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  作者: 橘アオイ
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第三章~第六章

 第三章


「文司さぁーん。文司さぁーん。ごめん、ここ開けてくれる?ドアドア」

瀬戸マリアの馴染みのある声に促されて、春間佐文司はドアのロックを内側から解除した。

 身長157センチのマリアが、おおよそ身長180センチはありそうな大男に肩を貸して目の前に立っていた。おまけに仕事道具の入ったいつもの鞄を首からぶら下げている。

「ふうーっ助かったあ。もう限界だって」そう言って瀬戸マリアは室内に倒れ込んだ。結果としてマリアが黒い服を着た大男の下敷きになっただけで、何も問題は解決していないように文司には見えた。

「マリアさんそんな所で寝られても困りますよ。風邪をひきますから、もう少し中に入って休んで下さいな」

「そもそもこの人が・・。ちょっといつまで私の上でくつろいでいるのよ。息苦しいじゃないの!」

「ああ、失礼。すまない」

宇都宮ひかるはやっと身体を起こしてシワの寄った身なりを整えた。

「まったく気が利かないわね、あなた。どういう教育を受けてきたのかしら」

 そう言いってマリアは自力で立ち上がり、肩まである髪を束ねていたヘアゴムを一度外して口に銜えると、固まった髪をまた軽く整えてからキュッとゴムでひっ詰めた。

「あーごめんなさい文司さん。急で申し訳ないけれどこの人をしばらく救護して欲しいの。えっと私も詳しい事情は知らないけど、一人にしたら死んじゃいそうだから、この人。私まだ仕事の途中で廻らなきゃならないの。終わるのが18時か19時か・・その位になったらまた迎えにくるから。じゃあ後はよろしく!」

 瀬戸マリアは早口で文司に告げると、大男の黒い鞄をくくりつけてあった背中から外して玄関先に放り投げて二人の前から消えていた。

「ほう、相変わらずたくましいですなぁ。ホレホレあんたさんも、そんな所にぼさーっと立っていないで中に入ってゆっくりしたらええんです。あー言っておきますがな、私はマリアさんのような芸当は出来ませんから。あんたさんはご自分のその立派な足で立って歩いて奥まで入って下さいな。少なくともこの年寄りよりは体力がおありでしょうからな・・」

「お・・お邪魔します」

 宇都宮ひかるは不思議な気持ちだった。見ず知らずの他人の家に急に上がり込んで、それを断りもしない自分がいる。ほとんど余計な物が置いていない老人の住居はあまり広くないはずなのにスッキリとしていて、気分がとても落ち着く。リビングの奥の二人掛けの白いソファーに当然のように腰を掛けてしまった。

 ああ、ここでは何も警戒しなくていいんだ。自分を大きく見せようとしなくても、誰の眼も気にしなくていいのだ・・・。

 祖父母の所でも、ピアノの先生の所でも、感じる事の出来なかった心地だ・・・・。


「・・もし。・・もし。起きて下さいな。ちょいと、ちょいと。困りましたなあ。ごはんができましたよ」

 春間佐文司に上半身を揺り動かされ、ひかるは我に返った。

えっえっ?何が起きているのか分からない。ここが何処で自分がどうして知らない人間の家らしい所で毛布を掛けられてすやすやと眠ってしまったのか。

 寝ぼけ眼状態でまだ状況が呑み込めていないひかるを置いてけぼりにして、キッチンの方で文司は手招きした。

「おいでなさいな、こっちこっち」

 またしてもひかるは不思議な感覚に陥る。どうしてこうも簡単に自分は老人の言う事に従ってしまうのだろう・・。

 狭いはずなのに広く感じるスペースの向こう、キッチンの四人掛けテーブルには何と、ひかるの前に先客が二人いた。

「あれ?おはよう。もう落ち着いたの」

白衣の天使に見えた女が口にモノを入れたままで喋り、その隣。黒めがねのチビが割り箸を置き立ち上がりながら叫んだ。

「宇都宮ひかる!」

「おやっ、袋井さんとあちらの方はお知り合いでしたか。それはそれは。ホレホレひかるさんも早くこっちへいらっしゃいな」

「ひかるさん?」何だか照れ臭くなりながらひかるが席に着くとタイミングよく文司はラーメンを運んできた。美しく白濁したスープの中に細めの麺が気持ちよさそうに泳いでいる。スープのエキスを含んだ湯気が顔と髪にかかる。いつもなら神経質なひかるは臭いが自分に付くのが気になってラーメンは外では食べないが、今日は特に気にならない。それよりも誰かと一緒に食卓を囲んで温かな気持ちになったのは何年振りだろうか?

 ひかるは割り箸を丁寧に両手で横に割った。


 宇都宮ひかるが僕と一緒にここで。文司さんといつもは二人きりのこの食卓で、僕と同じように限られた場所で文司さんの作ったラーメンを啜っている・・・。袋井誠はラーメンを食べながら上目使いでななめ向かいに座っているひかるを見ていた。

 彼と偶然に出逢ってその日のうちに誠は彼の音源を探して、すぐに購入した。仕事の休憩中と眠る前の数分間というもの毎日ひかるのピアノを聴いている。別に誠はミーハーでもないし、クラシック音楽に興味を今まで一度も持ったことはなかった。全てを諦めることが自然と身についている誠の人生の中で、どうして宇都宮ひかるに対しては欲張ろうとする自分が出てくるのか?

半熟卵の黄身をつついて麺をからめて一緒に啜る。

「相性がいいんでしょうなあ」

文司がなぜかポツリと言う。

自分の心を見透かされた気がして誠は思わず麺を口にくわえたまま文司を見た。

「ホラ、ホラッ」文司に眼で促されている気がして誠は口元に気合を入れる。

「宇都宮ひかるくん。僕と、その・・友達になって下さい」

誠は立ち上がって一礼した。

「何?愛の告白?」

 瀬戸マリアは面倒そうに誠を見た後、チャーシューにパクついた。

「あー美味しかったあ。ごめんね文司さん図々しくいつも食堂みたいに使っちゃって。私一人だとあんまり食べたくなくなっちゃうから。・・つい疲れるとここに来たくなるの。もうすぐ最終のバスが来るから私、行くね。明日も早いんだあ。二人はもう少しゆっくりしていなさいよ。その方が文司さん嬉しそうだし」

瀬戸マリアが仕事道具を小さな身体で抱えて文司の住まいを後にすると、ひかるも立ち上がった。

「ごちそう様でした。お世話になりました。今夜はちょっと余裕がありませんのでこのまま帰ります。今度改めてお礼に伺います」

「いや、なんの。元気になって何より何より。しっかりお眠りなされよ」

システムキッチンのカウンターにもたれ掛かりながら文司はひかるに手を振った。

「あれあれ、また二人きりになりましたな。お茶でも淹れますか」

文司が淹れた緑茶で一息つくと、誠は訊ねた。

「文司さん、僕は彼に振られてしまったということでしょうか?僕は彼に嫌われているのでしょうか。僕のような人間はやはり、何も望んではいけないのでしょうか・・・」

「・・少しだけ、今日はちょっとタイミングが合いませなんだなあ。ひかるさんにもひかるさんのペースがありますから、それだけの事です。袋井さんはもう、全てを気にしなくてもいいのですよ。長い間一人で闘ってきたのですから」


 文司さんは不思議な人だ。親でもないし、祖父とも学校の先生という感じとも違う。温かい人だけれど、時々怖いと感じることがある。僕の秘密を全部知られてしまっているのではないか・・。もしそうだとしてもそれは僕の自分のせいで、何かを諦めることは昔からもう身についている。そうやって皆の人生のキラキラした部分を見ないようにしてやってきたじゃないか。世の中の人から(さげす)まれても石を投げられても受け入れなければいけない責任が僕にはある。

 誠は特別保護居住地区の中庭をゆっくりと歩いていた。時刻は21時を過ぎそうだったが、そもそも公共の乗り物を利用していないので瀬戸マリアのように慌てる必要もない。

 マリアと同じ事情で慌てる必要はないが、別の理由で慌てる必要が誠にはある。21時30分以内にこの地区の外に出なければならない。何か特別なことでも起きない限り例外は許されていない。面倒なことに巻き込まれたら・・・。今の誠が持っている数少ないほんの僅かな温もりさえ根元から消えてしまいそうに思えて、誠は身震いした。

 足早に出入り口のセンサー付近まで着いた所で、何か誠は視線を感じた。ヘビ?カエル?ムカデ?

「な、何ですか?誰かいるんですかーー」誠は、右手に持っていたポケットライトを腕を伸ばして少し高いところから視線の先の方へ光を向けてみた。

 わずかにカサカサとした枝に残された枯れ葉が風のちからでこすれ合う音が聴こえるだけで、いつもの仕事終わりと何も変わりが無さそうだ。800人近くの住人がいる筈なのに、この特別保護居住地区には、生きている人間が住んでいるという生気があまり感じられない。

 誠が6年前にこの仕事に就いた時にも何となく気になっていたが、この何か喉の奥がむずむずと理由もなくかゆくなるような違和感に、誠は定期的に襲われる。

 元々、この特別保護居住地区にやってくる人たちは誰かと気持ちを共有したいとか、一人だと不安だとか思わない人種なのだ。と誠は自分に言い聞かせる癖が知らない間についてしまった。

 正直そんな後ろ向きな考えは普通の人間たちの頭では良くない発想なのだと思う。しかし誠にとっては逆に一定のラインから出ようとしない此処の住人たちの常識が好都合だった。

 顔を覚えて次に話が長くなっていって、笑顔が増えて行くその先に、誠には自分でも耐えられるのか想像もできない絶望が必ず大きな口を開けて待っている。

『最初から、知らなきゃよかった・・・』

 何度も味わって砂嵐の中でもがいて、やっと嵐の勢いが弱まったような気がしても、誠の口の中はジャリジャリとした砂が湧き出てくる。

『何も求めなければ、これ以上にもこれ以下にもならない』

 特別保護居住地区の住人たちとの人工的なやり取りの中で誠が傷を負うことは案の定、今まであまり無かった。

 住人たちの部屋を定期訪問する。という取り立てて難しい資格が必要でもないこの仕事に就こうとする若者は少なく、就いたとしてもすぐに辞めてしまう。

 理由はハッキリせず、とにかくやる気を失い精神が不安定になり、体調を崩し日常生活がままならなくなる。・・というのがほとんどだったらしい。

 誠のように5年以上続いているケースは稀であるらしいが、誠の場合は自分の自由意志だけでは職業を選べない。

与えられた仕事をアンドロイドのようにただこなしていれば良いのだーー。

 誠が左手の甲をセンサーにかざして特別保護居住地区のロックを解除しようとした、まさにその時足下に視線を感じた。おそるおそる追ったその先に、一人の男の子がしゃがみ込んでいるではないか。

「‼」

ちょっと待てよ、今僕が目にしたモノは一体何なんだ⁉誰か、此処の住人たちの誰かが所有していた出来のいい対人用のおしゃべりロボットか何か・・・いや、それにしてはあまりにも機械感が薄い。いくら裕福な住人も少なくないとはいってもこんなにも端正に作られているわけがない。・・ということは、つまり。つまり人間の子供ってことじゃないか!

 誠の顔は見る見るうちに午前1時に月光に照らされた六月の湖の湖面のように蒼白く揺れる。

 バカな。どうして子供がこんな時間にうろうろしているんだ?そうだきっと面会の許可をもらって祖父母に会いに来て、その帰りなんだ・・その帰り?だったら両親は?親のどちらかが居るはずだその辺に・・・。

誠はできるだけ首を前後左右に振ってこの男の子の関係者が視界に入ることを祈る。

 誠の願いは虚しく散り、そこに在るのはいつもとよく似た静寂と少年だけ。

 この子を連れて僕がここを出ることは決して出来ない。

だからといって放って帰る訳にも・・何か別の事件が発生したりしたら、それこそ面倒だ。仕方がない。誠はそうっと少年に近づき、少年と同じ目線の高さにしゃがんだ。

「ちょっとキミどこからきたの?どうしてこんなところにいるの?おとうさんやおかあさんは?」

拒まれると誠は思い、次の言葉を頭の中で探しながら言ったが、少年は意外とあっさり口を開いた。

「ボクここにはひとりできた。だれもしらない。きっとどうでもいい」

誠は首を傾げる。

「どうでもいい。って事はないよ。きっとみんな心配して・・」

少年の意志を持った瞳が、誠の言葉があっけなく遮る。

「・・そんなのききあきた。ボクをだまそうとしてもダメさ」

「別にだまそうとなんてしていないじゃないか!あーそうじゃなくて。とにかくこの場所はキミがいちゃダメな所なんだ。入ってきた時と同じように、ここから出るんだ!」

「なんで?なんでここにいたらダメなの?ほごされるひとがいるんでしょ。ボクだってほごされるひとじゃんか」

「そうだけど、そうじゃないんだ。今は時間がないんだ。キミがここにいたくてもそのうち見つかって家に帰される。ここでごねてても結果は一緒だ。それがイヤだったら自分から動くんだ!」

「・・・・・・」

ぷうっとむくれて少年はそっぽを向いた。

「はあーっ」誠が空を仰いだその時、何か人影のようなものが視界に入った。

“宇都宮ひかる”まだ帰っていなかったんだ。これは渡りに船。使えるモノは何でも使わなきゃ。

「ひかる~。ひかるぅ~」

 自分の名前を呼びながら大きく手を振る誠が目に入ると、宇都宮ひかるは一旦立ち止まり、そのまま誠たちの方向へ歩みを寄せてきた。

「ひかる。良かったあ。説明している時間はないんだ。この子を連れて一刻も早くここから出てほしい。今すぐに!」

 誠は再びしゃがみ込んで目線を近づけて少年にも言う。

「さあ、いいねキミもごねていないで僕の言うことをきくんだ。このおじさんとそこのゲートから向こう側へ行くんだ」

 誠は呆然とつっ立っているひかるの左手と少年の右手を引っ張ってつなぎ合わせると、そのままドンッと二人を押し出した。

「ほら、早くしないと時間がない。ほら行った行った!」

 大きなジェスチャーで誠が行った行った!と両手を下に向けて顔の少し下の位置でだらんとさせて外側にはらってみせると、二人は素直にそれに従いゲートの外へと消えた。


「・・・。お前だれだ?なぜ一人でこんな所にいる⁉」

「ボクは岩永ヨシ“いえで”してきた」

「家出?」

「そうさ、もうあんなとこにもどるもんか!しばらくひかるのいえにいるから、よろしく」

「お前バカか!と歳はいくつだ、どうして親でもない俺がお前の面倒をみる必要がある。お前の家出など知ったことか、俺は自分の家に帰る。お前は勝手にしろっ!」

 宇都宮ひかるは少年と繋いでいた手を勢いよく振りほどいてスタスタと一人で歩き出した。

「ひかるにゆうかいされたっていうよ!」

 少年の投げた言葉がひかるの頭に見事に突き刺さる。

「ボクがさわいだら、こまるのはひかるだろ?ピアノがひけなくなってもしらないよ」

「お前、俺を知っているのか?」

「うつのみやひかるだろ、しってるよ。こどもだからってバカにすんな!」

「・・・・・」

 少しの沈黙の後、ひかるは少年の元へと戻り問いかけた。

「お前ピアノが好きか?」

「うん、すき。ひけないけど」

「そうか、わかった」

 ひかるが少年の頭の近くに左手を差し出すと、少年の右手がそれを掴んだ。

「はじめに言っておくが、今夜だけだぞ。明日になれば警察にお前を連れて行く。それで俺の役目は終わりだ」

「・・・・・・・」

 黙ったままの少年の右手に温かさを感じながら、宇都宮ひかるは少年と共に風が少し強くなりだした月光の下を歩いたーーー。



 第四章


 特別保護居住地区のゲートを出て約二分ほど、歩いてすぐの場所に袋井誠の住処はあった。昔は高校か専門学校か何かの学生寮だったらしい。地上三階建て、縦・横に規則正しく窓が15個並んでいる。

バス・トイレはそれぞれの部屋ごとに一応備え付けられており、間取りは六畳二間と、ごく小さな気持ちばかりのキッチンがある。部屋から出なくてもある程度の生活をおくるのに不自由はない。

 特別保護居住地区の住民に何かあって、危険だという信号が送られると真夜中だろうが何だろうが、右の足首に微弱な電流が流れて起こされる。その度に誠は家にいる部屋着のままとりあえず信号を発している住民の部屋に駆け付けるというしくみだ。

 その呼ばれる内容というのが住民の体調に異変が生じた、という理由は少ない。大概が家にゴキブリや蜘蛛が出たとか、トイレの水が流れないとか、洗濯機が途中で動かなくなった。料理をたくさん作りずぎて食べきれない。急に昔を思い出して寂しくなってしまった、家具を動かしたいので手伝って欲しい・・。といった具合が現状であった。

 本来なら家族と同居していれば騒ぎにならないだろう。一人暮らしだとしても近所の住民たちとコミュニケーションが取れていれば、誠が呼び出される回数は減るはずだ。しかしこれだけの住民が同じ場所に居ながら、ここの住民たちは近所の住民同士でコミュニケーションを取りたがらない。

 単純に考えれば、同じ位の年齢の者同士の集まりなのだからさぞかし気が合うだろう。と捉えがちだが、幼い子供と違って年齢を重ねれば重ねるほど人間は複雑になってしまうようだ。

 今まで自分が就いてきた仕事での社会的地位、受けてきた教育。築き上げた財産、趣味嗜好。

 この特別保護居住地区では、住民たちが移住する際に預けられる納入金によって住居エリアが分けられているので、本来はある程度生活レベルの近い者同士が近くに住むシステムになっている。

 気を利かせたつもりでも、それはなかなか機能していない。

 世の中便利になって家の外に出なくても買い物ができたり、医者の診療を受けたり、食事だって運んでもらうことが出来る。

悩みがあればAIのカウンセラーに恥ずかしがらずに何でも相談できてしまう。家の中にいて世界中のあらゆる場所をバーチャル体験することも可能。

 人と人同士が直接ふれあうことに何の意味があるのだろう?と誠はこの仕事に就いた時から考えるようになっていった。人を介さなくても生活には正直困らない。だけれど、人間としては困るのではないか・・。


 狭いバスタブに浸かりながら誠は今更「ハッ」とした。しまった僕は何てこと・・。あの子はどうなっただろう?宇都宮ひかるにしたって僕は彼のことをどういう人間なのかほとんど知らないじゃないか。一番最初に彼に逢った時のことを思い出せよ、どう贔屓目に見たって誰かに歩み寄る感じじゃなかったじゃないか。あのままゲートの外に二人で出たにしたって、あの子を置いてけぼりにして一人でさっさと帰ってしまったかもしれない。

 あの子にしたって僕と打ち解けて心を開こうなんてしていなかった。大人を拒否して自分の殻に閉じこもっていたじゃないか。

「どうしよう」誠は呟いて狭いバスタブの湯の中に頭を沈めてみる。顔も頭も何もかも水の中の世界では全部が無かったことになる。

 もしかしたらこちら側が本当で外側が幻じゃないかと思う。いや、思いたいんだ。母親のお腹の中にいた頃の自分でまだ何も始まってはいない。何もかも希望に満ちて、今だったら何もかも思い通りに・・。

「ぷはーっ」息苦しくなって誠は顔を水中から上げた。何やってんだ僕は、今はそんな場所に逃げている場合じゃないだろ。だいたい思い通りって何だよ?僕はどうしたいっていうんだ。

 誠は拳で水面を強く殴り、そのしぶきが誠の瞳の中に容赦なく突き刺さる。

 ああこれだ。僕の人生はいつだってこんな具合。僕みたいなちっぽけな人間がジタバタしたって何も変わらない。

『変わらないんだ。何も』



「ねえ、なんかひいてよ。ひかるぅ」

 岩永ヨシはジャケットを脱いでトルソに掛け、白い革張りのソファーにもたれて窓の外を見つめている宇都宮ひかるの、折れ曲がった長い脚の膝の辺りのズボンを引っ張ってねだった。

「おい、ヨシと言ったな。調子に乗るんじゃない。俺はプロのピアノ弾きだ。いくら子供だからってお前のワガママに付き合っていられるか。それより、もう遅い。子供は寝る時間だ。風呂を入れてくるからよく温まって寝るんだ」

 足元にいるヨシ少年を振り切ってひかるはバスタブに湯を張り始めた。壁にあるコントロールパネルをONにするとボタンが表示され、スタートを押すと勝手に湯を張り始めて自動で止まる。

「ボクおなかすいた」

 むくれたヨシがソファーの隣で体育座りしながらひかるを睨んでいる。

「あっと、そうだったな。俺は食べてきたから気付かなかった・・何が食べたい?デリバリーで注文すればここでも30分以内で届くぞ。ピザか?ハンバーガーか?寿司か?」

「・・そんなのいらない。ひかるがつくってくれたものじゃなきゃたべない」

 部屋のモニターでデリバリー検索をしていたひかるの手が止まり、顔が固まる。

「期待しているところ悪いが、俺は料理はしないんだ。手を怪我でもしたら困る。お前のリクエストには応えられん」

「じゃあ、みずでいいよ。みずはどのいえにもあるだろ?いますぐひかるがもってきてよ」

「くっ」

 何てガキだ、これだから子供は嫌いなんだ。まったく、どう教育されたらこうなるんだ!

 宇都宮ひかるは仕方なくキッチンに向かい、棚からシリアルの袋を取って小さめのボウルに滑らせ、冷蔵庫から牛乳を取り出してシリアルの上に注いで電子レンジで少しだけ温めた。

「よその家と違って俺の家には余計なものは置いていない。これがこの家で俺が用意できる精いっぱいというところだ。口に合わなければ無理して食べなくていい。そのかわり水だけは飲め。ここでお前に飢え死にでもされたら俺が迷惑なんだ。水なら好き嫌いなくお前でも飲めるだろ」

 ひかるはシリアルの入ったボウルとミネラルウォーターの入ったグラスをヨシの近くにあるリビングテーブルの上に置いた。いったん離れてグレーのスウェットに着替えてからリビングに戻りグランドピアノの蓋を開けてそっと鍵盤に触れる。

 温めた牛乳の中でぷくぷくに太ったシリアルをスプーンで口の中に運び入れていたヨシ少年の手が止まる。ヨシは食べるのを止めて両手を膝の上に規則正しくちょこんと乗せると目を閉じて、すうーっと深呼吸してみた。

 今までヨシのそう長くはない10年間と5ヶ月の人生の中で、一番きれいな空気に全身を包まれた気がしていた。ひかるの指先から生まれた音がヨシの気持ちをワクワクと軽くしてゆく。ザラザラとしたヨシの心の中に溜まっていた砂がヨシのお腹の下の方からどこかへ消えて行く。

 ひかるの奏でるショパンのノクターン第三番作品9ー3が部屋中を満たし、ひかるの背中から言葉が聴こえてくる。

「俺はただ自分のピアノの練習をしているだけだ。お前に聴かせるために弾いているのではない。だから聴きたくなければ聴かなくていい。聴きたければ聴けばいい」

 誰の何という曲なのかヨシには分からない。だけれど思ってもいない言葉でなぐさめられるよりも、ヨシの心の中のカラカラのところに染み込んで潤う。さっきまでのひかるの態度からは信じられない細やかで生きているような音が流れる。

 このひとはきっと、あったかいひとなんだ。

 ヨシ少年は確信した。

 いままで、おやもがっこうのせんせいもみんなおおウソつきだ。できないやくそくや、おもっていないことをいってこどもをよろこばそうとする。こどもだからなにもわからないとおもっているんだ。かってにはなしていればじぶんたちのやくめはおわりで、あとはボクたちがいうことをきくとおもっている。

 ヨシ少年の頭の中には父親と母親がいつも口ゲンカしている朝と夜の様子が浮かんでいた。

ケンカしておとうさんがでていったときはおかあさんが、おかあさんがでていったときはおとうさんが。ぐちゃぐちゃになったいえのなかをかたづけながら、となりのへやからボクをみつける。そしてみつけるときまって、めんどうそうなかおでボクをみる。

「おまえなんか、いっそいなければよかったのに!」そういわれているきがしていた。

『ボクなんかいないほうが、きっとこのいえのなかはへいわなんだ。ボクがいないほうがきっとおとうさんもおかあさんもうれしいんだ』

 二人の顔が浮かんできて、ヨシ少年の瞳に溜まっていた涙が握っていた小さな手の上にこぼれた。

 ひかるのピアノはショパンのノクターン第十二番作品23ー2を奏で、ヨシの背中を優しくさすっている。

 ヨシがひかるのピアノを初めて知ったのは、クラスメイトの姫乃ちゃんだったか?が姫乃ちゃんのおたんじょうび会で聴かせてくれた時だった。おたんじょうび会なんてプレゼントを買うお金もないし、着て行く服もないからヨシは行くつもりがなかったけれど「どうしても手ぶらでいいから」という姫乃ちゃんのリクエストで、ヨシはしぶしぶケーキ目当てで参加した。

 手ぶらで行ったのにどうしてかプレゼントを渡すときにヨシの分もプレゼントは用意されていた。まわりの子供たちがどういう子たちで何を祝っているのか興味がなかったヨシは、ケーキも食べて目的は達成できたので帰ろうとしたその時、宇都宮ひかるのピアノの調べが広い姫乃ちゃんのおたんじょうび会のメインルームこと、リビングルームに流れたのだ。

 それまではどうやって帰る前にテーブルの上の皿にならべられているカラフルな焼き菓子をポケットにそっと入れて帰ろうか、ということばかり考えていたヨシ少年の頭の中の全てがひかるのピアノの音を聴いたと同時にすっ飛んでいって、キラキラとした星でいっぱいになった。

 なんだろう?このかんじ。どうしてほかのことがどうでもよくなるんだろう・・。

 ヨシは音源が宇都宮ひかるのピアノであることを姫乃ちゃんから訊きだすと、ほかに何かしゃべりたそうにしていた姫乃ちゃんをほったらかして家までダッシュ。壁のモニターの電源をオンにして宇都宮ひかるのピアノ音源を探した。無料で聴ける音源は少なかったけれど、それがたとえ短くてもヨシには充分だった・・。

 ヨシ少年の頭の中から姫乃ちゃんがすっかり消える頃、ひかるのピアノはショパンのバラード第一番作品23を奏でている。

 いま、あのひかるのピアノのおとがじぶんのめのまえで、だいすきなひかるがピアノをひいてくれているんだ。と思うとヨシは姫乃ちゃんに感謝しながらも、姫乃ちゃんも自分の両親のことも、家を出てきたことも、全部がどうでもいいことに分類された。

 このまま、じかんがとまって、ここでひかるのピアノをききながらスウーッときえて、しんでしまいたい。とヨシは思った。

 およそ9分間ほどの最後の曲を弾き終えると、ゆっくりとひかるは鍵盤から手を降ろし、ヨシの隣にひざまずいて泣いているヨシを抱きしめていた。

 なぜ、俺はこんなことをしているんだ?子供の世話なんてガラにもない。

 ひかるの意志とは関係のない違う部分で身体を誰かにリモートコントロールされている気がする。

 ヨシの小さな頭を撫でながら、頬に溜まった涙をひかるは慣れていないその大きな手で拭う。あまりにもその頭が小さく、やわらかく。

自分の手のひらの中にすっぽりと納まって消えてしまいそうなこの少年を何とかしなくては、という気がしてきた。

 どうしたというんだ俺は。なぜこんな赤の他人のガキなんかに・・・。

 ひかるはまたもや誰かにリモートコントロールされるのを感じていたーーー。



「おい女、止まれ!」

「ひいっ!」

 瀬戸マリアは特別保護居住地区の訪問看護の仕事に向かう早朝8時30分、特別保護居住地区に入るゲートの前で突然大男に腕を掴まれた。

「うっ宇都宮ひかる!どうしてあなたみたいな人がこんな時間に。ここで何をしようっていうの?悪いケド私、あなたと違って労働時間で拘束されているの。邪魔しないで頂戴」

 マリアがそう言いながらひかるに掴まれた腕を振りほどいた。

 マリアに拒絶された左手に異常が無いかを、丁寧に手をさすりながら確認しているひかるを見て、

「そんなに心配なら慣れないことなんかやめておけばいいじゃない。あなたにとってその両手以上に大事なものなんか無いでしょうに。不愉快だわ」

と続けた。

「すまない、そうじゃない。助けて欲しいんだ。俺にはお前が必要なんだ」

 今度はマリアを正面から抱き寄せながらひかるが言う。

 マリアの右頬にひかるの胸の鼓動が伝わる。

 どうしてだか甘い香りのするひかるの胸の中で「ずうっとこのままでいたい」と感じている自分に驚きながらも、今まで一人で生きてきて、これからも一人で生きて行くと決めたアイデンティティがそういった甘えを吹き飛ばす。

「だからあ、いちいち止めなさいよ。こういうの!」

頬にひかるの甘い温もりを残しながらマリアは両手でひかるの胸を引き剥がした。

「用件は何?手短に答えて。ムダなことは言わなくていい」

「あ、つまり子供が・・子供がいて、俺のところに。何とかして欲しい」

薄弱な光景を脳裏に浮かべながら、

「それって緊急事態ってことよね」

とマリアは言い、出勤が遅れる連絡を管理室のデータに送信した。

「さあ早く案内しなさいよ」

今度はマリアがひかるの腕を取った。



 朝9時30分。袋井誠は特別保護居住地区のゲートをセンサーで開けながら、夕べの自分の行動の後悔から、足取りが重くなるのを感じていた。結局、夜もろくに眠れずに買い置きしている睡眠導入剤に頼ろうとしたものの、恐ろしく大量に服用してしまいそうな自分がいて、またそれも更に恐ろしくなって、そのまま少しだけウトウトして朝を迎えてしまった。

 本当は僕が自分自身であの子を警察か管理室に届け出れば何てことはなかった。あの場で唐突に宇都宮ひかるを捕まえて丸投げして、きっと彼は困っただろうに。どう見ても彼は子供が嫌いっていうか、慣れていない感じだったし・・。何より僕は彼に嫌われたに違いない。彼は僕に失望しているだろう。彼は僕にもう、話しかけもしないだろう。

 つい昨日の夕方、一緒に文司さんのラーメンを一緒にすすりテーブルを囲んでいた出来事が、誠の記憶の中で湯気に撒かれて朧気になる。

 せっかく出来かかっていた繋がりを僕は自分で断ち切ってしまった。いいや、それよりも僕が呆れるのは、未だに僕がそういった甘い現実を求めてしまっている事なんだ。

 僕には“あの時”からそんなモノは許されないのに。ある一瞬の出来事だったとしても、その時間は一瞬ではなく、一生。永遠に続くというのに・・。

 夕べ暗がりで少年を見つけた時、誠は自分の姿をその少年に重ねてしまっていた。

 どこにも行き場が無く、飢えている瞳。暗がりだというのにやたらと光を放ってどうしても目を逸らせなくなる。

 25年前の僕も行き場なんて無かった。

もちろん学校にも通ってクラスメイトもいて、先生だって。どれだけ明るく振る舞っても僕の中心はいつだって凍えていた。

 あの頃の母さんはいつも落ち着きが無かった。高いところから誰かにいつも見張られているように、家の中でもその眼は泳いでいる感じだ。

 僕の学校での成績のことも、課外活動はどうしているか、友達はどういう子たちだとか、まるで関心がない。・・いや違う。母さんの全ては父さんが帰宅してから翌朝会社に行くために家を出るまでの9時間ほどの時間に注ぎ込まれていた。

 父さんはあまりたくさん口を開かない人で、気に入らないことがあると先に態度に出た。僕にとっては普通のことになっていたけれど、当然、あまり僕とも話をしない。

 僕の中でのイメージは毎朝家を出る時に父さんは決まって玄関の靴箱の上を右手の中指でスーッとさわって埃があると、その場で大げさに息を吹いて指に付いたか付いていないかの、見えない埃を飛ばしていた。

 12年の間、父さんと暮らして、僕の記憶の中の父さんは、玄関先でのスーツを着た後ろ姿だけのような気がする。

 あの日の三日前、僕たちが家にいない昼間、いつも父さんが指に付いた埃を飛ばしていた玄関から母さんは出て行って、そのまま戻って来なかった。

 僕はいつもと同じように学校に行って授業を受けて、放課後も同じように屋上でKくんと何をするともなくふざけ合っていて・・。

 どうしてだか分からないけれど、僕の指先の少し向こう側でKくんは僕の目の前から消えて、Kくんの身体は30メートル下の通路の上で、動かなくなってしまった・・・。


 僕はその後、いろいろな所へ連れていかれ、知らない大人にたくさん会わされて、検査のようなものを受けさせられて“更生施設”と呼ばれる場所が僕の新しい家になった。


 父さんとは“あの日”以来顔を合わせてはいない。母さんとはその前から・・。父さんが面会に来ていたらしいけれど僕は会うことを拒否した。

 父さんから、たぶん僕は大切なものを全て奪ったのだということだけ理解できて、あの父さんにどんな顔で会ったらいいのか分からない。

 そういう状況になっていたのに、母さんが来てくれない意味が見つけられなくて、僕の頭の中ではその事ばかりが廻っていた。


 そして、大人たちに何度もされていた質問に僕は「はい」と答えることが出来なかった。

『Kくんの命を奪ったことを、Kくんやご両親に申し訳ないと思っていますか?』



 第五章


 グランドピアノと大きめの白い革張りのソファとガラステーブル。あまり無駄なものが置いていない宇都宮ひかるの部屋で瀬戸マリアはヨシ少年と対面していた。

「あ・・あなたもしかしてこの子、誘拐してきたの⁉この子をどうしようっていうの?まさか」

 マリアはゴクリと大きく息を飲んでから続けた。

「まさか児童買春とかじゃないでしょうね⁉お縄になるわよ!嗚呼どうしよう。もしかして私も共犯なんてことになるの?今まで真面目に人の道から逸れることだけはするまい、と生きてきたのに。こんな所で失敗するなんて」

 オーバーアクション気味に両腕を上げたり下げたりしながらひかるに訴えかけるマリアを見て、ひかるは正直「めんどうな女だ」と思った。

「あっ今、私のことを鬱陶しいとか面倒くさいとか思ったでしょう。言っときますけど、それはこっちのセリフですからね。私が言えても、あなたに言える資格なんてこれっぽっちも無いんですからね」

「違うそうじゃない。俺は児童買春なんてしていない!お前にいろいろ言える立場じゃないのは分かっている。でも違うんだ」

 今度はひかるが長い腕をバタつかせて応戦する。

「分かったわ。悪かった。私も慌ててしまって、言い過ぎたわ。それよりこの子何時からここに居るの?ずいぶんと行儀よくしているようだけれど」

「夕べからだ。俺も詳しいことは知らん。ただコイツにも、ヨシにもいろいろ事情があるらしい。家には帰りたくないと言っている」

「ヨシ?ヨシくんて言うの。どこから来たの?」

 マリアはソファに座って足をぶらぶらさせているヨシと同じ目の高さにしゃがんで訊ねる。

「岩永ヨシ。10さい。ボクはここでずっとひかるといっしょがいい」

「ありゃま」

 マリアは自分がしゃがんでいるせいで更に大男になっているひかるの方を見上げる。

「飛んだ押しかけ女房だねえ。いいかなヨシくん。キミの気持ちは分かるけれどこの人は、ひかるはキミの親じゃないの、他人なの。だから一緒にいてはいけないの。一緒にいたらひかるが困るの。迷惑なの」

 マリアはヨシ少年に向き直って、しっかりと目を見て話した。

「おいおい、相手はまだ子供なんだぜ。そんな言い方しなくてもいいじゃないか。もう少し優しくしてやれよ」

「あなた本当にバカもいいところね。子供だろうが何だろうが、大人が思っている以上にちゃんと理解してる。この子はあなたのそういう所を見抜いて、ここにもう少し厄介になろうって腹積もりでいるのよ。理由はどうであれ、世間は面白おかしくあなたの事をバッシングするでしょうね“天才ピアニストの隠された闇”とか何とか。そんなお門違いで自分のピアニストとしての生命が絶たれるなんて、私だったら冗談じゃないわ!あなただってそうでしょう⁉」

「・・・・・・」

 ひかるは何も言えずにチラッとヨシに眼をやった。

「ボクはいやだ。ボクのせいでひかるのピアノがきけなくなるなんて」

「そうだよねえ。やっぱりヨシくんは賢いねえ。この家たぶん何にも無いだろうから、私のお弁当食べていいから。食べたら、本当のヨシくんの家に帰ろうか・・」

 リビングでヨシ少年に自分の昼食用の弁当を食べさせている間「本当にこの家には何もない」と文句を言いながらマリアはコーヒーを淹れ、ひかると二人キッチンの狭いテーブルで向かい合った。

「あの子を警察に連れて行くのは簡単よ。だけれどあの子、今のまま親のところに戻しても、またするわよ家出」

「ああ、そうなんだ。きっとヨシの中で何かが解決しなけりゃ、普通に帰ったところでダメなんだ」

「でもこのままあの子をここに置いておいたら、あなた本当になっちゃうわよ。さっきの話」

「だからって俺が警察にあの子を連れて行ったらそれこそ大騒ぎだろうが!だからそもそもお前が必要だって、ここに連れてきたんじゃないか。ヨシには悪いが弁当食べ終わったらお前がヨシと警察に行ってくれ。それで俺の日常は戻って来る」

 薄い木目のダイニングテーブルに肘を付きながらマリアは考え込んで返事もしない。

 二杯目のコーヒーをマリアのマグカップにひかるが注いでいると、急にマリアが立ち上がった。

「そうよ、その手があったじゃないの。あなたにしか、宇都宮ひかるにしか出来ない方法があったじゃない!あの子の両親をここに呼んで、ひかるのピアノを聴かせるのよ。そしたらきっと、あの子の気持ちが両親にも届くはずよ」

 マリアは自信満々に言い放つ。

「お前、それ分かって言ってんのか?ヨシの親が来なかったらどうするんだ。俺がただの変質者みたいに思われたらどうするんだ。それこそさっきの誘拐説が成立するぞ!」

「そん時はそん時よ。自分の子供が一晩ふらっと居なくなって心配しない親がどこにいんのよ。それともひかる、自分のピアノに自信が無いの?」

「バカを言え、そんなワケないだろうが!俺にはピアノしか無いんだ。いつだって一緒だったんだ。ヨシの想いが親に伝わらない筈がない」

「ふふ、そう来なくっちゃ。大丈夫よ絶対に上手くいくから」

マリアはニヤニヤしながらダイニングチェアーに腰かけ、すこし冷めたコーヒーをゆっくりと啜った。



 僕は弱い人間だ“一人で生きて行く”と決めているというのに、ちょっと誰かと触れ合うだけで心がざわざわしてしまう。

 袋井誠は特別保護居住地区のAエリア第5地区5006号室。春間佐文司の部屋の前に来ていた。今週はもう定期訪問を終えていたので本来なら特別に訪ねる理由などはない。

 誠はどうしても、春間佐文司に会って直接自分の口から全てを話さなければならないと思っていた。今このタイミングで話してしまわなければ自分は一生、大切に思っている人たちを毎日傷つけてしまう。それと同時に自分自身も傷付き、いつの間にかとんでもない行動に出てしまうかもしれない。

 見たことのないモンスターが西陽に照らされて長く伸びた自分の影から出てきて、全てを喰らい尽くして行く気がして誠の心は震えた。

 2・3分文司の部屋の前でインターホンのセンサーに触れようかどうしようか行ったり来たりした後、誠はセンサーに触れた。

 センサーが反応してから一呼吸して、文司はいつものようにドアを開けると行儀よく室内履きを玄関に揃えて誠を迎えた。

「やあ、いらっしゃい」

 文司の少し丸まった背中に導かれながら誠は、文司が何もかもお見通しで自分を待っていたのではないか、という気がしてきた。

 相変わらず文司の部屋は物が少なく、白いダイニングテーブルの上に用意されたほうじ茶でもてなされた事だけが、いつもと違っている。

「文司さん、今日は大事な話があって・・来ました。座って話を聴いて下さい」

 戸棚からラーメンどんぶりを出しかけていた文司は手を止め、誠と向かい合って腰かけた。

「文司さんもここに住んでいるという事は、ここで働く僕たちの中には、ここでしか働けない人間がいることも知らされていると思います。僕は6年前ここに来るまでは、なるべく他人と関わらないように生きてきました。

・・誰かが僕の中に入ってきた時に、急に僕は欲張りになるからです。欲しくてたまらなくて、その先も、もっともっと欲しくなってしまう。分かっているんです。僕は欲しがってはいけない人間だってことも、そしてまた一人になった後に何倍にも大きくなった痛みがやってきて無期限に僕の中に住み着いて離れない。・・もう苦しいのは嫌なんです!だからきちんと、僕の口で伝えたくて・・ひっ・・・」

 誠は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、続けた。

「文司さん、僕は人殺しなんです。人を・・同級生を殺しました。虫を一匹殺すみたいにKくんを・・・うぐっ・・」

「ホレホレ、鼻でもかみなさいな」

 文司は誠の鼻水を拭いながら、追加のティッシュボックスを誠にすすめた。

 遠慮なく誠は鼻をかんだ。何度も何度も涙が枯れるかと思うほどかみ続け、ティッシュペーパーのぐしゅぐしゅの山が出来上がった頃には、誠の涙も本当に枯れるように止まった。

「・・アタシみたいに、大した人生を送ってきたわけでも無い人間にも、長く生きていりゃあ、まぁいろいろありますわ。とてもじゃあありませんが他人様には言えない、そんな秘密の一つや二つ誰にでもあるもんでさあ。例えばホラこの前にいらっしゃった、顔のつるっとした若い兄さん。あの兄さんにだってあるもんじゃあないですかねぇ・・・」

 文司はだいぶぬるくなってしまったほうじ茶で少し喉元を潤してから「ちょっと待って下さいよ」と付け加えてリビングの方へ行くと、何かアルミ製の箱のような物を抱えて戻ってきた。

 いつもに比べて饒舌になってゆく文司の姿を不思議に思いながら、いつの間にか誠は完全に文司の話を聴く側に廻らされてしまっていた。

「アタシの変なクセと言いましょうか、大事な物はこうやって煎餅なんかが入っていた入れ物に、つい入れてしまうんですなあ。今の時代ですからねもっといい物があると思うんですがね、ついもういう慣れっていうんですか。安心なんですな」

 文司は誠の前に向かい合ってそう言いながら座ると、煙でも出てきそうなアルミ缶のフタを開けた。

 誠は一瞬目をつむったが、アルミ缶は年代物の割りには清潔らしく誠が恐れていたカビの胞子たちが浮遊することはなく開き、その代わりに変色した封筒らしき物が束になっておよそ40センチのアルミ缶の中に迷うことなく収まっていた。

 文司はその束の中のひとつをそっと取り出し、向きを正してから誠の目の前のテーブルの上に差し出した。

 封筒に書かれていた文字はとても懐かしく、厳しくそして、かつてなかった慈愛に満ちている。誠の中の感情がフルスピードで逆流し、全身の血液がゴウゴウと音を立てて誠を責め立て始める。

 恐る恐る誠は目の前の封筒を両手を伸ばして近くに手繰り寄せた。締めている両脇から汗が噴き出す。

 封筒に書かれたそのあて名は『袋井誠様』とあり、封筒の裏には籏町悦夫という差出人の名が刻まれている。

『籏町悦夫』

 紛れもない、誠の父親の名がそこにはあった。

「お父さん・・・」

 声になるかならないかの小さな声量で、誠の口から止まった時が漏れる。

「恥ずかしながら、アタシは若い頃からあんまし生活が安定していませんでなあ、いろいろな所を転々としてその場その場で働いて、目の前のことを何とかする方法でやっとこさ生きてきましてなあ。一緒にどなたさんと働いてきたかなんてものはほとんど覚えとらんというのが正直なところで、それでも中にはどんなことをしていても忘れられない方も居ましてな、そのおひとりがこのお方『籏町悦夫さん』でした。あまり無駄話をしないお人で真面目に仕事に取り組んでおられました。

 何となく、居場所を転々とされているような気がして、アタシの中で気になって一方通行で声をかけたんです。ぽつりぽつりと籏町さんは話をされる方で、まあ始まりは変わらずいつもアタシの方からなんですが・・あの時だけは違ったんです。ある日アタシがラーメンの出汁の番をして大鍋の前で煮込まれていく骨だの野菜だのをぼうっと見つめていると、籏町さんに声をかけられたんです『急で申し訳ないが、自分はここに居られなくなってしまった。頼める人が他にいないので自分の息子に会ったら、いつかこれを渡して欲しい』と。息子さんの話は少しだけ、籏町さんから伺っていました『自分のせいで息子さんを長い間苦しめてしまった。息子の罪は、自分の罪。自分には息子に会う資格は無いが、許される日が来るのなら、いつか自分の本心を息子に伝えたい』アタシは一目見て袋井さんがその息子さんだと分かりました。目元や歩き方がお父上に似ていましたから・・。あと一生懸命に何かをしようとするところも・・」

 誠が手のひらに握りしめていた父親からの手紙に、涙の粒がポタリポタリと落ち、雫の花が紙の上に咲いて、ゆっくりと時の隙間に沁みて行く。

「アタシもはっきりとは分かりませんが、籏町さんはどこか身体の具合が悪かったらしくてね、ゆっくりと考える間もなかったのかもしれませんなぁ」

 かつて商社勤めで味噌汁どころか、お湯さえ沸かそうともしなかった父親が文司さんと同じ場所で、ラーメン店で働いていた・・・。

 僕は父さんの全てを、何もかも奪ったんだ。そう、望み通りに。・・僕の、幼稚な僕の一時の感情で多くの人を不幸にして、取り返しのつかないことを僕はしてしまったんだ!」

「あーーーあぁ。うぐぐぐぐ・・あーーあぁ!」

 誠は父親からの手紙を両手で(かか)げながら慟哭した。今まで誠の中に仕舞っていた秘密が遠慮なく噴き出す。

「アタシには袋井さんと籏町さんの間に何があったのかは分かりませんし、アタシの中では籏町さんはアタシの知っている籏町さんでしかありません。袋井さんもアタシの知っている袋井さんでしかありません。・・ひとつだけアタシが袋井さんに伝えたれることと言ったら、籏町さんはとっても良い表情をしておられた、ということです。いろいろと、まあどちらかと言えば事情がありそうなモンが集まる仕事場でしたけれどね、籏町さんはとても穏やかな瞳をしていらした。このことだけは、誰が何と言いましても、アタシが知っている確かなことです」

「・・文司さんは。文司さんは僕が怖くないんですか?恐ろしいでしょう?何かあれば、どこかにスイッチが入れば僕はまた・・・人を。人を殺してしまうかもしれない。そんな、何をしでかすか判らない、危険な人間ですよ!僕は!」

「殺したくなったら、そん時は。どうそアタシを殺して下さいまし。こんな老いぼれで良ろしかったら、いつでも殺って下さいまし」

 いつもより少しだけ低い文司の低い声が耳の中で反芻する。誠の手紙を持つ手の震えが止まり、目の前に座っている文司の瞳を見つめた。

 そこには普段、誠に見せる温かいけれど、どこか掴みどころのない文司の姿はなく、もっと大らかな、はっきりと意志を持った文司の姿があり、父親である悦夫の姿とピッタリと重なって誠を正面から包み込んでいたーーー。

 


 第六章


 ピンポーン、ピンポーン。

夕方6時45分、宇都宮ひかるの居住スペースのインターホンが鳴る。

「ああ、ヨシくんの御両親ですね。よくいらっしゃいました。今、下の入り口のセンサーを解除しますので。部屋番号は404号室です。エントランスのすぐ左側にエレベーターがありますから、そのまま部屋までお越し下さい」

 ひかるが案内を終えてインターホンのスイッチが切れると、

「あれぇ、そんな声も出せるんだぁ。何か別人が話しているのかと思っちゃったぁ」

 瀬戸マリアがひかるの隣から茶々を入れる。

「お前俺を誰だと思ってんの。見た目通り、そのままジェントルマンじゃないか。俺のように美しく上品な男なんて、そうそう居るもんじゃないぜ。こんな近くで俺を見られる女なんてそう多くない。お前はラッキーなんだぜ」

 マリアはそう言われながら長身のひかるの顔を斜め上にじっと見つめ、

「まあ確かにね。美しいんでしょうけれど・・。私あなたのゲロ頭から被っちゃっているし、なんか胃もたれっていうか、胸やけしそうで。ごめん、私はあんまり興味が無いかなあ」

と、独り言のように呟いた。

『ごめん、あんまり興味が無い』というフレーズだけがクローズアップされてひかるの脳内にしばらくの間、響く。今まで女性から言われた事のない台詞。これからヨシ少年の両親に聴かせるピアノを演奏しなくてはいけないのだ。今はそのことに集中しなくては。もうすぐこちらに客人が来るのだ。たとえそれが犯罪者であろうが、金持ちであろうが、貧乏人であろうが、自分はピアノの音色で聴衆を最大限にもてなすのが役割なのだ。

 そう、父親が最期まで出来なかった半ばの志を自分のピアノで少しでもそれが果たせるならば。

 ひかるは玄関前にある大きな姿見の前で身支度を整えた。

燕尾服とまではいかないが、演奏用のタキシードに身を包む。人数が少なくてもリサイタルであることに変わりはない。

 鏡の前で粘っているひかるの姿を見つけて、

「そんなに心配しなくても大丈夫よ。あなたはどこから見ても完璧。誰よりも美しいのだから、自信をお持ちなさい」

 マリアがリビングでヨシとあっち向いてホイをしている途中で激を飛ばす。

「あっ、マリアいまよそみしただろ。マリアのまけ」

「えーっそんなあ、もう一度。もういっかいやろう」

「じゃんけんぽん、あっち向いてホイッ」

 二人の姿を見てひかるは少し頬が緩んだ。

ピンポーン。部屋のインターホンが一度鳴り、ひかるは来客を招き入れた。

「どうぞ、ようこそお越し下さいました」

 20畳ほどは優にあるリビングには黒いグランドピアノが一台と、革のソファーにガラスのテーブル。白を基調とした最低限の家具と物だけで構成されているその部屋は、本当に生活感が無く、こういった演奏をするのにピッタリとしている。

「ヨシ、何やってるんだ。家出なんかして!知らない人に連れていかれて、殺されていたかもしれないんだぞ!」

 ヨシの父親が白いソファーの上にちょこんと座って足をぶらぶらさせているヨシを見つけて駆け寄ると、ヨシの両肩を掴んでおもいきりグラグラと揺らした。

「まあまあ、お父さん。ヨシくんも悪気があった訳じゃないですから。つまり、そう・・私のピアノをご両親に聴かせたいから、と言ってわざわざここまで私を訪ねて来たのです。さぞかし怖かったと思いますよ、ヨシくんはまだ子供ですから。でも彼は、ヨシくんは私を見つけて訪ねてここまで来られたのですよ。・・私も迷いました。何といってもヨシくんがここに着いたとき、もう辺りは暗くなって確か夜の8時30分を過ぎていたと思います。本来なら真っ先に警察に届けるか、ご両親に連絡をするべきだったのでしょうけれど、ヨシくんは少し熱を出していたのです。それで彼女を、友人である彼女にここに来てヨシくんを診てもらいました。ああ安心して下さい。彼女は有能な看護師ですから、一晩様子をみてヨシくんの具合が落ち着いたようでしたので彼から話を聴いて、こうして連絡させていただきました。つまり私はご両親とヨシくんの間に何があったのかは分かりません。しかしヨシくんのひたむきなまでの依頼によって、私はここであなた方三人の為のリサイタルを開くことに決めたのです。ですから、あなた方はピアノの演奏を最後まで聴かなければいけない義務がある。いいですね?ああ、それからこの建物はどちらかと言えば私のような種類の人間が住めるように出来ていますので防音対策は万全です。どうぞご心配なく、安心して聴いて下さい」

 ひかるはヨシの両親にソファーに座ることを促すと、ピアノの前に両の拳を祈るように握り合わせ、人差し指と中指の山の部分を額に当て瞳を一瞬閉じる。

 “秋の日は釣瓶落とし”辺りの日は暮れ、暗くなっているというのに、ひかるの場所にだけスポットライトのように不意に外から定期巡回だろうか、窓の外からドローンから差す光がひかるを照らす。部屋の照明を間接照明にして左側からスタンド照明で光量を程よく調整していた分、殊更に天から光を浴びたようにひかるは輝く。

 鍵盤の上のひかるの白くて長い指がなめらかに滑りだし、それまでの静かなマンションの一室が別の場所へとその景色は姿を変えて行く。

 何処か、深い湖の底に自分たちがいるような、冷たい水の中なのに寒くはない。大きな温かさに包まれている。

 ひかるは一番目の曲にベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番「月光」第一楽章を選んだ。

 静かに揺蕩(たゆた)う小舟に乗ってゆるやかに、確実に目的地へと誘われて行く。内側に秘めた強い意志を感じさせながらも、それは強引にではなく静かに・・。小舟は進み、しだいに濃くなる霧の中へと消え入る。

小舟の末端が完全に霧の中へ消えて行くか行かないかの間に、ひかるの指先からは別の物語が紡ぎ出され、急に明るい春の日差しが窓からマリアやヨシたちに差し込む。

 バッハのプレリュードが流れ小鳥たちのさえずりが聴こえてくる。冬の寒さから解放されて身も心も軽やかに踊り出しそうに弾んだ。

 踊り出したステップのまま、ひかるは別の扉の向こうへヨシ達を連れ出し、ショパンのワルツ第一番変ホ長調・作品18番「華麗なる大円舞曲」をその指先から繰り出している。

 ヨシはそんなひかるの姿を羨望のまなざしで見つめ、ひとつひとつの音を聴き逃すまいと聴覚に身体の全神経を集中させていた。ヨシの隣でマリアはそんなヨシ少年を眺めながら、ひとつの若葉が今自分のすぐ近くで芽吹いているのだと実感し、キラキラと輝く少年の瞳を羨ましくも眩しく感じていた。

 そしてこの何もないただのマンションの一室の日常を、その指先からこぼれだす音色によって全く違う空間にしてしまう芸術家の青年に感服した。

 なるほど、ピアノを演奏している時のひかるは、やや後ろ横からしか顔が見えないというのにこの世のものではない程に美しく、何か幻でも見せらせているのではないかとマリアには思えた。女性であるマリアよりも青いほどに白いその肌と迷いの一切ない黒光りする黒髪。そして日本人であるのに彼の瞳はエメラルドグリーンに輝き、光を放っているかのようにマリアには見える。そしてその瞳を見つめながら数年前に自動で流しっぱなしにしていた情報サイトで同じような姿をした青年が特集されていたのを思い出していた。確か何とかいうピアノコンクールで入賞して、その妖艶な容姿も相まって一時期騒がれていたころだったと思う。インタビューではにこりともせず質問されたことにも媚を売るようなことは一切なく、あまりにも素っ気ない返答だったために彼を叩く人も多かったっけ。

 メディアに出ないのだけれど、物凄くキレイなピアニストがいる。と同僚が職場で騒いでいたのは彼のことだったんだ、とマリアは自分のミーハー嫌いを今になって少し後悔した。彼の事を、ひかるの存在をわずかでも知っていればこの場所での貴重な体験をもっと奥深い有意義な時間にできたのに・・・。自分よりも遥かに年下の、隣で瞳を輝かせているヨシの方がきっと自分よりもひかるの演奏についての予備知識があるに違いないのだ。

 自己嫌悪に陥ってこともあろうか演奏を聴くことに集中できていないマリアにも、ひかるのピアノの旋律が手を差し伸べる。

 いつの間にかひかるの指先からはまた別の扉が開かれていた。ショパンのポロネーズ第六番・作品53「英雄」。力強くも軽やかでなその調べにマリアの手は腕ごと救い上げられた。

「ああいけない、私としたことが」マリアはもう何一つ、余計な箱はこのひかるの演奏が終わるまでは開けまいと、自らに誓う。

 ヨシ少年の向こう側で肩を並べているヨシの両親も演奏を聴くことに集中しているようだった。マリアは少し前までのヨシ少年の両親の取り乱した様子を思い出して安心する。

 面倒そうな人たちに見えたけれど、意外と上手く収まるかもしれない。

 ひかるの指先は止まることを知らず、また別の扉を開き、ショパンのマズルカ第二十三番・作品33ー2が奏でられ、次に同じくマズルカ第二十四番・作品33ー3が、そしてマズルカ第二十五番・作品33ー4が続いて演奏された。

 知らない曲なのに、どうして惹きつけられてしまうのか、マリアにもヨシにも分からない。

ただ無条件に心の奥の方に気持ちの良いシャワーが降り注いでいて、いつからあるのかも不明な汚れをすっかり流して心を美しく浄化するのだ。

 ショパンの即興曲第四番・作品66「幻想即興曲」を聴いている時にマリアの瞳から涙が溢れた。ヨシ少年の頬はもう、とうの昔に涙で濡れて、乾いてまた濡れて。幾筋もの河が流れた跡が白くくっきりと残っている。

 ショパンのバラード第一番・作品23。

およそ九分間の曲の間、マリアは何故か変に緊張してきて、喉の奥が張り付きそうになって、ひかるの演奏の邪魔をしないようにそっと唾を飲み込む。

 もはや誰も踏み込むことが許されない光の渦の中心にひかるが居て、神々しさを感じる。この空間に旋律の魂が充満して、人間たちが暮らしている所とは別の次元にワープしたような感覚を、マリア達は全身で憶えていた。

 ふと、それまで休むことなく鍵盤の上でしなやかに踊っていたひかるの白い指は止まり、マリアやヨシの方に顔を向けずにひかるは言った。

「最後の二曲です。雨だれと革命を・・」

大きくない声で囁くように言葉を漏らした後、ショパンの前奏曲第十五番変ニ長調・作品28ー15「雨だれ」がしっとりと滴り落ち始める。ふわふわと浮いてしまった足を地につけさせ、そして更に深くそれは足をずぶずぶと沈めさせて行く。本当に最後の曲、ショパンのエチュードハ長調・作品10ー12「革命」が流れ始め、今度は一気にスピードのある馬車に乗せられる。被っていたハンチングが飛ばされないようにヨシ少年は帽子を左手で押さえて、右手でしっかりと馬車の窓枠を掴む。振り落とされないように両脚で踏ん張り、馬車の見えない行き先に身を委ねる。

 ヨシは最後の曲「革命」が終わるまでずっと唇を強く噛んで、離そうとしなかった。

駆け行く馬車を見送ることなくそのままに、ひかるは演奏を終えた。

 集中して張った糸が急激に緩み、その反動で身体が一瞬フラつく。

「ちょっと・・すみません」ひかるはそう、ヨシの両親に軽く頭を下げてからマリアを見つけてすぐさまに手招きした。

「ハッ」として余韻に浸る間もなく、マリアは慌ててひかるに駈け寄り、いつもの仕事のクセで彼を支えて肩を貸す。

 普段接している多くの老人と違い、ひかるはかなりの長身のために勝手が違い過ぎる。マリアは強引にひかるを半ば引きずるようにして彼の指示に従い寝室へと非難させた。

 ひかるが手探りで開けようとしていた酸素吸入器をマリアは奪い取り、しっかりとセットしてそれをひかるの口元に押し込んだ。

「あなたねえ、少しは自分の体力を考えながら演奏しなさいよ。そんなにヨレヨレになっちゃってどうすんのよ。もしかして、いつもこんな感じ?」

「フーッハーッそんな訳、ハーッ無いだろ。俺はプロなんだから。アレだ、アイツだ。ヨシ!アイツの風邪がうつった・・ハーッたぶん。夕べ「ボーっとしてちからが入らない」って、それで俺ずっと一緒にいて・・・」

「いいから、病人は黙る!」

 マリアは酸素吸入器をひかるの口元に強く押さえつけたまま、もう片方の左手をひかるの額に当てて熱を計る。

「あーあ、酷いなこりゃ。たぶん39度近くはあるよ」

「ははっ、寄りにもよってこんな時にな。ハーッやっぱ俺、ハーッ凄いな。ハーッ」

「バカ言ってんじゃないわよ!こんな無茶して何があるって言うのよ。自分の身体をもっと大事にしなさいよ!」

「あるよ・・ハーッ何かは。ハーッ、マリアの涙の跡。それ本物だろ」

 ニヤッとしながらマリアを見た。

「そりゃあ、そうですけど・・」

 マリアはふて腐れて呟いた。ついさっきまで神々しく輝いていた人物と目の前で自分をからかっている人物が一緒の人間なのだと思うと、慣れないフランス料理でも食べた時のような消化不良で胃の上の辺りがつかえそうになる。

「とにかく、後は私にまかせてあなたはここで寝ていなさいよ。ヨシくんと御両親に軽く説明して、ヨシくんを連れて帰っていただくようにするから」

「・・ヨシ。アイツ、ハーッ大丈夫か?」

「まったく、大丈夫じゃないのは自分の方でしょうが!私が上手くやっている間に、あなたはその窮屈そうなタキシードさっさと脱いじゃって、もっと楽そうなものに着替えて」

 立ち上がったマリアに向かって、ひかるが右手を伸ばした。

「それじゃあ、マリアがハーッ着替えさせてよ」

 自分の目の前に差し出された手に、マリアの胸は鼓動を速めた。

「そ、そのくらい、自分で出来るでしょうが。ズルする病人は好きじゃないわ。自分で出来ることは自分でする。いいわね」

 マリアはそう言ってひかるの居る寝室のドアを閉めた。

 私ったら、何を動揺しちゃってんのよ。いつも男の人の裸なんて見慣れているじゃないの。今さら何だっていうのよ。・・よく考えてみれば自分が日常的に接しているのは、いわゆる高齢者たちだったことに気が付いて、マリアの鼓動はまた、速くなった。

 大丈夫、大丈夫。とにかく今はヨシくん達の方に集中。集中。

 マリアは自分の頬を軽くたたいてから、リビングのヨシたちファミリーが待つ部屋のドアを開けた。



 





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