ。
夏はひたすら暑く、汗が出て不快でうっとうしいが、それでもまだましのほうだった。
春の香りのする街の中を自転車で走りながら、私はそんなことを考えていた。
やはり春は不快極まりなく、二度と嗅ぎたくない臭気を発していた。
自転車で風を切って走っていれば、嫌でも春の独特な香りを嗅ぐことになるので、正直自転車よりもタクシーを使って目的地まで行きたかったが、今は急を要するため、そんなことに気を使っていられなかった。
タクシーで行くよりかは、自転車を使ったほうがずっと早いからだ。
今は姉さんの元へ急ぐのみ。
ショットバー「レイン」には、十分足らずの時間で到着した。
私はショットバー「レイン」の出入り口のドアを前にして、急に怖気づいてきた。
心臓の鼓動は早くなり、呼吸は乱れに乱れた。
臆病な私でも、勇敢になれるだろうか、そう私は不意に涙ぐんだ。
落ちこんでいる女性を励ませるほどの器量があるとは、私には到底思えない。
精々私ができることと言えば、おかしなことを言って人をドン引きさせることくらい。
それ以上のことをするとなると、それは私の範疇ではなくなる。
果たして私のような者が女性を励ましていいものかどうか。
それについて突き詰めていくと、それではここに来た意味がなくなる恐れがあるので、これ以上は考えることをやめた。
私は木製のドアをゆっくりと開き、ショットバー「レイン」へと足を踏み入れた。
ブラックのフローリングに立つなり、私は自分が場違いな存在に思えてきた。
I字カウンター席は十席程度、バーテンダーは二人。
偶然か、それとも必然か――客は女性客、姉さん一人だけのようだった。
姉さんはさっきと同じ服装だった。
ということは、あのまま武蔵小杉にいたということか。
引き締まった顔つきの男性バーテンダーから、目配せを受けた。
私は深呼吸をしてから、姉さんのそばのカウンター席にそっと座った。
何杯飲んだのか知らないが、姉さんは少々酔っているようだった。
赤くなった顔がそれを物語っている。
私はバーテンダーに適当なショートカクテルを頼んでから、姉さんに声をかけた。
「大丈夫ですか。紅葉のように顔が赤くなっていますよ。だいぶ飲まれたのでは?」
「……あたしね、本当はお酒飲んではいけないんだよ」
「それはどうして」
「精神科の薬を飲んでいるから。……飲み合わせが悪くて」
バツが悪そうに姉さんは顔を伏せた。
私は姉さんが飲んでいるお酒を、まるで毒物かのように凝視する。
「……大丈夫、ですか」
「そんなことより、あたしの精神のほうを心配してよ。意地悪」
姉さんはギロリと私をにらむと、お酒を一息に飲み干した。
聞いたことのないお酒をバーテンダーにオーダーした姉さんは、再び私を睥睨した。
私はにらまれたことへのマゾヒズムにより、一時的にゾクッとした。
しかし、それはすぐに恐れへと変わった。
私は首を振って、その感情を奥に押しやった。
「今つらいことは、なんですか。あなたの気持ち、受け止めるだけ受け止めますから」
「じゃあ言うけど」
「はい」
「……きみが憎くてつらい。……あたしの手で殺してやりたい」
「…………」
「きみが憎いの。きみがあたしをつらくしている。きみを殺してやりたい」
最初、聞き間違えかと思った。
だが、それは聞き間違えではないことを、姉さんの二回目の言葉で思い知る。
「……どうして」
私はそれだけ言葉を絞り出した。
姉さんはそっぽを向くと、「そんなこと、きみは知らなくていい」とあくまでも隠したいようだった。
私が吐息をもらすと同時に、バーテンダーからオーダーしたカクテルがテーブルに置かれた。
私はカクテルに口を付けた。
アルコールのクセのある苦味と果実の甘味が口の中いっぱいに広がり、私はカクテルが食道を流れてからも、後味を楽しんだ。