励まし
病院を出て少ししてから、急に私はムシャクシャし、思いっきり小石を蹴った。
その小石は駐車場まで転がっていき、誰かの黒塗りのSUV車のボディラインに当たった。
そしたら、運転席にいたスーツ姿の妙齢女性が笑い声を上げながら車から降りてきた。
見間違えようがない、彼女はいつかの女性刑事だった。
「これでも新車ですからね、この車。さて、どうしましょう。
――あぁ、完全に傷がついていますね。さあ、どうします?」
「……謝ります。ごめんなさい」
私は刑事さんの元に駆け寄り、頭を下げて謝った。
けれど、彼女はそれを鼻で笑った。
「世の中謝って済むのなら、警察は要らないです。……かくいうわたくしは、警察官の端くれですが」
刑事さんは愛おしそうに車体をなでた。
それでいよいよ私は申し訳ないことをした、と実感。
「いいでしょう。何がお望みですか?」
「とまあ、それはそうと……車の助手席、座ってどうぞ。ここではなんですから」
「ま、まさか署まで連行ですか?」
直前まで腹をくくっていた私だが、さすがにそんな事態は御免だ。
「……ここでは落ち着いて話ができないから、とりあえず助手席に座ってほしい、って言えばあなたでも分かりますか?」
刑事さんは顔だけ笑いながら、そう私に圧をかけてきた。
私は無言で車のドアを開け、いやにコーヒーの香りが染みついた助手席に座った。
すぐに刑事さんも運転席に座ると、しばらくの沈黙のあと、私に「シートベルトを」と静かに、けれどよく通る声で脅すように声をかけた。
私が戦慄しているのをいいことに、刑事さんはエンジンをかけて全ドアを運転席側でオートロックした。
しかし、私がいつまでもシートベルトをしないので、代わりに刑事さんが私のシートベルトをかけた。
私と刑事さんは自然と密着することになり、そのときに私は先ほどの姉さんの髪と刑事さんの髪、それぞれの髪の香りを比較してしまい、不自然に笑い声を上げた。
その笑い声を聞いた刑事さん、それにそんな歪な笑い声を上げた私は、互いに至近距離のまま凝視した。
そのときに、私は刑事さんの頬の火傷の跡をはっきりと見た。
それは根性焼き跡のようなものだった。
刑事さんは何も言わなかったが、その引きつった顔が私のことを「気持ち悪い」となじっていた。
私はというと、今の狂ったような笑い声はなんだったのかと、隣にいる刑事さんに確かめたい思いでいっぱいだった。
硬い表情の刑事さんは運転席に座り直すと、行き先も告げずに車を走らせた。
精神病院の駐車場から出て少ししてから、急に私は自身の精神状態が不安になり、つい刑事さんに向かって弱音を打ち明けていた。
「近頃の私は私らしくないんです。普段の私はもっとユーモアに満ちあふれていた。……それが今は失われている」
「……以前のあなたのことはほとんど知りませんが、今のあなたもなかなかユーモアがありますよ」
「どこがですか。今の私など、真っ白なペンキのようにつまらない人間です」
「そうでしょうか? 先ほどの『署まで連行』発言のときにも感じましたが、あなたからは天然ボケの雰囲気が漂います。
自覚なきユーモアほど、面白いものはありませんからね」
見れば、いつの間にか刑事さんの表情は和らいでいた。
そのときになってようやく、私は刑事さんから励ましを受けていることに気づいた。
胸が温かい。
今さらのように、私は刑事さんに行き先を尋ねた。
そしたら、彼女はこう答えたのだ。
「あなたの自宅まで。……今のあなたは何かきっかけがあれば、爆発してしまいそうな危うさがありますからね」
「どうして……なんで。だってあなたは私のこと、嫌いなのでは?」
私は刑事さんの優しさに反発する。
彼女はかぶりを振った。
「あの女のことは嫌いですが、あなたのことは……まあ好きですよ。というより、守りたいんです。
あなたがあの女の被害者にならないように、ね」
私は唇を噛みしめ、窓の外の景色を眺めながら、静かに泣いた。
桜が散ったあとの街の景色は、今の私にはなんだか清々しく感じられた。




