いつしか老いる。確かに私はここにいる。
これは脳みその嘔吐
現代を生きる人はこれを読まず寝た方がいい。絶対に。
別に「大人になりたくない」というわけではない。
大人達という存在が一概に嫌いなわけでも、害悪なわけでもないと知っている。
社会が嫌いなのか。
もし私が裕福で今なお生活に困っていなければ、そうは思わないだろう。社会が嫌いかも、と思ってしまうのは私自身の、立場的な都合に過ぎない。
いや、それでいいのだろう。私が今こういう私で、「こういう人間もいるんだぞ!」ということを、ましてや「他人に気遣った」という体で、声を、息を、押し殺す必要なんてないのではないか。
病む事なかれ。呑まれることなかれ。でも力まなくてもよい。矛盾していそうで、どっちも正解で、どっちも不正解。死ねば楽とは思わない。それも一つの甘い嘘。何より別に楽なわけではない。しかし、そうなったとしても格別に不思議な事でもない。身近に生き物は死んでいるし、殺している。見えない所でも、見えないように。見ないように。
だから別に変ではない。嫌な話、「人生100年時代!」というスローガンの方がよっぽど変。別に平均年齢が100歳になったわけじゃない。今でも70歳付近で死にゆく者も少なくない。掲げられた安い言葉。馬鹿と煙は高いトコロと強い言葉が好きってね。
でも、意外と本当に皆強い言葉は好きだよね。皆って、まぁそれで会社が成り立つくらいの人口くらいは?言葉だけじゃない。例えば銃。最近気づけば銃が身近になっている。動画、広告、ゲーム、その他諸々。それは暴力が身近だということ。「死」が身近に近づいているということ。ならば、それがまた人々を「強い言葉」に引き寄せる。人々は形作られた枠のなかで自己決定を行う。自分の趣味だと、意思だと思い込む。経済成長とは、魅力的なものだ。その魅力を身をもって経験している、成功体験を知ってしまった人もいる。勿論全員ではない。経済の中では、誰かが「得」をすると、誰かが損する。それは横に、縦に。横は空間、縦は時間。今得をしている場所があれば損をしている場所があり、得をしている時期があるなら損を被る時が来る。立ち上がれとは言わない。立ち上がらなくていい。皮肉にもそうやって頑張って「立ち上がってきた」結果、続いてきたのだから。「頑張ってきた」から頑張るのが当然に成り下がって「頑張らなければならなくなった」のだから。街を行く車はどこへ行く?昨日も今日もあんなにも人々は忙しそうだ。こんなにもの人が常にすれ違う。すれ違うばかり。そうしなければ生きられないという、誰かを支えられないという事実。勿論、私よりすごい。当然だ。私は他人に守られた閉鎖的な環境で、安全圏から愚痴を吐いているだけなのだから。もっといえば、私にこうして人々の邪魔をする資格はない。いけない、自分を刺そうと思えばいくらでも刺せてしまう。
幸せにはなってはくれないか。難しい。必ず叶うとは限らないし、必ずいつか終わりが来る。終わってしまう。ただ、だからこそ私は見栄に負けたくない。強い言葉に侵されたくない。本能に理性で勝ちたい。許されるならたまにはこっそり爆発させたい。
それでは残された時間を、場所を。
何が凄いって、最初の方から何言ってるかわからん。多少推敲の余地はあるにしても中身がない。ない!






