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6 不安がのしかかる夜

 怖い。怖い。もう、逃げたい。何も知らなかった時に戻りたい。こんなヒリヒリする現実なんていらない。


 台所の片隅のテーブルの前に腰かけて、祈るように両手を組む。月明かりが窓から差し込んでいる。ぼんやり月を眺める。


 昼間わかった事実に打ちのめされて、ルシールは横になっても眠れなくて、部屋をそっと抜け出し、下の階の台所に忍び込んだ。火器の魔道具の使い方はわかるが、自分一人のために使うのもためらわれて、水差しから水を汲んだ。水をいくら飲んでも落ち着かない。


 手の震えが止まらない。考えもまとまらない。

 頭を巡る領地の光景と、そこから広がるさまざまな考えがぐるぐると脳裏を巡る。


 領民達のほがらかな笑顔。緑豊かな山々と、その間を流れる川のせせらぎ。太陽の光に川のエメラルドグリーンが煌めく。だが、安全装置として付いていると思っていた古代魔道具は魔力切れで、台風や大雨が来たら川が氾濫する可能性がある。


 この穏やかで美しい川が、台風や大雨が来て牙を剥いたら?

 この豊かな土地で暮らす人々はどうなってしまうのだろう?


 目を開けても、つむっても、現実は変わらない。


 婚約者が別の娘からクッキーをもらっていてムカつく、とか浮気者で、伯爵家を継ぐ事を真剣に考えてくれない婚約者との婚約なんて破棄してやるなんて、そんなレベルの話ではなくなっている。


 伯爵領には何万人という人々が暮らしている。父について、領地を見回って、仕事をするルシールはそのことを身を以て知っている。領民の日常を守らなければ。豊かで幸せな毎日を。


 だから、他人事ではないのだ。


 そうかといって、ルシールに何ができるというのだろう?

 ただ文明の進んだ国で生きていた前世の記憶を中途半端に持つ、領地の知識が少々あるだけのただの小娘のルシールに。


 コトッと目の前にマグカップが置かれた。

 「こういう時は温かいものだろ」

 

 足音もなく現れたヘクターが、ルシールの前に大ぶりなマグカップを置いた。ふんわりと紅茶の香りが漂う。


 「すごいだろ? 古代魔道具のマグカップだ。適温を保てる」

 突然現れたヘクターにルシールが目をパチパチして驚いていると、ヘクターが世間話をするように続ける。ルシールがコクリと頷くと、微かに微笑んで、自分のマグカップに口をつけた。ヘクターのマグカップの飲み物も温まっているようで、白い湯気がゆらゆらと立ち上った。


 ルシールもマグカップに口をつけると、はちみつのやさしい甘みと紅茶の味が広がった。温かい飲み物にやっと人心地ついた気分になる。


 「で、どうしたんだ?」

 ヘクターの方を見ると、全てを見通してるかのような青い瞳に射抜かれる。


 「……河川に設置してある古代魔道具が作動しないってわかったら、急に怖くなっちゃったんです。大雨とか台風が今来たら、ここで暮らす人達はどうなっちゃうのかなって思うと怖くて、不安で仕方なくて。古代魔道具が永遠に作動しなかったら、川が氾濫しないように何をすればいいんだろう? 対策する前に川が氾濫したらどうしよう? お父様が倒れてしまったらどうしよう? 私になにができるんだろう?」


 改めて、頭の中に渦巻く思考を言葉にすると、また不安が押し寄せてきて、マグカップを持つ手が震えてくる。


 「ルシール。この箱に君の気持ちを一つずつ入れていってごらん。感情と事実は切り離すんだ。ただ、君の今感じる気持ちをこの箱に入れていくんだ。感情を味わう必要はない。ただ、その感情があるということを認識して、この箱に入れればいいんだ」

 ヘクターはどこからか、紙の箱を取り出すとルシールの前に置いた。相変わらず突拍子もないヘクターの提案にルシールは目をぱちくりとさせる。それでも、何かに縋りたい気分のルシールはヘクターの言葉に素直に従う事にした。


 「気持ちだけ……?」

 「そう、怖いとか不安だとか泣きたいとかそういうものだけ、自分から取り出すんだ。その感情を味わう必要はない。ただ、あるんだなって認識すればいいんだ。負の感情は否定したり、見ないふりをしていると知らない間に大きくなって、飲みこまれてしまう。そうなる前に吐き出すんだ」

 「怖い……すごく怖い……」

 ヘクターに言われるがままに、自分から溢れるその気持ちを箱に移した。


 「それから?」

 「まだ怖い……心臓がぎゅっと掴まれてるみたいな感覚がする」

 

 「それから?」

 「泣きたい。不安で怖い」

 ルシールはしゃっくりと共にこみあげてくる涙を飲みこんで、自分の気持を言葉にして、そっと箱に入れていく。怖い、不安、泣きたい、怖い……同じような言葉を繰り返すルシールにヘクターは我慢強くつきあってくれた。


 そうしているうちに、滔々と静かに澄んだ湖の様に、心が落ち着いたのがわかった。

 「ヘクター先輩、もう大丈夫なかんじがします」

 ルシールは一息ついて、紅茶に口をつけた。紅茶はほっとするような温かさを保っている。


 「この箱は俺が預かっておこう」

 ヘクターは箱の蓋を閉じて、箱を回収すると、ルシールの前に紙とペンを置いた。


 「次は、何が怖いのか? どうなったら不安なのか? 感情を切り離して事実を書くんだ。例えば、古代魔道具が作動しなくなった場合に、何が問題になるのか? それに対してできそうな事はあるのか? 父上が倒れたらと言っていたが、その可能性はどのくらいあるのか? それに対してできそうな事はあるのか? 今度は気持ちは書かない」

 

 「えーと……古代魔道具がまず魔力を充填したり、補修して使えるようになれば、それでOK。ダメな場合は、古代魔道具を付ける前の資料を探したり、川が氾濫していた頃を知っている領民に話を聞いて、対策する。場合によっては河川の工事をする? ……それなら、治水の専門家に話を聞く。取り急ぎは高台に避難できる場所を探して、整備して備蓄品を備える。お父様は今は元気だけど、ほとんどの仕事をお父様が担っているから、万が一倒れたりした場合、川の氾濫に限らず伯爵領の仕事が滞ってしまう。まずはお父様にどのような人員体制で仕事を回しているのか確認して、お父様の負担を軽くして、お父様がいなくても回るように体制を整える……」


 怖いとか不安という気持ちを抜いてみると、できそうな事が次々に浮かんできた。紙に向かうと、ルシールはぶつぶつとつぶやきながら、想定される事、対策できる事、確認する事を夢中で書きこんでいった。


 「ごめんなさい、ヘクター先輩。ずいぶん時間が経ってますよね……」

 取りあえず頭に浮かぶことを全て書ききって、ヘクターを見ると、のんびりと紅茶を啜っている。いつの間にかルシールの手元には、灯りがともされていた。窓から入る月灯りに照らされるヘクターはまるで彫刻のような美しさで、ルシールは束の間見惚れてしまった。


 「大丈夫だ。困っている後輩の指導も先輩の仕事の内だ。だいぶすっきりしたみたいだな。この紙はルシールが持っているといい。伯爵が来て話し合う時に役立つだろう。さぁ、今日はもう眠ろう」

 なんでもない事のように言って、紳士的にルシールの部屋まで送ってくれた。


 「ルシール。古代魔道具も俺も君も、できることは限られている。でも少しだけなら役立つこともあるんじゃないか? この古代魔道具のカップに入った飲み物がルシールを温めたように。全部を救うことはできない。でも、なにかできる事はある。ルシールなら、大丈夫」


 ルシールは暗がりの中で、ヘクターの青い瞳をただ見つめることしかできなかった。


 「おやすみ」


 ヘクターは言いたいことだけ言うと、足音も立てずに去って行った。

 

 「……先輩、すごいな。気持ちがすごくすっきりした。なんか先輩自体が古代魔道具みたいなんだよな……」

 ぽふっと寝台に寝そべって、ルシールはつぶやく。ヘクターの優しさは淹れてくれた紅茶のように温かくてほのかに甘い。そのままルシールは夢も見ずに朝までぐっすりと眠った。

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