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武蔵小杉も変わった。
つい先日、オープンしたばかりの武蔵小杉の複合商業施設「グラン」
昼過ぎ――そこの人工芝とウッドデッキのある屋上庭園で、私は春の姿をした休日の街中を見渡しながら、そのように思った。
私がこの街の人間だから、そう思うのは至極当然なこと。
ではあるものの、私は怒濤の武蔵小杉の再開発に対し、急激ともいえる変化に戸惑いを覚えていた。
子どもの遊び場だった古き良き武蔵小杉は、再開発という名の思い出破壊を受け、いつの間にか近代的な街へと変貌を遂げていた。
住みやすい街になることは喜ばしいことではあった。
それは否定しない。
だが、私たちの武蔵小杉はすっかり壊されてしまったのは事実だ。
ここは私たちの「小杉」だ。断じて、あなたたちの「ムサコ」などではない。
私は武蔵小杉に潜む見えない敵をにらみつけ、一方では武蔵小杉に深い愛を注ぐため、唇だけ笑った。
そんなときだ。
私の隣でタピオカティーを飲んでいた洒落た服装の女性が不意に笑い出したのは、そんなときだった。
「ふふっ、なんだかきみ、この街を怪獣のように踏み潰したい、っていう顔をしてるね。きみが良ければ、警察に通報してあげるよ。
――大丈夫、まだ引き返せるから、どうか早まらないで」
私をバカにしている笑い声ではあるが、決してそれはいやらしくはなく、むしろとても上品な笑い声に聞こえた。
というか、この目がぱっちりとした中肉中背の若い女性、ひとつひとつの仕草が洗練されている。
一つの仕草をするごとに彼女の個性を感じさせ、そんな彼女の仕草には命が宿っているのでは、と思えるほどにそれは美しいものだった。
まるでそれは芸術……いや、完璧で優秀な人類の誕生、と言ってもオーバーに聞こえはしまい。
それほどまでに、彼女は洗練された大人の女性だった。
このときの私は彼女に対し、酷く緊張していた。
それで私は酷くちんぷんかんぷんで、とんでもなく的を射ていない返しをしてしまった。
「となると、あなたはヒーロー……いや、ヒロインですか? それともまさかとは思いますが、アンチヒロインのほうですかね」
そしたら、彼女は切れのよい仕草をしながら笑った。
「面白いね、きみ。見たところ、あたしよりも数歳くらい年下……?
――あぁ、二十三歳、ビンゴだね。あたしはきみよりも四歳年上の二十七歳で……そうだ、きみの名前は?」
私は自分の名前をフルネームで述べた。
私の本名を聞いた彼女は、つまらなさそうに言い捨てた。
「なんの変哲もない名前だね。なんて言うんだろうねー、つまらない人生を送ってそう」
なんてズバズバと物を言う人なのかと、私は恥辱とともに彼女に対して畏怖さえも抱いた。
だというのに。
「なら、そんな私のつまらない人生……完璧で優秀なあなたが私のそばにいることで、面白くさせてくださいよ。きっとあなたなら、それくらい可能なはずです」
とまあ、私は彼女を持ち上げるようなことを言ってしまった。
言ってすぐに、私はこの言葉が口説き文句の類であることに思い当たって、ハッと口に手を当てた。
一方の彼女も信じられないといったように目をまん丸くし、手で口元を覆っていた。
案の定と言っていいだろう、彼女は「驚いた。口説き文句?」とニヤニヤと上目遣いで私を見た。
……私は吹っ切れることにした。
「そうですけど、何か文句でも?
――そもそもいいですか、そこのタピオカティーが似合うあなた……私はですね、自分に似つかわしくない女性をナンパするとき、今のような歯が浮くような言葉で口説くことにしているんです。どうか放っておいてください」
突然として声をかけた彼女に、私が無意識にナンパをするまでに興味を持っていたのはその通り。
それに、そう……日常的に彼女がそばにいることで、何かの歯車が回り出すことを、私は確信していたのだから。
人生初めてのナンパ。
それがいかにして失敗するのか、さあ見物だ。
心の中で、私は自分自身をあざけり笑った。
けれど、
「放っておかないけど? そこまで言われちゃったら、放っておけるわけないじゃんね。――そうでしょう?」
と、何やらナンパが成功しそうな予感がし、私は酷く狼狽した。
女性慣れしていない私の反応を見て楽しんでいるのか、彼女はさもおかしそうに笑った。
そこで初めて、彼女は自身の名前を口にした。
なるほど、完璧で優秀な彼女にぴったりな名前だと、私は腑に落ちた。
しかし私は彼女のことをどう呼んだらいいか、すっかり困り果ててしまった。
彼女は眉をひそめて「変な人!」と引いたように叫んだ。
そんなドン引きしたように叫ばなくても。
「それはその……好きに呼んだらいいんじゃないの? 人の名前なんて、自分が呼びたい名前でいいと思うけど」
「そもそもそれが思いつかないから、こうして恥を忍んで聞いているんです」
途端に恥ずかしくなった私は、顔をうつむいた。
彼女は「んー、そっか」と声を上げてから数十秒間、しばし沈黙した。
「だったら、姉さんでいいよん。――どう? それなら呼びやすいでしょう」
……姉さん。
私と姉さんの出会いは、こうした刺激的なものだった。