08 はだしの乙女
赤い小函と青い小箱から石が出てくるのが止まって、二人が先に日本へ帰ったんだとわかった。
ジュノが迎えに行ったんだろうか……だとしたらきっと、私に気をつかったんだろうな。
私も帰るね、となって地下霊廟を出た先、白の湖のへりをお城へ向かって歩いていると、一本道の向こうから、何かを抱えた白っぽい人影がやってくる。
並んで歩いていたクラージュが突然、私を引き寄せて自分の服の中にかき寄せた。
長衣で包み込まれて、じゃらじゃらのネックレスやメダルやブローチ、ボタンがほっぺたや胸に当たってゴリゴリする。
道の脇へ引きずるように避けさせられて、重たい長衣にも挟まれて、とっさにもがいたけど、クラージュは離さなかった。
「………………」
二人とも黙っていたけど、この沈黙はどちらのものだったろう。
クラージュは長衣の上から、自分のゴリゴリのアクセサリーの上へ私をぎゅうぎゅう押さえつけ、抵抗を許さない確固たる意志を持っているように思える。
さすがの私も学習能力があるから、抵抗はやめた。
きっと何かが来るんだ。道の向こうから。私を隠さなくてはいけない何かが。
ラグルリンガより、あの重たい空気のかたまりより、もっとなにか、よくないものが。
ただ、クラージュの長衣の中で考えはした。
向こうからくる何かが何だったか。
あれは、だれかを抱きかかえただれかだったように思える。
多分男の人だった。それが、女の人を抱えていた……ような気がする。……いや、たしかにそうだった。
だれかがくる……誰かを捕まえて抱えて離さないだれかが……
しばらくして気配が近づいてくると、クラージュはやってきただれかに向かって、穏やかな声音で言った。
「――こんばんは。いい夜ですね。散歩ですか?」
男の人のほうとも、女の人のほうとも、相手を限定しない呼びかけだ。
「さ、さんぽ……」
女の人のか細い声がする。それを上からかぶせるみたいに、穏やかそうな男の人の声が答える。
「よい風が吹いておりますからね。月光花を探しに行こうと思っております」
「見つかりますように」
クラージュが短くいうと、返事は帰らず、細い道に立つ私たちのすぐそばを、そのひと塊の男女は通り抜けていった。
私を全部から隠そうとクラージュは努力してくれてたみたいだけど、道は長くて一本道でしかも細くて、引き返すこともこれ以上避けることもできなかったんだろう。
たぶんとっさのことだったから覆いも完璧ではなくて、私を包んでいたクラージュの衣のすきまから、外が……すれちがいざまに、歩いてる誰かの服と、抱えられてぶらさがっている足が見えた。
服は白。足は女の人の足だ。
日焼けしてない真っ白な足をひきたてる、月明りにも映える白系のペディキュア。
はだしだった。
気づいたら背筋がぞっと寒くなった。
靴を履かせてもらってないんだ。抱き上げていてもらわないと、どこへも行けないように。
やがて気配が去って、ようやく解放されて見回すと、もうあたりには誰もおらず、木々の間と白く光る湖面をわたる、風がさやさや鳴るばかりだった。
クラージュは私が聞く前に教えてくれた。
「――フラウリンド。九十九番目の真珠鉱脈と、その従者です。彼女らのことは忘れなさい。あなたには手に負えない」
一も二もなく私はぶんぶんうなずいた。ラグルリンガににらまれただけで完全敗北モードだったのに、間違いなくむりだ。
私は全力で忘れることを決めた。
また、帰り道を歩きだす。
ちょっとうつむきながら歩くと、クラージュのはめたたくさんの指輪どうしがときどき触れ合ったときに、ちりちり火花を散らすのが、月明かりの夜に浮き上がって見える。
この火花を見るのは、二度目だ。
きれいだけど、はらはらする。はらはらするけど、目が離せない。
翌日。
グラナアーデにかかわってばっかりいるわけにはいかない。昼のうちは学校に通う。
私たち三人は通う高校こそいっしょだけど、朝活のある特進クラスの幹也と、朝練のある葉介とはそれぞれみんな出校時間が全然違う。
私はゆっくり起きて、一人で学校に行く。
……そうだな、もう高校生なんだし恥ずかしいから学校は一人で行こうね、ってなってたんだな、そういえば。
二人はきょうだい離れしてたんだな。ずっと前から……。私の気づいてないあいだに……。
最近メンタルをやられることが多くって、食欲がない。夜にクラージュが出してくれるお茶菓子とは関係なく。
朝ご飯をカップスープですませる朝が二日続き、つまりあまっちゃった朝ご飯の目玉焼きをお弁当のご飯スペースの上にのっけてもらう昼が二日続く。
食べきれないので、いつも一緒にお昼を食べてる友達のまるちゃんがもらってくれる。
なお、まるちゃんというのはあだ名で、本人もどうしてそう呼ばれているかはよく知らないらしい。
入学当初のテストで丸がいっぱいついてたのをたまたま目撃されたからという説も、体育祭でカメラをかまえたお父さんが3人くらいに分裂してまるちゃんを撮ってたからだとかいう説もある。それはたまちゃんでは? という説ももちろんある。
赤い羽根募金の箱が席に回されたとき、みんなおこづかいの中から10円とか50円とかを寄付してる中、まるちゃんだけ500円玉を募金しててえらかったからという説も。
それはたまちゃんでは? という説も。
二年生になってから同じクラスになった子だけど、なんとなくよく気が合って、落ち着く。多分クラス替えしても仲良しのままでいられると思う。
まるちゃんのいいところはたくさんあるけど、いちばんは優しくってマイペースなところだろう。
こうやって私が落ちこんでると、しゃべらなくてもいいように、音楽プレーヤーとイヤホンの片っぽを分けてくれて、それに聞き入らせてくれる。
音楽の趣味は合わないんだけど……。クラシックなんだけど……。
「これなあに?」
「展覧会の絵のプロムナードじゃないとこ」
プロムナードのとこしか覚えてないんだけど……。
しばらくプロムナードじゃないところを聞いて、それの解説もまるちゃんがずっと話して聞かせてくれてたのに、お弁当箱が空になるのはまるちゃんの方が先だった。
私の目玉焼きも食べてくれたまるちゃんは首をかしげる。
「かなちゅん、ちょっと痩せた? ダイエット?」
かなちゅんの由来はなんだったかな……SNSでの誤変換がかわいかったから定着したんだったかな……。さておき、私は強くかぶりを振った。
「ぜんっぜんそんなことない」
こんなに食欲が失せてるのにどうして痩せていかないのか……。
昨晩お風呂に入る前にはかった体重は46.2キロ。アベレージは45.2ちょっと前後なのでむしろ重めだ。
クラージュのお茶菓子、これからはちょっと控えよう。もともと食欲ないし……。
私は今晩の予定に思いをはせる。
今夜もクラージュに呼ばれるはずだ。今夜もあそこへ行こう。地下納骨堂だか地下霊廟だか、物置だか……。
とにかくあそこにいれば、二人が今どんなだかわかるから……いつか私も安心できるかもしれない。
本末転倒もいいところだけど、今は日本にいるよりグラナアーデにいるほうが安心する。こっちでは二人が何を考えてるかわからないから。
夜になったら……夜になったら、そうしたら少しは落ち着ける……はず。
でも、呼ばれなかった。
その晩は私だけでなくきょうだい三人ともが呼ばれず、なんとなく肩透かしのまま、でも三人で過ごす気持ちにもなれず、私はお母さんとドラマを見たり、二人はたぶん動画を見たり漫画を読んだりゲームしたりしてたと思う。
その翌晩も、さらにその翌晩も呼ばれなかった。またその翌晩も、さらにその翌晩も。
一応約束の時間はお母さんの目を避けながら、もしかしてもう二度と呼ばれないのかと思ったころ、召喚の兆候がある。
つまり、体がふわっと軽くなり、ジュノに入っているのと同じ入れ墨が体中に素早く巻き付いて、あっという間に埋め尽くし、ほどけるといつの間にかグラナアーデに来ている、そういう感じ。
もう集中力というか、警戒心がうすれてちょっとうとうとしていたころあい。
いつも呼ばれてた時間から、2時間くらいも遅い時間だった。
どうもおかしかった。
変なのは時間だけじゃない。呼ばれた先もなぜかお城の中庭で、いつもの、私たちで使ってね、と与えられたお城の中のお部屋ではない。
しかも呼ばれたのは私ひとりだけ。これは……あんまり目くじら立てるつもりはないけど、一応約束違反ではある。
幹也だけ、葉介だけが呼ばれて気をもみたくないからした約束だから、別に、私だけ呼ばれるのは良いんだけど……少なくとも一応、守りますって言ってくれた約束を、クラージュたちは破ったことにはなる。
待っていたのも、いつもの面々じゃない。いつも通り、無表情をさらに、生きた黒い魔方陣のタトゥーで覆い隠していくジュノと、穏やかながら、微笑んではいない表情のクラージュ。シダンワンダとナルドリンガは、いない。
いるのは、この間湖の小道ですれ違った、あのふたり……。
白い服の背の高い男の人と、抱えられただれか。真珠鉱脈とその従者、と説明されている、あの……。
二人は少し離れて、ひと塊になって立っている。
抱えられているのは女の人だ。
黒くて細いやわらかそうな髪を、生まれたてのひな鳥の羽がもつれたみたいな、はかない印象のベリーショートにしている。
顔立ちは親しみある感じだった。
つまり、顔の輪郭は小さく丸く、凹凸は少なく、目は大きく、唇はうすい。
月明りと最低限の外灯に照らされた肌は青白くて、色まではわからないけど、要するに、アジア人っぽかった。
ていうかぶっちゃけ日本人っぽい。
眉をめちゃくちゃしかめてこっちを見ている。
睨んでいるというよりこれは、目が悪いんだろう。……どうして眼鏡を使ってないのかはめちゃくちゃ気になるけど。
……やっぱり靴も履いていない。
ぞっとしてしまって、私ははやくも帰りたくって帰りたくて、そのことで頭がいっぱいになる。
抱えている男の人は、人間離れした美貌の持ち主だ。……シダンワンダや、ナルドリンガと同じように。
顔自体は特徴がないのが特徴という感じ。ナルドリンガはかわいい系、シダンワンダは色っぽい系、ついでにクラージュがキレイ系とすれば、彼は……彼には何もない。
多層に巻いた真珠がどんなに強く輝いても、必ずどこかぼんやりやわらかく輪郭をつかませないように、乱反射した光の根源がつかみ取れないように、彼の印象は茫としていた。
顔のパーツの話だけをするなら、鼻は高く、彫り深く、目はぱっちりしてかつすっと切れあがっている。顎は凛として頬うるわしく……こうやってたどっていると、いつの間にか鼻筋がどうなっていたか思い出せなくなっている。そういう顔だった。
近寄ってきたクラージュは、斜め前から向かって立ち、私をエスコートするみたいなそぶりを見せつつ、その実私に寄り添って、人の視線から隠すみたいにした。
あやしい。何か理由がありそうだ。
しかし私は遠慮なく、クラージュで体を半分だけ隠す。こわかったので。
「軽銀鉱脈。約束を二重に破ったことをどうか許してください。こちらは九十九番目の真珠鉱脈とその従者」
……かたくるしい。一瞬なんて話しかけられたのか分からなかった。
エギナリンド。そういえば私はここではそういう名前だった。
……いつも通り呼ばないのは、二人には名乗るなって意味だろうか。そうだろうな。
で、何日も呼ばなかったのは最初っから、会わせたくなかったからだろうな。そのまま呼ばれなくてもよかったんだけど……。
クラージュの目がさりげなく、うったえるような感じだった気がしたから、私も目でわかったよ、の合図をした……つもりだけど、伝わったかは分からない。幹也や葉介とだったら精度100%でキマるんだけど……。
引っ込み思案を気取ろうと思って、クラージュの影にもう少し体を隠す割合を増やす。
二人がいなくてよかった。きょうだいの前では恥ずかしくてこんなことできない。
しゃべっちゃいけない、名乗っちゃいけないと念じているのもしんどいから早く帰りたいのだけど、呼ばれた理由はあるんだろう。
私のことを必死に見つめる、真珠鉱脈の薄い小さな唇がひらく。
「わ、わわわわわたしは……とととと」
「……!」
私は息をのんだ。ひどい吃音だ。
普段から吃音があるのか、あんまり緊張しているからかはわからないけど、真珠鉱脈の彼女はとにかくなんとか名乗ろうとした。
「……この方の名は……」
従者の方のフラウリンドが代わりに話そうとしたけど、鉱脈の方のフラウリンドは一生懸命首を振る。
――自分で名乗ろうとしているんだ。靴も持ってない彼女が、歩く自由さえ持ってない、うまく話すことさえできない彼女が。
あんまり一生懸命なので、聞いてあげなくてはという気持ちが帰宅欲にとってかわり、私は半分、隠していた身を乗り出した。
制したのは二人。軽銀鉱脈の従者代理のクラージュと、真珠鉱脈の従者。
でも、私たちは見つめ合った。
「わわわわわーーーたしは、ととととととうこ……ととととととう……あっ……あっあっ……。
………たたたたたタワーってかかかかかいて、ととと塔子……」
塔子さんはいっしょうけんめい名乗ってくれた。私もいっしょうけんめい、聞いた。
塔子さんは19歳。
元々日本のF県で暮らしていた。F県っていうのはたまたまだけど、私たちの暮らしている、K県の北隣りの県。
そこから呼び出されて、行ったり来たりしていたけど、とうとう帰らなくなってから2年経つ。
中学を卒業してすぐ会社で働いていたけど、その会社がどうなっているか、家族がどうなっているかを知りたい。
かわりに見てきてもらえないだろうか。
……ここまでを聞き出すのにすごく時間がかかったけど、かいつまんで言うとつまりそういうことだった。
フラウリンドもクラージュも、止めた。
特にフラウリンドは冷たい視線で私を見下ろす。
さすがにラグルリンガみたいに、殺意を込めてにらんでくることはなかったけど。
……きっと私に嫌われるように……いや、素かもしれない。感じ悪いなこいつ。
「塔子。軽銀鉱脈は困っておいでですよ。塔子をお助け申し上げるのが、気乗りなさらないご様子」
フラウリンドは親切ごかした口調で言う。しかもしれっと私のせいにしてくる。
やめておけって雰囲気になってみて気づいたけど、私は行っても良いと思ってるんだからな。
フラウリンドは私の内心を知らぬげに、猫なで声で、腕の中の塔子さんへささやく。
「当然でございましょうね。頑張り屋さんの塔子でも、手に負えなかった怪物の巣でございます。軽銀鉱脈には荷が重うございましょう」
怪物の巣。あんまり日本国内では使われない言葉だ……というのはともかく、F県。
K県のある地方では一番の都会で、私もライブを見に、高速バスで出て行ったりすることは多い。慣れている。
断る理由はないな。どんどん行きたくなってきた。
私のあまのじゃくを知っているクラージュは、もっと別の止め方をした。だから逆に、マジで行かせたくないんだな、ってことが伝わってくる。
「……真珠鉱脈の暮らしていたあたりや仕事場は、治安の悪いところのようです。若い女性ひとりで行くことは認められません」
確かにF県は公園に薬莢が落ちてたとかそういう噂のある県ではある。今まで行ったかぎりではそういうの見たことないんだけど……ひとりじゃだめか。
ちらっと幹也や葉介の顔が頭に浮かんで……消えた。今は二人には頼れない。
「クラージュは来れないの?」
「残念ながら。ジュノの用いる通路は、鉱脈本人、その人しか通れません」
「塔子さんと私が一緒に行……く……ってことは……」
一人でトイレに行けないタイプの子は高校生になってもまだわりといる。わりと私はこだわらないので、行きたくなくてもついていく。
何の気なしに言いかけたけど、クラージュが更にまた体を前に乗り出させた。遠慮なくかばってもらう。多分フラウリンドが私をますますにらんでいるんだろう。感じ悪いな。
誰も頼れない。ってことは、行くなら一人で行くしかない。
フラウリンドがものすごく感じが悪いので、こいつの思い通りにさせてたまるか、絶対行く! っていう選択肢と、フラウリンド、こっちがお願いしてるんだからにらんじゃダメだよ、ステイ!って言ってくれない塔子さんに腹が立って、そういう礼儀をちゃんとしてくれないなら、絶対行かない! っていう選択肢とが頭の中で二つ、ピコピコした。
でも、明らかに塔子さんは……。
私たちみたいなゆるふわ拉致誘拐じゃなくて、マジの、ガチ監禁をされている。それも長い間……。
フラウリンドやクラージュに逆らって何かをお願いすること自体が、塔子さんにはせいいっぱいだったんだろう。
悩んでいる私へ、クラージュが心配げに、肩越しに言う。
「怪物の巣というのは本当です。真珠鉱脈は母親から虐待を受けていました。
ぼくは日本の法律を詳しくは知りませんが、少なくともグラナアーデでは、倫理的にも法的にも明らかに許されないレベルのものです」
人を誘拐しておいて、倫理……法……?
「働き先も明らかに違法なものでした。やくざ者の詐欺師がいるとわかっているところへ、成人もまだの女性を一人で送り出す真似はいかなる理由があっても許されません」
『いかなる理由』のなかでもけっこう重たくなりそうな、『自分自身は拉致されて動けない』の責任者はクラージュたちなんだけど。
そのことにはクラージュ、気づいているだろうな。で、あえて無視してるんだろうな。
「――一人の女性が人生を賭してあらがい、あらがいきれなかったもののただなかへ足を突っ込むだけの能力は、花奈さんにもありません。
……花奈さん、もはや引き返すこともない、尊ぶべき思い出もない、他人の故郷の何を探る必要があるでしょう?」
顔の方向だけは私のほうへ、横顔として向けていたけれど、クラージュのこれは全体的に、塔子さんに向けて言ったセリフだろう。
確かにそれは、私も気になった。
塔子さんも、今は帰ってないかもしれないけど、最初はたびたび帰っていたわけだ。
そのうち、もう帰りたくない、という気持ちになって、ここに残るようになったとして、それまでに片づけられなかった塔子さんの心残りが、私がちょっと様子を見に行っただけで片づくとはとても思えない。
どうしてもって言うなら、塔子さんが自分で一度里帰りしたら良い。
今まではできなかったかもしれないけど、今は私がいる。
あの湖のほとりの小道で私を見かけて……私は隠されてたけど、クラージュの外衣の中に私がいることは、目の悪い塔子さんでもあのとき気づいたんだろう。
私に頼ることを思いついたなら、このまま自分でももう一度頑張るっていう選択肢も当然思いついてしかるべき……
いや。今のは冷たかった。
私は自分で自分をたしなめた。
二年も監禁されている間に心情の変化があったのかもしれないし。もともと虐待されてた人が、その原因の場所に近づきたくないのはそれは当然のことだし。そのうえで、元いた場所がどうなってるのか、気になるっていうのも当然のことだし。
塔子さんは私がはいてるジャージを見ている。じっと、睨むみたいに。
だから分かった。塔子さんの必死な気持ちが。
ジャージの色はケミカルなダサいえんじ色。世界中、異世界ででも、日本の学校指定のジャージででもなければ使いっこない色だ。
塔子さんはあの湖のほとりで、目が悪くても、クラージュが隠している誰かが履いているえんじ色のズボンが日本で着られてるジャージだってわかったんだ。2年ぶりに出会った、故郷とつながる小さなよすが。
だから、私に会いたい会いたいってねばった。一週間も。
……ただ、実の娘を虐待するような親にもし万一見つかったとしたときに、他人の娘に対して、いったいどういう暴力的行為に出るかはわからないしぶっちゃけ怖い。
しばらく考えて、私は抱えられた鉱の姫へ話しかける。塔子さんは年上だったので、ゆるめの敬語を使うことにした。
「……とりあえず、住所教えてもらっていいですか? 今日家に帰ったら、グーグルマップでそのへんがどうなってるか確認するんで」
フラウリンドのにらみがいっそうきつく冷たくなる。
ここで塔子さんに『すいません、そこの人に睨むのやめてってお願いしてもらっていいですか?』って私が頼んだらこの従者どうするつもりなんだろう。
それをしないのは、塔子さんが、初対面でもわかるくらい、見るからに、十分すぎるくらい傷つきまくった人だからで、塔子さんをこれ以上傷つけたくないからなんだけど。フラウリンドって他人の好意に甘えて悪意ぶつけてくるタイプなんだな。
私の手を引いて、もう一度さりげなく自分のかげに隠しなおしただけで、口に出しては咎めなかったクラージュも同じ考えだろう。じゃなければ、私が怖気づいてやっぱり行くのやめますって気分になるのを期待しているのか。
フラウリンドに抱えられたまま、塔子さんはあたふたした。
口で住所を伝えられないから、紙とペンがほしいのに、見つからないのだ。こういうタイプの人なんだから、常備してればいいのに……。いや、ふだんは必要にならないんだろう。フラウリンドとだけ過ごしてるから。
私はポケットからスマホを出して、そろそろと塔子さんに近づき、しかしフラウリンドに近づきすぎないように、すごい中途半端な距離からスマホを渡し、住所をメモしてもらった。
今日のところは、それまで。私たちはそろそろと離れ、別れた。
塔子さんはじぃっと私をすがるような目で見つめ続けていて、なにかを訴えたそうにしてたけど、塔子さんはうまく話せない。
フラウリンドに抱えられたまま、どこかへ連れていかれてしまう。