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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

命(かて)

作者: ちょび

 ピンポーン

 朝の十一時五分前。玄関から呼び鈴の音が鳴り、私はテレビドアホンで来客者の姿を確認することなく玄関へと向かい、来客用のスリッパを用意してから鍵を外して玄関ドアを開ける。


「いつも通りの時間ですね。」

「5分前行動が社会人として常識ですから。」


 ドアの前に居たのは、担当編集者の(ささ)(はら)()()。私が四年前に作家としてデビューしてからずっと担当してくれている。いつも上下紺のリクルートスーツの出で立ちに、きっちり縛ったポニーテールと黒縁眼鏡。見た目通り真面目な彼女は、いつも打ち合わせ時間の5分前に来るのだ。どうぞと家の中に彼女を通すと、失礼しますと言いながらスリッパを履いて、私の後をついて来る。玄関から廊下を抜けて、突き当りのドアを開けると私の書斎。入って左側は全面ガラス張りで庭が見えるようになっていて、右手は小上がりになっており、書斎机と沢山の本が収められている本棚が置かれている。部屋の中央にはテーブルと一人掛けのソファが向かい合って一脚ずつあり、打ち合わせはいつも此処でしている。彼女はいつものように入り口に近い方のソファに腰掛けた。

 それを見て、私は部屋の隅にあるコーヒーメーカーから、コーヒーを二人分カップに注ぎ、一つを彼女の前に出し、もう一つは持ったまま向かいのソファに腰掛ける。


「先生、次回作はどのような内容にされるかお決まりですか?」


 鞄から手帳とペンを取り出し、メモを取る体制をとると、私へと目線を合わせてくる。


「そうですね。今回は今までと違った趣向でいこうかと思っています。」

「今までと違うと言いますと?」


 興味津々といった感じの目で私を見てくる彼女に、コーヒーを一口飲んでからゆっくりと話す。


「私の実体験を基にしてみようかと思っているんですよ。」


 彼女が目を瞬かせ、何かを思いついたように身を乗り出し、ペンを持つ手に力を込めて聞いてくる。


「自叙伝ということでしょうか? 良いと思います。今まで、先生は雑誌のインタビューや公の場に姿を出すことがなかったので、ファンの間では、性別も不明の謎多き人物になっていましたから。ただ、そのスタンスと作品の良さが相まって人気を博していたのも事実ですが。今回自叙伝を出すとなると、かなりファンの方は喜ぶと思いますよ。特に女性ファンは、先生が男性で尚且つ端正な顔立ちをされていると分かって喜ぶと思います。」


 微笑みながら言う彼女に、私は同じように微笑んで答える。


「いいえ。そういうのではなく、とても素晴らしい体験です。」

「素晴らしい体験ですか?」


 前のめりのまま、眉間に皺を寄せる彼女。自分の考えていた答えと大きく違い過ぎた返答が返ってきたことと、こんな提案をするのは担当になって初めてだったので、きっとそれも彼女を困惑させているのだろう。


「ええ。どんな体験だったか笹原さんに聞いて頂いて、面白ければ書いてみたいのですが、どうでしょう。長年、私の担当をされている笹原さんの意見が、一番参考になりますから。ただ、少々特殊な体験ですので、今回、笹原さんから許可が頂けない場合は、今後作品にするつもりはありません。許可が頂けない場合は、いつもと同じ作風の作品の準備もしてありますので、大丈夫です。」


 そこまで言うと、彼女は下を向いて暫く考え込む。どんな内容か全く分からない状況で安易に了承は流石に出来ないだろう。それは私も分かっていた。しかし、彼女はきっとこの話を承諾してくれると確信していた。何故なら、彼女は限定された状況に弱いのだ。今回のように、今の機会を逃すともう聞くことが出来ないとなると、人は物事を冷静に考えられず、欲求を刺激されどうしても聞きたくなる。心理学では「希少性の法則」と言われているようだ。彼女はまさにそのタイプで、私に手土産としてよく限定の品を持ってきては、「限定だったので買ってきました。」と冷静な顔で言っていた。

 私は、彼女が合意してくれることを心の何処かで確信しながらコーヒーを一口飲んだ時だった。彼女は決心したように顔を上げ、真剣な目で私を見ながら、分かりましたと言い頷いた。私はそれを確認し、彼女に気付かれないように一瞬微笑を浮かべたが、直ぐに真顔でゆっくりと自分の体験した素晴らしい出来事を彼女に話すことにした。



「三カ月位前の夕方、行きつけの喫茶店からの帰り道に総合病院があるのですが、その前の道を通りかかった時でした。病院の入り口の前に、一人の青年がパジャマ姿で病室がある窓を見上げながら立っていたんです。外にパジャマ姿の青年がいる光景だけでも違和感なのに、誰一人として青年に気付かないどころか、体をすり抜けて行き来していたんです。」


「ち、ちょっと待って下さい、先生。そ、それってもしかして幽霊ってことですか。」


 手帳に私の話を熱心にメモしていた彼女が、勢いよく顔を上げて驚きの声を出す。


「そうですね。私も初めはそう思いました。しかし、青年はどちらかと言うと、現世と幽界(ゆうかい)の狭間にいるような存在でした。」


 さも当たり前の様に私が答えると、彼女は口を半開きにして私を見つめていたが、頭を振っていやいやいやと言いながら反論してきた。


「そんな当たり前のように言わないで下さい。現世と幽界の狭間ってどういうことですか。そもそも、先生はそういった者が見えるんですか?」


 いつも冷静な彼女が、珍しく口調に興奮しているのが感じ取れた。


「妻が亡くなってからそういった者が見えるようになりました。現世と幽界の狭間とは、簡単に説明すると、この世とあの世の間と言ったら分かりやすいでしょうか。幽界は、亡くなった人が行く場所。あの世のことで、そういった魂は体が完全に透けて見えるのですが、どうやら狭間の人は臨死状態と言い、心肺停止で意識不明となった時、肉体から魂が抜け出て、現世を彷徨っている状態のようです。完全には亡くなっておらず、生きている人間と同じようにはっきりとして見えるみたいなんです。青年の話から私が推測したんですけどね。」

「え! せ、先生、その青年と話したんですか!」


 彼女の目が大きく見開かれ、前のめりになりながら、少しソファからお尻を浮かせて、声量も普段より大きくなっていた。


「ええ。気になってしまって、私から声を掛けて、色々と話を聞きました。」

「…先生。ご自分が凄いこと言っていると自覚されていますか? そんな飄々(ひょうひょう)と話すような内容じゃないですよ。」


 彼女は大きな溜息をつきながら、ソファの背もたれに寄りかかるように深く座りなおし、今までの驚きで強張った肩の力を抜き、胸の所に構えていた手帳とペンを膝の上に置いて脱力した。


「それで、青年とどんなことを話されたんですか?」


 最初の時のような驚きと興奮した感じとは打って変わり、いつもの冷静な彼女の口調と声色に、私は再度コーヒーを一口飲みながら答えた。


「そうですね。まず、青年の名前は平野(ひらの)(そう)。市内の進学校に通う十八歳の高校三年生だそうですが、一年前に白血病を発症し、現在は闘病中とのことでした。小柄で、目にかかりそうな程の長い前髪から覗く目は、キョロキョロと(せわ)しなく動いていて、目の前に居る私とはあまり目線を合わせようとはしませんでした。見た目からも分かる程の大人しそうな彼は、引っ込み思案で、自分の意見を上手く相手に話すのが苦手らしく、それは私と話していても如実に表れていました。

 友人の居なかった彼の楽しみは読書で、私の処女作から愛読してくれていたそうです。私が作者だと話すと、今までなかなか合わせてくれなかった目線も、しっかり顔を上げて合わせてくれるようになりました。前髪から覗く彼の目は純粋そのもので、輝いていました。

 それから、彼にどうしてこんな状態になっているのかを尋ねた所、今朝から体調が悪く、苦痛のせいで意識が朦朧としていると、突然目の前が真っ暗になり、その後、不意に苦痛の感覚が無くなったそうです。そして次に視界がはっきりした時、目の前にベッドの上で目を閉じている自分を見たそうです。普段、自分の顔なんて鏡で見ることもほとんどなかったけれど、青白く、痩せ細った自分を見て、混乱や戸惑いよりも、本当にこれが自分なのかと絶望したそうです。日々、病気と闘い、辛い治療や副作用にも耐え、これを乗り越えれば治ると一縷(いちる)の望みを抱きながら耐えていたその自分の姿をこうして客観的に見た時、望みが薄いのだろうと現実を突きつけられたように感じたそうです。

 茫然と眺めていると、病室へ医師や看護師が駆け込んできて、自分の周りを囲み、機器や呼吸器を付けたりと慌ただしく人が出入りし、大きな声が飛び交う中、心電図の波形のフラット音を背中で聞きながら、彼は絶望のまま、病院の外に出たそうです。そして、どうしたら良いのか分からず入り口から病室を見上げていた所に、私が声を掛けたようでした。ですから、彼と出会った時、まだ完全には死んでいない、臨死状態たったようです。」


 彼との経緯を話し終え、私はコーヒーを一口飲む。彼女は口を横一文字に固く閉じ、自分の前に置いてあるマグカップを見つめて、何かをしきりに考え込んでいるようだった。


「先生、その、平野君はその後、どうなったんでしょうか。」


 マグカップを見つめていた視線をゆっくりと上げ、私を見る彼女の目は、どこか不安を孕んでいるように見えた。私の話に何か不安要素を感じとったような面持ちで見つめてくる彼女に、私は安心させるように答える。


「彼と色々と話した後、私の家に招待しました。私の仕事場を見てみたいと切望されまして。丁度、笹原さんが座っているソファに腰掛けて、私の作品や、感銘を受けた本の話、そして、彼の将来の夢の話もしました。自分でも小説を書いているそうで、彼の知識やアイディアは素晴らしく、私も思わず話していて熱くなりました。彼の夢が私と同じ作家になることだったので、是非とも実現して貰いたいと心から思い、そのことを彼に話したところ、初めは今の自分の状況では無理だと否定的でした。彼の状況を考えたら確かに難しいと思いましたが、諦めるには本当に惜しい才能を彼は秘めていると思ったのです。諦めず、病気に打ち勝つことが出来たら、是非とも私の元で作品を本格的に書いてみないかと提案しました。その時の彼の顔は今でもはっきりと覚えています。本当に心から喜んでいて、少し涙目になりながら、何度も感謝の言葉を言いながら頭を下げ、そして、再度病気と闘うと言ってくれたんです。彼の回復を私も心から願っていたので、再度病気と闘い、生きることに前向きになってくれたのが本当に嬉しかったのです。」


「ということは、彼は生きているということでしょうか。」


 先程の彼女の不安な顔が、少し安堵したようなものに変わった。どうやら、彼の生死を案じていたようだ。話だけでも、人の生死、特に死の話は聞いていて気持ちのいいものではない。私の話の内容から生きることを選んだと感じたのだろう。


「そうですね。彼は生きています。」


 そう言いながらマグカップを持つと、中が空になっていたのでソファから立ち上がり、コーヒーメーカーの方へとゆっくりと歩く。


「これが、先生の素晴らしい体験ということですね。出会い方はどうあれ、最後は絶望から夢に向かって青年は再度生きることを選ぶ。内容としては良いと思います。先生の今までの純文学路線とは違いますが、良いですね。作品にするには、流石にそのままの内容では発表出来ませんが、そこはフィクションを織り交ぜながら、内容を詰めていきましょう。」


 コーヒーを淹れる私の背後から、安心したかのように、いつも通りの打ち合わせの時の雰囲気を、彼女の声から感じ取る。私はそのままの状態で、興奮する気持ちを抑えながら話す。


「いいえ。それが素晴らしい体験ではないです。その後に、素晴らしいことがあったんです。」

「え?」


 不意な返答に、変な声を出す彼女を背中に感じながら、私はお構いなしに更に話を続ける。


「先程、彼は生きているとお話ししたのですが、言葉通りとはちょっと意味が違っているんですよ。」

「え? どういう意味ですか、先生。全く言っていることが分からないのですが。」


 先程までの安堵感から一変し、声から困惑と怪訝(けげん)を含んでいる彼女の方を向くと、案の定、眉間に皺を寄せ、渋い顔をしていた。

 私は興奮を鎮める為にコーヒーを飲みながら彼女へと近付きつつ、ある一点を見つめる。先程から、彼女と話しながらも、実は視線はずっとその一点を見つめていた。


「そうですよね。詳しくお話する前に、笹原さんは今日、どうやって私の家に来ましたか?」

「は?」


 先程からの私の不可解な話の連続に、流石の彼女も何か只ならぬ雰囲気を感じとったのか、少し体を後ろに引きながら、この人は何を言っているんだと(いぶか)しげに私の質問に答える。


「ど、どうって、いつものように電車に乗って、四谷駅を出て、それから信号を渡って…。」


 ぶつぶつと独り言を言うように、自分の記憶を辿りながら答える彼女の後ろを見つめながら、優しく微笑む。


「…え…私…え…。」


 訝しげだった彼女の表情が、徐々に不安色に染まっていく。そして、不安の色が濃くなるにつれて目の焦点が合わなくなり、唇が小刻みに震えだしてきた。唇と同じように震える手や体に視線を向け、自分の体を通して、その先の景色が見えたことに驚愕(きょうがく)の表情を浮かべる。それと同時に、自分自身を落ち着かせるように両手で体を抱きしめるが、震えはおさまらず、全くの気休めのようだった。


「わ、私…。」


 下を向いた体を縮こませて震えている彼女を見ながら、私は微笑みながら優しい声で話す。


「答えられないですよね。至極当然です。あなたは今、臨死状態なのですから。」

「…。」


 私の言葉に、下を向いていた彼女は顔を上げ、震える唇を両掌(りょうてのひら)で押さえながら、光を失った虚ろな両目から流れた涙が、静かに頬を伝う。あまりの現実からかけ離れた状況に、完全に彼女の思考は停止したようで、微動だにせず、虚ろな目でこちらに視線を向けているだけだった。

私はそんな彼女にはお構いなしに、更に話し続ける。


「実は今朝、編集長さんから電話がありまして、笹原さんが私の家に来る途中、車にはねられ意識不明のまま病院へ運ばれたと連絡がありました。その話を聞いた時は流石に驚きましたよ。しかしその時、ある話を思い出したんです。人は自分が不慮の事故等にあった時、それを自覚していない場合は、魂になってもいつも通りの行動をすると聞いたことがあったんです。もし、その話が本当だとしたら、笹原さんはいつものように時間通りに来るかもしれないと思ったのですが、正直、ほとんど信じてはいませんでした。あくまで噂話でしたから。けれど、笹原さんならもしかしたらという思いもありました。今日(きょう)(ほど)、一分一秒を長く感じた日はなかったです。そして約束の時間、いつものようにあなたは来た。あの時のインターフォンに、私は興奮を抑えるのに必死でした。あなたの真面目さには、本当に感服します。魂になってまでも私の所に来てくれたのですから。」    

                          

 片手にマグカップを持ち、立ったまま(まく)し立てて話す私を、彼女は先程と同じように微動だにせず、虚ろな目で見つめたままだった。そんな彼女の姿を見ながら、これから起こる出来事を想像し、興奮を抑えようとコーヒーを飲むが、もう無意味だと感じ、ゆっくりとテーブルに置いた。


「そもそも、私がなぜ、事故にあった笹原さんが、いつも通り来てくれることを望んだのか。それには、先程の彼が最後どうなったかをお話ししなくてはいけません。きっと、この話を聞き終わった後に、笹原さんにも理解して頂けると思います。」


 私の話に、彼女は聞いているのかいないのか、視線は空を仰ぎ放心状態だったが、構わず私は話を続ける。


「彼が生きることを望み、自分の肉体へと帰ろうとした時でした。今まで座っていた彼の後ろに、華が急に姿を現したのです。あ、華とは、笹原さんにも前にお話しした、五年前に亡くなった、心から愛している妻のことです。亡くなった後も、魂の状態で今もずっと私の側で生きています。普段は滅多に人の前には現れないのですが、珍しく彼に興味を示したのか、側に寄り、凝視するように見つめていたのです。その視線に気付いたのか、彼が後ろを振り返り華の姿を認識したのです。普通の人間だったら華の姿は見えないのに、臨死状態で死に近いからなのか、彼は視認出来ていました。突然の華の出現に驚く彼に、私の妻で、今は魂だけの状態で私と共に生きているということを話しました。私の話に驚いていましたが、少し興味が沸いたのか、華とソファを挟んで対面するように立って向き合い、そっと右手を伸ばし、華の左腕に触れた時でした。

 突如、華の右手が彼の右腕を掴み、引き寄せたかと思った時、華の着ていた白いワンピースの腹部部分が裂け、本来、華の陶器のような白い胴体があるはずの所に、大小無数の形をした鋭い牙が、胸骨(きょうこつ)から臍部(さいぶ)の辺りまで縦に並び、左右に大きく開いた処から、長い舌が唾液を滴らせながら、彼の腰部分を捉え、その口へと引き()り込もうとしていたのです。あまりの現実離れした光景と、私の愛している華の豹変ぶりに、流石の私も驚倒(きょうとう)し、身動きがとれませんでした。

 しかし、私が茫然としている最中(さなか)にも、長い舌は着実に彼を華の胴体にある口の中へと引き()り込もうとしていました。彼は、腰に(まと)わりついている唾液まみれの舌や、華に掴まれている右腕を、自由の利く左手で引きはがそうと必死に抵抗していましたが、全くびくともしませんでした。そして、彼の右腕が口の中に入った時、鋭い牙が左右から勢いよく閉じたのです。

 それと同時に、何かがが折れるような音と、彼の大きな悲鳴に、私は放心状態から我に返りました。

 涙を流しながら私に左手を差し伸べる彼。つい先程まで楽しく語らい、生きる希望に満ち溢れていた彼が、目の前で右上半身が徐々に華の胴体へと骨の折れる音や、咀嚼音を鳴らしながら喰われていっているのです。混乱する頭で唯一私が出来たのは、彼に手を差し伸ばすことでした。魂である彼に触れることなど出来ないのに、無意識の行動だったんだと思います。

 彼は私の差し出した右手を一縷(いちる)の希望とばかりに必死に掴もうとしましたが、案の定、触れること無くすり抜け、虚しく空を掴むのみでした。その時の彼の表情は今でも忘れられません。まさに、絶望した人間の表情でした。藁にも(すが)る思いで私に差し出した救いを求める手。目の前には(すが)れば助けて貰える人が居るのに、それが一瞬にして(つい)えてしまったのですから。その後、彼は絶望の内に、声を発すること無く華の胴体へと消えていきました。

 私は、差し出した右手をそのままに、混乱の中、華に起こった異常な出来事と、現状を理解しようと思考を巡らせました。華に一体何が起こったのか、何故、華の胴体にあのような得体の知れない物がいるのか。もしかして、華が亡くなった時に願った形が、このような結果を生んだのか。彼を殺してしまったのか。そのようなことを考え、答えを求めるように華に視線を向けた時でした。今まで、体が透けて向こう側の景色が見えていた華が、生前のままの姿で私に微笑んでいたのです。裂けた白いワンピースはいつの間にか元に戻り、陶器のような白い透き通る肌。背中まである黒髪が、庭から注がれる太陽の光に輝き、唇もほんのりと赤みをおびていて、まさに楚々(そそ)とした姿の華がそこにいたのです。私は我が目を疑いましたが、それよりも、目の前に私の愛していた華がいることに涙が溢れ、抱きしめようと側に近寄った時、一瞬、先程の光景が脳裏を(よぎ)りました。彼のように私も食べられるのではないかと。しかし、愛する華にならば食べられても本望だと思い至りました。食べられるということは、華と共に生きていけるのですから。

 そっと華を抱きしめようと両手で包み込んだ時、その手は期待していた感触ではなく、空気を(かす)め取っただけでした。どうやら、生きている人間は食べないようでしたが、その時の悲しさと絶望感は言葉では言い表せないものでした。いっそ、私も食べられて華の一部になりたいとさえ思った程です。今でも、その感情は私に付き纏っています。今までは、どんな状態であれ私の側に居てさえくれればそれで良いと心から願っていたはずなのに、やはり私の心の奥底には欲が渦巻いていたようです。華に触れたい。あの温もりのある、滑るような肌に触れたいと。しかし、一番好きだった華の微笑む顔を私に向けてくれるだけで、この上ない幸せなのではないかと。私はそう思うことにしたのです。

 彼を食べてから、およそ四十時間程で華は元の魂の状態へと戻ってしまいました。人間と同じように、消化しきるまでの間だけ、生前の姿を保ってくれるようです。そこで私は考えました。」


 一気に興奮した口調で話す私を見ながら、彼女はソファから立ち上がった。


「…そんな…。」


 唇の震えが酷くなり、それに加え、歯までガチガチと音を鳴らし始めた。先程の放心状態とは打って変わり、彼女は恐怖に体を強張らせながらも、震える足で後退りを始める。震えて上手く歩けない彼女の背中に、ある者があたった。私は彼女の背中にあたった者に、今までで一番の優しい微笑みを向けながら言った。


「華の微笑みを見る為に、(かて)を与え続けようと。」


 背中に感じた感触に、慄然(りつぜん)とする彼女。今までの私の話を聞いていれば、きっと自分が今どんな状態にあるのかは自ずと察することが出来たと思う。その為に、わざわざ説明したのだから。流石に急に食べられては、食された側も、何故自分がこんなことになったのか分からずに亡くなってしまうので、それではあまりにも不憫すぎる。最初の(かて)になってくれた彼には感謝と同時に、申し訳ない気持ちもある。今のように、きちんと説明が出来ていれば、少なからず理解して亡くなることが出来ただろうから。


「く、狂ってる…。」


 彼女の震える唇から出たその言葉に、私は小さく笑った。

 私の精神は華が亡くなった時にとっくに崩壊している。私のすべて、いや、そんな陳腐な表現では収まらない位、私は骨の髄まで華なしの生は考えられなかった。華のいない世界など、生きていたくなどない。華の元へ行こうと自殺を図ろうとしたが、華が亡くなる前「私の分まで長生きして、幸せになってね。絶対よ。」と言われたことを思い出し、身の裂ける思いで踏み止まった。

 しかし、華のいない世界はどうしても耐えられなかった。そこで、どんな形でもいいから華を蘇らせることは出来ないかと、胡散臭いネットの情報や黒魔術、古今東西の呪術の文献などを読み漁り、蘇生に関することはなんでもやり、もう全てをやり尽くし、万策尽きた時にそれは突然おきた。

 毎日、寝食も忘れて華の蘇生のことに時間が費やしていた為、体は痩せ細り、椅子から立ち上がるのもままならない程、衰弱しきっていた私の目の前に華が姿を現したのだ。初めは、疲れすぎて幻覚か夢かと思ったが、起き上がりしっかりと華と向き合った時、それは間違いなく華だと確信した。体が透け、無表情だが、それでも華には変わりない。どんな形でも、私の側に華の存在があることで心から救われ、安心できた。意味をなさない世の中が、やっと生きる価値をもったような、そんな満足感を全身で感じながら、それからの私は、華との約束を果たす為に懸命に生きることに邁進した。

 今まで、華のことに時間を費やしていた為、仕事もろくにせず、貯えも底を尽きかけていた。そこで、昔から人よりも得てしていた文章を書くことを仕事にしてみようと思いたった。

 生前、私の書いた作品を華が好きだと言ってくれていたのと、何より自宅で仕事が出来ればずっと華の側に居られるのだから。そして、初めて書いた作品が出版社の目に留まり、作家という道を歩むことが出来た。全ては華の為に。華の為ならば、例え非道なことでも出来てしまう。それ位に、私は狂っているのかもしれない。しかし、それは同時に華を狂おしい程に愛しているから。他人にどう思われようと構わない。華と私の世界が守られるなら。


「そうですね。狂っていますよ、私は。華の為なら、私は狂人になっても構いません。」

「あなたはもう、人間じゃない。」


 恐怖の中に怒りと軽蔑を含んだ目で私を睨み付ける彼女。しかし、彼女の体が後ろから華の両手で抱きしめられると、さっきまでとは打って変わり、泣き叫びながら、もがくように大声で抵抗を始めた。


「い、いやぁぁぁぁ! 離して! 嫌だ!」


 後ろから羽交い絞めにされているので、全く身動きは取れないようだが、必死に声だけで抵抗をしている。いつもはきちんとしている服も髪の毛も乱し、今まで聞いたこともない耳の奥に響く彼女の甲高い声に、私は不快な顔をする。


「助けて! お願い! 死にたくない!」


 私が不快に思っていることにはお構いなしに、必死にもがき、涙を浮かべ、顔を歪ませながら助けを懇願してきた。

 先程まで私を散々狂っているだの、人間ではないだのと罵っておきながら、最後は懇願してくるとは。虫のいい話だ。そう思いながらも、私は少し彼女の方へ近付き、そっと両手を差し出した。

 微笑みを浮かべる私の姿に、彼女は泣き叫び、歪ませていた顔から、(すが)るような表情を浮かべ、「先生…。」と小さく呟き、安堵の笑みを浮かべた。

 しかしその瞬間、ボキンと大きな折れる音が部屋中に響き渡り、それに少し遅れて彼女のけたたましい悲鳴が上がる。華の胴体に彼女の腰の辺りが入り、骨を折り、粉砕する音を鳴らしながらゆっくりと吸収していくそのさまは、二回目とはいえ、やはり(おぞ)ましさを感じる。あの愛らしい華からは想像も出来ない程だ。この物の正体が何なのかは分からない。ただ、この生き物は、臨死状態の人間の魂を食した時だけ、華を生前のような姿にしてくれることは実証済みだ。だから、華の為にはなくてはならない物なのだ。

 本当であれば、臨死状態の場合、現在の医学技術をもってすれば蘇生出来る確率は昔に比べて格段に上がっているはずだ。今頃病院では、懸命に彼女を蘇生させようと全力を尽くしているのだろう。その生きられるかもしれない希望を私は奪っているのだ。それはすなわち、人殺しと同じ行為を、今、していることになる。

 止むことのない、耳を(つんざ)く彼女の悲鳴を聞きながら、不意に彼女との思い出が走馬灯のように私の脳裏を駆け巡る。。

 私が作家としてデビューし、初めて編集担当者として紹介された彼女は二十六歳。当時の私より四歳年下だったが、冷静沈着で、今と雰囲気は全く同じ。黒縁眼鏡のポニーテールに、服装も今と変わらない。昔から化粧も薄目で、たまにすっぴんなのではと思う程だった。仕事は今よりもたどたどしかったが、直ぐに要領を得て、真面目にそして正確にこなしてくれ、とても仕事がやりやすかった。作品作りに詰まった時などは、一緒に考え、私にはない切り口で貢献もしてくれた。彼女のアイディアで出来上がった作品もある位だ。この四年間、彼女には本当に助けられたと実感する。そんな彼女の命を、私は華の糧にしようとしている。こんな形で彼女の最後を見届けることになろうとは思いもしなかった。

 罪悪感が完全に無い訳ではない。

 初めて犠牲になった彼の時は、本当に亡くなったのかという真偽と、罪悪感から、その日は眠れぬ夜を過ごし、落ち着かなかった。自分が殺した訳ではないが、彼を私の家に呼ばなければ、もしかしたら助かっていたのかもしれない。助かっていたら、彼の夢も叶えられ、希望にあふれた人生があったのかもしれない。そう思うと、私は自分のしてしまった罪の重さが、徐々に自分の体に圧し掛かった。打ちのめされた状態でソファに座り、頭を抱えて項垂れていた時、視界に華の足が見えた。ゆっくりと視線を上げると、華の穏やかな微笑みが私を見下ろしていた。

 自分自身でもどこかで気付いていたのかもしれない。今、目の前に居るのは、もう本当の華ではなく、私の欲望を糧にして生み出された、この世の物ではない何かではないかと。私の欲望につけ込み、華の姿を模して現世に姿を現した悪魔が、人間の魂を喰らっているのではないかと。しかし、そう思った時に私は思い出した。「どんな形でもいいから」と望んだのは私自身。例え私の考えたことが真実だとしても、そんなことは華を蘇生しようとしていた時に、とうに分かり切っていたではないか。それでも良いと思ってしたことだ。後悔などすることはない。

 こうして私に微笑みかけている表情は、紛れもなく華なのだ。言葉はなくとも、表情や雰囲気で分かる程、華のことを理解している私には、「あなた」と言っているように見えた。

 そうだ。これは華の為なのだ。華が生前のように笑い、幸せそうにしてくれるのだから、この行為は間違っているはずがない。寧ろ、彼には感謝をするべきなのだ。それに、彼は華の中で永遠に生き続ける。素晴らしいことではないか。

 私は華を抱きしめるように手を回す。勿論、手はすり抜け華を触れることは出来ないが、目を閉じ、生前の華の感触を想像する。目の前にあるこの幸せを決して手放しはしない。例えどんな結末が待っていようとも、私の命が尽きるまで、華と共に生きていく。私はこの時、心からそう決意した。



 彼女の悲鳴が完全に部屋から消え、静寂が訪れた。

 全てを飲み込んだ華の胴体の牙が、ゆっくり左右から中心へと閉じていく。完全に口が閉じると、元の白い肌を形成し、引き裂かれたワンピースも、何事も無かったかのように再生した。

 そして、それと同時にあの素晴らしい瞬間が訪れる。


「ああ、華。なんて美しいんだ。私の愛しい華。」


 血色を帯びた華の肌と唇。そして、満面の笑みで私に微笑みかける華。この瞬間はまさに得難い時間だ。

 そっと右手で華の頬に触れようとすると、少しだけ首を左に傾けて、私の手に摺り寄せるような仕草をしたのだ。それは生前、華が私に甘える時にしてくれていた仕草だった。私の手のぬくもりを感じているように、目を閉じ、微笑みながら私の手に頬を寄せている。

 あまりの嬉しさに私は涙を流し、微笑みながら華の唇に自分の唇を重ねた。物質的な感触や温もりはないが、私には華の柔らかい唇を感じられた。そして、唇を合わせながら私は考えていた。

 こうして、臨死状態の魂を華に与え続ければ、今のように、徐々に生前の華により近付いていくのではないかと。どんどん、生前の華を見ることが出来るのなら、私はどんなことも(いと)わない。

 唇をゆっくりと離し、微笑みを浮かべながら、華がそっと右手を伸ばしてきた。そして、私の頬に触れながら、少し頬を染め、柔らかい微笑みを私に向けてくれたのだった。

 その姿に、私の中の『罪悪感』という感情は、闇の中へと遠く消え去って行くのを感じていた。



 ピンポーン。

 玄関の呼び鈴の音が鳴り、私はテレビドアホンで来客者の確認をする。モニター画面に映し出された女性を確認し「今開けます。」と声を掛けて玄関へと向かった。


「時間ピッタリですね。」


 ドアを開けた先に立っていた女性に声を掛ける。

 薄いブラウンがかった髪を肩まで下し、毛先にはゆるくパーマがかかっている。しっかりとしたメイクだが、濃すぎない。服装はクリーム色のシフォンブラウスに、黒いタイトスカート。派手すぎず、品がある彼女は、私の新しい担当編集者になった木山那奈(きやまなな)。まだ二十七歳と若く、前任者とは外見や雰囲気が全く違う。性格も前任者と違い冷静沈着ではなく、表情豊で年相応な感じがする印象だ。コミュニケーション能力が高いようで、初対面の私にも臆することなく積極的に話しかけてくる程だ。

 しかし、仕事に関しては、まだ半年足らずにも関わらず、前任者を彷彿とさせる働きぶりが伺えた。編集部が私の執筆に支障がないように、仕事に関してはあえて前任者に近い人材を担当編集者にしてくれたようだった。


「はい。いつも通り、時間ピッタリに来ました。」


 屈託のない笑顔で笑う木山さんを家の中へと通し、仕事の打ち合わせをする部屋へと二人で歩く。

 いつもの私の書斎。前任者や青年が座っていたそのソファに、木山さんは何も知らず、いつものように座る。二人がどんな末路を辿ったかも知らずに。


「あ、先生。これ、私が焼いたフィナンシェなんですけど、良かったら一緒に食べませんか?」


 鞄から紙袋を取り出し私へと差し出すと、袋越しでもバターと甘い匂いが鼻腔を刺激し、部屋の中にはお菓子特有の匂いが漂いだす。木山さんはお菓子作りが趣味らしく、こうして時々持って来てくれるのだ。味もかなり美味しく、普通の製菓店と大差ない位だ。編集者もいいが、これ程の腕ならお菓子作りの道もあるのではないかと思う時がある。


「いつも有難う御座います。では、紅茶を淹れてきますので、少し待っていて下さい。」


 木山さんから紙袋を受け取り、私はキッチンへと向かう。書斎から出て、玄関へ行く途中の右手にあるドアを開けるとキッチンがあり、そこには生前華が使っていた茶葉やポットなどが置いてある。木山さんから貰った紙袋からフィナンシェを取り出し、お皿に盛り付けながら華を思い出していた。紅茶が好きだった華は茶葉にもこだわっていて、美味しそうな洋菓子があると、それに合う茶葉を選んで紅茶を淹れてくれた。そして晴れた日には、庭にテーブルと椅子を出して午後の柔らかい日差しの下で一緒にティータイムを楽しんでいた。

 華から教わった通りに、マフィンのような洋菓子にはアッサムが合うと聞いていたので、茶葉を選び、紅茶を淹れる。そしてそれをトレイに乗せて書斎へと戻った。


「お待たせしました。」


 ドアを開けて入ると、木山さんがソファから立ち上がり、私の持っていたトレイを受け取ってテーブルへと運んでくれる。テーブルに紅茶とお菓子を並び終え、二人でソファに座り紅茶を飲む。

 一口飲み終えた木山さんが小さく息をつき、和んだような口調で言う。


「先生の淹れてくれる紅茶、本当に美味しいです。お菓子に合う紅茶とか色々と飲んだりするんですけど、先生の淹れてくれる紅茶は本格的な味ですよね。どこかで勉強されたんですか?」


 興味津々な目を私に向けながら質問してくる木山さんを見ながら、私は紅茶を一口飲みつつ答える。


「亡くなった妻に教えて貰ったんです。紅茶がとても好きで、良く二人で飲んでいました。特にこんな晴れた日は、今日みたいに美味しい洋菓子と一緒に紅茶を飲むのが日課みたいなものでした。妻の紅茶は私のよりももっと美味しいんですよ。」


 微笑みながらそう言い、私はガラス張りの窓から見える庭に視線を向ける。華との思い出を庭に投影させながら少し優しく微笑んだ後に、もう一口紅茶を飲む。


「奥様からだったんですね。そんなに美味しい紅茶なら、一度で良いから飲んでみたかったです。私のお菓子も食べて貰いたかったです。」


 残念そうに、そして哀愁を帯びた口調で言いながら、木山さんは持っていたカップに目線を落とした。気まずい空気が流れる中、不意に木山さんが「あ!」と言って紅茶をテーブルに置き、鞄からいつも使っている手帳を取り出すと、あるページを見て話し出した。


「先生! 今回出版した作品、凄い反響で発売から三カ月で重版が決定しましたよ。今までの先生の書く作品と作風が全然違うのと、内容のリアルさでかなり注目されているみたいです。」


 嬉しそうに話す木山さんを見ながら、私も微笑みつつ答える。


「そうですか。今回の作品がそんなに評価して頂けてとても嬉しいです。」

「笹原さんから引き継いで、こんな素敵な作品に関われたこと、本当に嬉しいです。不慮の事故で亡くなってしまいましたが、きっとここに居たら、とても喜んでいたと思いますよ。笹原さん、先生の作品のファンでしたから。」


 木山さんから微笑みが消え、視線は下を向き沈痛な面持ちで、少し声を潤ませて言う。


「そうですね。今回こうして無事に本を出版出来たのも、ひとえに…笹原さんのお陰だと思っています。彼女が居なければ、今回の作品は完成していなかったでしょうから。そんな笹原さんに、今回の作品は一番に読んで貰いたかったです。」


 私も真似るように哀傷漂う感じで答える。本心ではそんなことを思っていないだけに、表情が表に出ないように、いくらか大げさな感じになってしまっていたかもしれない。彼女の名前を久方振りに思い出した為、すんなり名前が出てこなかった。もう華の糧となった者には名前は必要ない。華の命となったのだから。

 すんなり名前の出てこなかった私の不自然さを、感傷的になった為だと思ったらしく、私の顔を見ながら木山さんは泣きそうな顔で何度も頷いていた。

 悲しい雰囲気が部屋を包む中、木山さんが払拭するように努めて明るい表情で話し出す。


「そう言えば、今回の作品は今までの先生の作風とは違ったものでしたが、とても面白かったです。まるで本当に先生が体験したようなリアルさと、(おぞ)ましさが描かれていて、読みながら背筋がゾクリとする怖さを感じました。あ、私の友人に看護師がいるんですが、その子も先生のファンで、今回の作品を病院の休憩室で読んでいたそうなんです。友人は仕事柄、重篤な患者さんと向き合うことが多いらしくて、その日も意識不明の患者さんが一人、救急搬送されてきて処置中に亡くなったそうです。その時、読んでいた本の内容が不意に脳裏に浮かんできて、もし本のようなことが日常で起こっていたら、この亡くなられた患者さんも、あんな(おぞ)ましい末路を辿ったからではないかって。そう思ったら、一瞬、背筋に悪寒が走ったそうです。フィクションだと分かっていても、先生のリアルな描写は現役の看護師をも恐怖させる程だったみたいです。こんな素晴らしい、今までにない先生の新たな作風を、笹原さんには是非見て貰いたかったです。本当に残念でなりません…。」

「そう言って頂けて作家冥利に尽きます。きっと、笹原さんは今回の作品も気に入ってくれたと思います。」


 何も知らずに、彼女の死を心から悔やんでいる木山さんに、私も同調してみせる。彼女を死に追いやった張本人は私なのだが、と心の中で思いながら。


「あ、先生。今回の作品、編集部でも話題だったんですが、もしかして先生は霊感があるんですか? あれは見えている人の描写じゃないかって編集部の人達が言ってましたよ。」


 木山さんが私を好奇心の目で見つめながら、声に少し興奮を含みつつ聞いてくる。そんな問いかけに、私は笑顔で答える。


「残念ながら霊感は私にはありません。今回の作品は私の想像の産物でしかありませんので。

 ただ、皆さんにリアルだと思って頂ける作品に仕上がっていたのだとしたら、作家として一皮

 剥けることが出来たのだと思います。」


 私のその答えに、木山さんは満面の笑みを浮かべながら、首を大きく縦に頷いた。


「想像であんなにリアルな幽霊等の描写を書けるなんて、間違いなく今回で先生の作品の幅は広がったと思います。それにタイトルも「命」と書いて「かて」と読ませるなんて、読み終わった時に鳥肌が立ちましたよ。そういう意味だったんだって読み終わって思いました。次回作も今回のようなホラーでいきますか?」


 手帳の新たなページをめくり、ペンを持ちながら聞いてくる木山さんの言葉は、私の耳には入っていなかった。

 なぜなら、さっきまで庭で楽しそうに駆け回っていた華が、美味しい紅茶とお菓子の匂いにつられて、今まさに木山さんの紅茶とお菓子を食べたそうに眺めているのだから。嬉しそうに微笑みを浮かべ、紅茶に手を伸ばしながら私を見つめてくる。しかし紅茶は掴めず、少し頬を膨らますその幼女のような愛くるしい姿に、私は見入ってしまっていた。


「先生? どうかされたんですか? 微笑みながら固まってますよ?」


 木山さんが私の視線の先で手を軽く振ってきて我に返る。


「あ、すみません。少し物思いに耽っていました。何の話でしたか?」


 木山さんは残念なことに華は見えていない。

 目の前にいる華の一挙一動の可愛さに心を奪われながらも、何とか木山さんの話を聞く態勢をとりながら答える。

 私の反応に多少呆れ顔の木山さんは、私の方に近付くように、ソファをテーブルへと目一杯寄せ、前のめりになって話し出す。


「次回作の話ですよ。次回作はどういう感じにしますか?」

「次回作ですか。実は、今度はミステリーを書いてみようかと思っているんです。殺人事件がおきて、そこから色々なことがおきていくような内容にしようかと。しかし、初めてのジャンルですので上手く書けるかどうか。」


 私の提案に、木山さんは目を輝かせ、手帳に走らせていたペンを止めて声を弾ませて言う。


「ミステリー! 私、大好きなんです! これでまた、佐伯 尋先生の作品の幅が広がりそうですね。今から凄く楽しみです。先生なら大丈夫です。今回の作品も初めてのジャンルでしたがこんなに成功されているんですから。私も全力でサポートしますので、なんでも言って下さい。」


 満面の笑みを浮かべる木山さんを見ながら、私は紅茶を飲みつつ微笑みながら言う。


「有難う御座います。とても頼りにしています。」


 そう言うと、木山さんは微笑みながら再度手帳にペンを走らせ始めた。

 そんな木山さんを見ていると、座っている私の後ろから、首に両手を絡めて華が抱きついてくる。背中に華の存在を感じながら絡めてきた手にそっと触れる。いつものようにすり抜けてしまうものの、静かに華の方を見ると、私に優しく微笑みかけてくれる。私も答えるように微笑み返すと、今度は視線を木山さんへと向けた。その目は微笑んではいるものの、どこか獲物を見定めているハンターのように、虎視眈々と狩る時を待っているかのような眼差だった。

 私も、華と同じように木山さんに視線を向けと、それと同時に手帳から顔を上げて、私を見る木山さんと目線が合った。あまりのタイミングの良さに、何かを感じとったのかと緊張が走る。

 少しお互いに見つめ合ったものの、木山さんは不思議そうな顔を私に向けてきた。


「先生、どうかされたんですか? なんだか顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」


 木山さんのその反応に私は心の中で安堵し、表情には出さないよう、努めて冷静に答えた。


「大丈夫です。すみません、少し疲れているのかもしれないです。」


 そう言うと、木山さんは心配そうな表情で私の顔を見てくる。


「先生、今日の打ち合わせはこの位にして、少し休まれた方が良いですよ。ここの所、多忙でしたから。打ち合わせはまた後日にしましょう。また後でご連絡しますので。」


 私の返事も聞かずに、いそいそと手帳を鞄に戻し、紅茶を全部飲み干した後、「御馳走様でした。」と言ってソファから立ち上がり、私に一礼する。


「有難う御座います。じゃあ、お言葉に甘えて今日は休ませて頂きます。」


 私もソファから立ち上がり、木山さんに微笑む。

 木山さんが書斎から出て玄関へ向かって歩いて行く後ろを、私と華もついて行く。私の左腕に自分の右腕を絡めながら、目線はずっと木山さんから逸らさない華。

 この感じの華を私は知っている。

 玄関に着くと、木山さんは靴を履きこちらを振り返り向く。


「それでは、お疲れ様でした。体調、お大事になさって下さい。」


 玄関ドアの前で私にそう言いながら一礼をし、外に出て行こうとする木山さんの後ろ姿に、華が少し左手を伸ばしたのだ。

 しかし、その手は木山さんに届く程ではなかったものの、きっともう時間の問題なのだと私は思った。

 そうとなったら、急いで次回作の構想を練らなければ。時間はあまりないようだから。

 閉まった玄関ドアを見つめ、そして華に視線を向け優しく微笑んだ。


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