真澄さんの全然えっちじゃない夜のお仕事
真澄優璃華。成績優秀、品行方正で知られる彼女におかしな噂が流れ始めたのは、一週間ほど前からだった。
「ねぇ、知ってる? 真澄さん、夜の仕事をしてるらしいよ」
高校生は、まだ大人じゃない。だけど純真無垢な子供というわけでもなく、その為「夜の仕事」がどういった意味を表すのか理解している。
ましてやその噂の対象が優等生の真澄ともなれば、生徒たちの関心は一気に引き寄せられるのだった。
噂の出所は、クラスメイトの男子だった。
予備校からの帰り道、彼が偶然アルバイトに向かう真澄の姿を目撃したのだ。
噂のきっかけなんて、ただそれだけ。
だからこの噂に、確たる証拠はない。本人に「どんなアルバイトしているの?」と尋ねれば、すぐにでも真偽がわかる事案である。
しかし、孤高の才女として名高い真澄に、直接聞ける人間なんていない。だからみんなこうして、遠くからヒソヒソ噂話を楽しむことしか出来ないのだ。
俺・望月大和は、我関せずを貫いている真澄を遠くの席から眺める。
この学校で唯一、俺だけが真実を知っていた。
真澄は確かに、夜に仕事をしている。しかし世間一般でいう夜の仕事ではない。
夜「に」仕事しているという噂が広まるにあたって、いつの間にか夜「の」仕事をしているに変化したのだ。
生徒たちも、悪気があったわけじゃない。伝言ゲームを続けていれば、知らない内にその内容が変わってしまうことだってあるだろう。
意図せず事実とは異なる噂を流してしまうだなんて、本当噂とは怖いものである。
放課後。「さようなら」をするやいなや、俺は席を立つ。
日中は学校に時間を取られてしまっているんだ。プライベートの時間を、1秒だって無駄にしたくない。
下校しようとすると、ふと前を通りかかった真澄が話しかけてきた。
「それじゃあ、今夜。また行きますから」
周りに悟られないよう、ほんのひと言、小さな声で俺にそう伝える。
真澄の夜のお仕事。その正体は――俺と彼女の、秘密の関係にあったのだった。
◇
夜9時。
ピーンポーンとチャイムが鳴ったので玄関を開けると、そこには買い物袋を提げた真澄が立っていた。
「どうも」
「あぁ、いらっしゃい」
家の中に通された真澄は、手荷物をキッチンに運ぶなり、早速俺の自室に足を進めた。
俺の自室の、それもベッドを凝視しながら、真澄は呟く。
「まったく、あなたという人は。またこんなに散らかして」
ベッドの上には、論文やノートが無造作に置かれていた。
それも一冊二冊ではない。寝るスペースがないくらいの冊数だ。
「夕方までは、綺麗だったんだぞ?」
「知ってますよ。昨日ベッドの上の本を片したの、私なんですから」
昨夜片付けて貰ったばかりなのに、僅か一日足らずでこの有様。我ながら、酷いものである。
「この時間でこの様子ということは……望月くん、今日も徹夜するつもりですね?」
「……」
図星を突かれて、俺は真澄から視線を逸らす。
俺の反応を見て、彼女は大きく溜息を吐いた。
「本当、仕方のない人ですね」
「……いや、お前に言われる筋合いはないだろ?」
「大ありですよ。それが私の仕事なんですから」
そう。学校で噂になっている真澄の仕事とは――俺の身の回りの世話をすることだったのだ。
父が物理学者、母が物理講師という物理オタク一家に生まれた俺は、幼少期から物理が大好きだった。
小学生の頃、クラスメイトが漫画や文庫を読んでいる中、俺は一人論文を読み漁っていた。
中学生の頃、クラスメイトが部活で青春の汗を流している中、俺は一人物理室にこもって研究に没頭していた。
俺はごく一般的な学生生活を送ることなく、日々研究に邁進する、
蛙の子は蛙というやつだ。その辺は、両親も諦めている。
しかし寝食の時間を割いてまで研究に打ち込む姿に、「流石にこのままではマズい」と危機感を抱いてきたようで。
監視役兼世話係として、両親は真澄を擁立したのだ。
ベッドに散乱した論文を片付けながら、真澄は呟く。
「望月くんって、相変わらず難しい本を読みますよね。何が書いてあるのか、さっぱりわかりませんよ」
「真澄だって、物理の点数悪くないだろ? 少し勉強すれば、内容が理解出来るようになるさ」
「それはどうも。まぁ、どこかの誰かさんが毎回100点取るせいで、未だに物理だけは学年一位になったことないんですけどね」
そのどこかの誰かさんとは、言うまでもなく俺である。
高校の試験程度なら、ノー勉でも満点取れるって。
ひと通りベッドの上を片し終えると、真澄は俺の部屋を出ようとする。
「それでは私は、夕食の支度をしてきます」
「了解。……因みに今夜の献立は?」
「カレーです。蜂蜜入りの、甘いやつ」
蜂蜜入りのカレーライス。それは俺の大好物だった。
◇
真澄が我が家で俺の世話をし始めたのは、およそ一週間前だ。
この一週間、彼女は炊事に洗濯、掃除に至るまで。家事と名のつくものは全て完璧にこなしてくれている。
お陰で俺も研究に熱中しながら、規則正しい生活を送れているわけで。
しかし、どうして真澄が我が家で家政婦同然の仕事をするようになったのか? その経緯を、俺はまだ把握していなかった。
「なあ、真澄。お前はどうして、ウチで仕事をすることになったんだ?」
二人でカレーを食べながら、俺は彼女に尋ねる。
「求人サイトに載っていたものですから」
「んなわけあるか。我が家の家政婦は紹介せいだ。……で、本当のところは?」
「別に、大したきっかけじゃありませんよ。望月先生に勧められたんです」
真澄の言う「望月先生」とは、俺のことを指しているわけじゃない。予備校の講師をしている母さんのことだ。
「実は私の家って、母子家庭なんです。まだ小さい妹もいるので、アルバイトでもして少しでも家計を助けられたらなーって。そう思いまして」
「母さんとはどこで?」
「私、望月先生の生徒なんです。先生に相談したら、「じゃあ、ウチの愚息の世話をしてくれない?」ってここを紹介してくれました」
いや、誰が愚息だよ。
「だからって……同級生の男子が住む家に、通うかよ? それも夜遅い時間に」
「大丈夫。危なくなったら、切って良いって言われてますから」
切るって、何を!? 物騒なこと言うな!
「冗談はさておき。小うるさいかもしれませんが、私も仕事ですので。今後もどうぞよろしくお願いします」
「確かに、小うるさいかもな。なんだか母さんが二人になった気分だ。でも……ぶっちゃけ、かなり助かってる」
「……本当ですか?」
「あぁ、本当だよ」
真澄が来る前は、普通に一週間くらい晩飯を抜いていた。
そんな日常を繰り返していては、いつか体を壊してしまう。
わかっていても、時間が勿体なくてつい日常生活を疎かにしてしまう。そんな悪癖を治す機会を、真澄はくれたのだ。
「真澄は絶対に、良いお嫁さんになるな」
「へっ!?」
ボンッと、途端に真澄の顔が真っ赤になる。
「どうかしたのか?」
「……カレーが、辛かっただけです」
いや。このカレー、蜂蜜が入っているからかなり甘い筈なんだけどな。
夕食を終えると、腹が満たされたこともあり、唐突に睡魔が襲ってきた。
真澄に片付けて貰ったので、ベッドも空いている。少しだけと自分に言い聞かせて、俺はうたた寝をすることにした。
ベッドに横になり、目を閉じる。
数分後、真澄が部屋の中に入ってきた。
「望月くん、お風呂はどうします……ってあれ? 寝ちゃってますか」
真澄は俺の顔のそばでしゃがむ。そして俺の寝顔を、ジーッと凝視した。
「……毎日お世話をしてあげているんですよ? ちょっとくらい、ご褒美くれたって良いじゃないですか」
何を考えたのか、真澄は俺の額に唇を近付けると、軽く口づけをした。
「!?」
予想外すぎる真澄の行動に、俺は思わず目を覚ます。
「望月くん!? 起きていたんですか!?」
「真澄、お前……」
「何でもありません! 何でもありませんから!」
叫びながら、真澄は我が家を飛び出して行く。
翌日。真澄は俺の世話に来なかった。
◇
「真澄さんが、夜の仕事を辞めたらしい」
真澄が俺の家に来なくなって数日、校内ではそんな噂が流れ始めていた。
真澄が来なくなった理由なら、わかっている。あのキスが原因だ。
こっそりキスをするつもりが、俺に気付かれてしまったから、気まずくなったのだ。
正直なところ、キスをしたこと自体は、俺はなんとも思っていない。問題は、真澄がどういう意図で俺にキスをしたのかだ。
真澄は俺とのキスを「ご褒美」だと言っていた。それってつまり……彼女は俺に好意を寄せているということだろうか?
その日俺は、「さようなら」の直後に下校しなかった。
帰ったと見せかけて、下駄箱の前で真澄を待ち伏せする。
周囲からは奇異的な視線を向けられたけど、その程度の恥ずかしさで真澄の本音が聞けるのならば、安いものだ。
待つこと20分、果たして真澄は下駄箱に現れた。
「望月くん……帰ったはずじゃ……」
「そう見せかけないと、お前は油断しないだろ?」
「要件は……聞くまでもないですよね。ここでは衆目の目がありますし、場所を変えましょうか」
俺は真澄に連れられて、校舎裏にやって来る。
この場所は人の目にもつきにくく、告白スポットとして有名だ。密談には、もってこいなのかもしれない。だけど――
真澄が俺に好意を抱いているかもしれない現状では、他意を含んでいるんじゃないかと淡い期待を持ってしまう。俺このまま、告白されちゃうのかな?
勿論、告白なんてされるわけがない。
真澄は俺に深々と頭を下げた。
「お仕事をサボっちゃって、ごめんなさい」
「いや。元々無理にお願いしていたようなものだし、別に構わないっていうか。謝罪が聞きたいんじゃないんだよな」
俺が聞きたいのは、真澄の気持ちだ。
「あのキスは、どういうことだったんだよ?」
「……」
真澄とてバカじゃない。
謝罪の後に問いただされることくらい、わかっていただろう。
それでも彼女は俺との密会を受け入れた。つまりあのキスの真相を、明らかにする覚悟があるということだ。
「前に望月くん、私が遅い時間に男子の家に上がり込むことを心配してくれましたよね? でも、それは杞憂なんですよ。だって――真澄くんになら、何をされても良いって思ってましたから」
「それって……」
真澄の頬が、紅潮している。
彼女が口にしているのは、明確な好意だった。
「なのに一週間経っても、望月くんは何もしてきません。いっつもいっつも小難しい本と睨めっこするばかりで、私のことなんてこれっぽっちも見てくれない。そりゃあ、不満が溜まってキスの一つくらいしたくなりますよ」
「ちょっと待て! 何かして欲しかったのか?」
「……抱きしめるくらいなら、初日でしてくれないかなと期待していました」
おいおい、マジかよ……。
清楚で知られる真澄が、とんだカミングアウトをしていた。
「だけど望月くんは、私に一切手を出さない。私って、そんなに魅力がないのかな? 不安になりました。だからつい、キスしちゃって。好意がバレたから、逃げ出しちゃって」
後悔と恥ずかしさ。その両方が心を掻き乱し、そして今に至るということらしい。
「気持ちの整理が着くまで、お休みしようと思っていたんです。でも、なかなか整理なんてつきませんでした。それくらい、望月くんのことが好きになっていたんです」
「ごめんなさい」。真澄はもう一度謝る。
「今夜から、お仕事に戻りますね。もう、キスなんてしませんから。好きだなんて言いませんから。ただの世話係に戻りますから」
「その必要は、ない」
俺は真澄を抱き締める。
「えっ、望月くん!? どうしていきなり!?」
「ずっとこうして欲しかったんだろ? ……俺だってこうしたかった。でも仕事で俺の世話をしてくれている真澄に好意なんて向けたら、嫌われてしまうかもしれない。そしたら、今のこの生活も終わってしまうかもしれない。そう思うと、怖くて仕方なかったんだ」
だから俺は、真澄が来てからというもの一層研究に打ち込んだ。真澄への気持ちに、目を背けるために。
要するに、俺は自分の気持ちから逃げたのだ。
だけど真澄は違う。自分の恋心に、真摯に向き合っていた。その姿に、俺は惚れ直してしまって。
翌日、真澄に関する新たな噂が校内に流れ始めた。
「真澄さんに、恋人が出来たらしい」
その噂を流したのは、他ならぬ俺だったりする。