06 なにかの気配がからみつく
今日も幹也は来ない日だ。だから呼ばれたのは葉介と私だけ。
夕方、あんな別れ方をしても、やっぱり私はジャージに着替えて呼ばれるのを待っていて、やっぱりジュノたちは私たちを呼び出した。
葉介は今日も、待ってた面々に、や、と、よ、の一音ずつのあいさつをすませて、いつものように部屋を飛び出していく。
追うナルドリンガ。泣いて去るシダンワンダ。そして取り残される私とクラージュとジュノ。
二人とも、わりとついさっきめそめそ泣いてるところを見せたきりなので、気まずかった……が、ここでひるむと余計気まずいので、部屋を出て行きかけるジュノにすかさず会釈して心理的障壁をやっつける。
いいぞ、次は本命……
「こんばんは、花奈さん」
「こんばんは……」
向かい合ったクラージュが、あまりにもふだん通りの表情で、ふだん通りの礼をとるので、私はひるんだ。ひるまざるを得ない。幹也にも葉介にもないしょで、の条件は、あれを見たら全部忘れたようにふるまう、って意味だったんだろうか。
クラージュは身振りで私にソファをすすめた。と、分かったのは、私がソファに腰かけてからのことだった。
座るつもりがなかったのに、いつのまにかふっかふかの座面に背中とおしりが埋もれている。魔法のなにかであやつられたのかと思ったくらい自然なエスコートだった。
しかたなく私は、ひるんだまま話し出した。
「……さっきは助けてくれてありがとう」
「さっきとは?」
「さっきの、ラグルリンガから」
「ああ、あんなもの。あれは、ぼくの責務ですよ。ぼくが軽銀鉱脈の従者の代わりを務めますと言いませんでしたか?」
夕方とはうってかわって、突き放した言い方だった。
だから、話すのがよけいしんどいけど……力を振り絞って、かぶりを振る。
「私の従者はほんとの仕事じゃないでしょう? 感情を……ゲットするのがクラージュの仕事なのに」
さすがに面と向かって搾取って言葉は使いづらい。
「ほんとはもっと私をラグルリンガに睨ませていたほうが感情は波打ったんじゃない?
すごい怖かったけど、ソワレの目の前だったから。ソワレは狼が人を食べたら討伐対象だって言ってて、だから命の危険はなかったはずだし……でも、助けてくれたから……だから、ありがとう」
そう言ったら、クラージュは……クラージュは、『ふだん通り』の仮面をぽろっと落として、びっくりした顔をした。
そのことで逆に私もびっくりしたくらい。
せっかく勇気を振り絞って、誘拐犯の詐欺師のマッチポンプに対してでもお礼を言うという行為を、プライド傷つくわぁって思いながらも果たしたっていうのに。
でも、あぜんとした表情のまま私の目を見つめるクラージュを見つめ返していると、びっくりと一緒に感じてた怒りはなんとなく過ぎ去って、かわりになんとなく、一つ考えが浮かんだ。
あれっ、ほんとはクラージュ、やさしいところもあるのかもしれない、って。
それも、クラージュが自分でも気づいてないような隠れた部分に。
恨みがつのるとそういうところが見えなくなるから、考慮してあげるかはそのときの気分によるとしても、やさしいところもあるんじゃないか、って。
このことは覚えておこうかな、と思った。
なにしろこれから私がやろうしてることは、幹也のため、きょうだいのためとはいえ、危険な個人行動だ。
こういう非常事態で、きょうだいにやってほしくない、仮に葉介あたりがやったら間違いなくキレちらかすだろうことを自分が率先してやるってことは、間違いなくきょうだいに対する裏切りなわけだから……孤独に戦うよりは、一人、味方になってくれそうだ、っていう人を心に用意しておくべきだ。
それがたとえ、その問題の元凶だったとしても。宝石だとか、そういううわべだけのきらきらしたものに、目がくらんでる人たちの代表だとしても。
とりあえず、いまのところ。
クラージュが表情をとりつくろおうとした瞬間、させちゃだめだってなんとなく感じた。だからちょっと早口で言う。
「会わせてくれた理由、冷静になって考えてみた。
……口で説明したんじゃ、私が納得しないからだね。
クラージュたちにも、鉱の姫の従者っていうのは言い聞かせるだとかの方法では対処できない問題なんだね」
「……ええ」
結局、見つめあうのに耐えきれなくなったのか、クラージュは指先でこめかみを軽く気にするみたいな、頭痛をこらえるみたいなしぐさで、私の視線をさえぎった。
ほんの数秒あと、手が顔から下りたら、もういつものクラージュの微笑だ。
とりあえず私は話し続ける。
「で……シダンワンダは、そのうち、あれと似た極端な手段に出そうだってことはすっごい感じた。
幹也以外の人を、ああやって憎んだりされたらマジで困る。それされると幹也の損だし幹也を傷つけるから」
たぶん幹也では対処しきれないだろう。花奈ちゃんと一番仲いいのは私なんだからほかの子とは仲良くしないで、って言われるめんどくささの一万倍はめんどくさい。
「……花奈さん」
呼ばれたので黙る。クラージュは笑顔だった。
「あなたは聡明な女性ですね」
私はひるんだ。
内心コンプレックスに感じていることの正反対の誉め言葉だったからだ。
よく直情的だとかおとなしくしろだとか素直じゃないとかテスト前くらい勉強しなさいとか、聡明じゃないことに関して言われまくっているから。
深堀りしてそれどういう意味、って聞く勇気が出ないくらいびっくりした。嫌味だったかもしれない。わからない。クラージュはそれ以上話すつもりがないみたいだった。
「今日ソワレとラグルリンガを見ていただいた上で、ぼくからできる提案がいくつかあります」
……たぶんこれは、私がなにか言い始める前に、自分が話し出したほうがいいって判断だろうな、となんとなく感じる。
でも、とりあえず聞く。クラージュは指折り出した。
「ひとつ、ラグルリンガがしたように、幹也さんには伝えず、シダンワンダの姿と性格を変えてまた侍らせる。
本人も大いに懲りているはずですから、つま先に口づけするようなことはもうしないでしょう。
従者のない鉱脈でも、ぼくのようなものが代わりに侍るのだ、花奈さんと同じ立場になったのだ、と伝えればごまかせるのでは」
「……幹也のことはだませないと思う」
幹也はかしこいし、うたぐりぶかい。いい子なんだけど。
クラージュはうなずいた。
「ではこれはやめましょう。失敗するわけにはいきませんから」
私もうなずいた。幹也は執念深い。
「ふたつ……幹也さんから、シダンワンダへもう二度と姿を見せるなと命じる。
でも、ふだん幹也さんは近づくな、と命令することすら、意思を通わせるのすらいやで、歩き回っているように見えますし……一応提案だけさせていただきましたが、ぼく個人の考えでは、あまりおすすめしません」
「どうして?」
私はちょっと考えた。
『姿を見せるな』だけの命令だと、たとえばラグルリンガみたいに、無害ななにかに姿を変えてまたくっついて回って管理できない、とかのトラブルが防げないからだろうか。
「鉱の姫と従者を、引き離すべからずというグラナアーデの経験則に基づきます」
――函より顕れたる白砂は初乳のごときもの。鉱脈を斎い、ことほぎまもるために形をとった、いしの化身。鉱脈とそれは切って離せぬものだから、同じ名で呼ばう。
クラージュは、前に一度聞かせてくれた、なにかの一節をまたそらんじてみせた。
「引きはなされようとするのを従者はあんな風に全力で拒みますし、我々にとって打つ手立てのない事態に発展することもある」
「う、打つ手立てのない事態って……?」
なんとなく気圧されながらも聞き返すと、クラージュの視線が一瞬下がる。説明しようかするまいか迷っているのかもしれない。
「……いろいろなことがあります。いろいろなことが。とにかく引き離せないと思ってください。
従者と姫君とは、出来の悪いプログラムと一緒だと。一見無価値なコードを消すと、全体に影響が及んだりします」
説明になってない。しかもずいぶん冷たい物言いだ。私は内心震え上がった。
昨日からただの砂とかコードとか、人間じゃない扱いがすごい。確かに、さっきの話を聞くとさすがにもう人間じゃないような気もするけど……。
「わ、わかった。やめる。やめよう」
私は両手を振ってやめ、やめ、のしぐさをした。クラージュはうなずく。
「……みっつ、幹也さんの気をそらす。要するに我慢してもらうということになりますが……」
険しくなった私の目を、クラージュもまた視線で制す。
「見たくないものを見ないようにする、聞きたくないものを聞かないようにする、一種の道具があります。これもぼくが使っている、計算尺の一種なのですが……。
ある一定の距離を保ち、指一本触れないようシダンワンダへ命令した上で、これを幹也さんが用いて、視界に入らないようにしておく。
幹也さんも不満でしょうし、ぼくたちの使う道具を信用してもらえないような気はしますが、でもこの方法なら、シダンワンダはリラックスした幹也さんを見ることができてまあきっと喜ぶでしょうし、ぼくから見た幹也さんの性格から見て、視界に入らず、関わり合いにならないですむならそれで満足してくれるような気がして、今のところこれが一番推奨できる方法です」
「そんなのがあるの?」
魔法みたいだ。
「あります。本も読めるようになりますから、図書室でそれに没頭してもらうこともできるでしょう。目にコンタクトレンズのようなものを入れるんです。
音は、普段ぼくが使っている自動翻訳機と同じものを使って調整すれば、必要な部分だけ残してあとは消せます」
「……待って、自動翻訳機があったの? ていうか使ってたの?」
「あるんです」
こともなげにクラージュは答えた。そういえば言われてみれば確かに、日本語で会話できている。
お約束過ぎて考えてもみなかったけど……でもソワレはさらにこことも違う別世界の冒険者であって……そうか、技術か……。
私がちょっと興味ありそうにしたせいで、クラージュはローブのかくしをぱたぱたやりはじめる。
その方向で話が固まったら困っちゃうので、私はあわててそれを制しつつ、おっかなびっくり提案した。
「よっつ……シダンワンダを説得する……というのは……?」
「……説得ですか……」
聞くなりクラージュの表情がくもる。
あーやっぱり馬鹿なこと言い始めたなって顔かもしれない、これは。
私はあわててつづけた。
「ことほいで守ってくれるなら、こちらからも言祝いであげることはできない?
とりあえず説得して、普通の人間関係を築けるように手助けできない?
自分の判断で、やっていいこととわるいことがわかるように」
クラージュの作戦は、見て見ぬふりをするってことだ。
いつまで呼ばれ続けるかわからないのに……とは言えなかった。
永久にですよ、ってさらっと言われたら今度こそは吐くほど泣いてしまう。
クラージュはなんと言って私を説得しようか、考えているみたいだった。
とりあえずすすめられたソファにそのまま座ってるのはよくないと思って、立ち上がる。
クラージュもあわせて立ち上がった。
「……花奈さん、ついさきほど、お分かりいただいたのだとばかり思っていました。
鉱の姫の従者には言い聞かせたりできないんだね、と」
クラージュは私を見下ろして、あきらかに困り果てたという感じの表情と声音を使う。要するに脅迫にかかっている。私はでも、かぶりを振った。
「でも、やってみないと」
「……もう、お感じになったことと思いますが……」
すごい感じた。身をもって。泣くほど。
「鉱の姫の従者は主人の命令しか聞かないし、そうじゃなければ話しかけられても返事もしない」
「…………」
これはイラつきとか嘲りを押し隠したものだったかもしれないけど、怪訝そうな表情が一瞬、クラージュの眉のあたりに走った。
「あれだけ恐ろしい思いをしたばかりなのに……?」
「…………」
クラージュはながいまつげをゆっくりまたたかせた。
……うながされている。
でも私はそのまま黙った。
やれるって自信も根拠もないからだ。
それにしゃべったら丸め込まれるに決まってるから。
しゃべらない相手はタチが悪いっていうのは、まさにシダンワンダと幹也から学びつつある。
わたしがしゃべらないから、クラージュが話し出した。
「……鉱の姫の従者は、少なくとも現在の我々の常識に従った生物ではない。主人のもとめに応じるだけの存在です。
彼らはなんにでもなります。鉱の姫のそばにいるためなら、狼にも、恋人にも友達にも、奴隷にも敵にもなります。
彼ら彼女らにああしてほしい、こうしてほしいと心を託すのは益のないこと。己がないのですから」
「……………………」
「せっかく竜巻に町の上を通るなと命令し、こちらも窓と戸を板で打つことができるのに、なぜ竜巻を解き放つのです?」
「……解き放つつもりじゃないよ……」
これだけは反論しようかな、と思い立って私は口を開く。
「命令するほうが大変だよ。ここは町じゃないからいいか、って村の上とかダムの上とかを通られたら困るじゃん。
ラグルリンガを見てわかったことは、鉱の姫の従者は、鉱脈の言うことなら何でも言うことを聞くってことじゃない。
ソワレはラグルリンガに、目の前から消えろ、って言ったんだと思うけど、姿を変えれば別人扱いだよね、って屁理屈をこねて、今ああしてるんじゃん」
「言って聞かせればいい。村の上もだめ、ダムの上もだめ、姿を変えてもだめと」
「むちゃだよそんなの。いたちごっこになるに決まってるじゃん」
たとえではらちがあかない。
「たとえば幹也にここでなにかトラブルにあったとき……葉介でも一緒だけど……私ももう一人もいなかったら……悔しいけど二人のことは、鉱脈の従者にしか守れない」
「そんなことはありえません」
私は何度も強くかぶりを振る。
「すでに誘拐されてるんだよ、私たち。さらに誘拐されることもあるかもしれないじゃん」
「そのような心配は無用です」
誘拐や肉体的なけがだけが心配なんじゃない。
ていうか最大のトラブルの種がシダンワンダ、ナルドリンガなのに、その二人の根本的な問題から目をそむけようっていうほうがどだい無理な話じゃないか。
言い聞かせたらなんでも聞くっていうの自体も、まず信じられない。
シダンワンダは幹也の顔面キックも乗り越えてるわけだけど、『なんでもってどのくらいなんでも?』問題はたぶん永久に解決しないし、それくらいだったら人並みの倫理観を持ってもらって、『幹也、顔面キックはやっぱりいけないことです。お互いごめんなさいしましょう』って言われるほうがよっぽど安心だ。
……そうだ、これに尽きる。
この方法でしか『やっぱあのときの顔面キックはないわ死ね』って突然やられるリスクが消せない。
「花奈さん」
クラージュは私のだらんとおろしていた手を拾って自分の手を取らせ、ぎゅうと握りしめた。
私は視線をそらし続ける。
「花奈さん、聞いて。風を風の思うまま吹かせてはならない。風の吹く道は人が選ぶんです……花奈さん」
聞きながら思う。
まさにクラージュは守勢にあると。それをめっちゃ感じる。
クラージュは指で私のあごをとって上げさせた。そうして、視線を合わせようとする。私はくじけず天井の絵を見る。
「花奈さん」
「……」
「花奈さん」
「…………」
クラージュは目を軽くすがめた。明らかにいら立っている。
機嫌の悪い猫の注意をひくみたいに、私のあごをとったまま、もう片手の指を一本たてて、私の視線の前でふり、注意をひこうと試みているようだ。
……いつもの感じよりも人間らしい感じがあって、こっちのほうが好きかも、と心のすみっこでちらっと思う。気がそれるのはクラージュの思うつぼだからますます上を見る。
このままいけば勝てると確信したそのとき、視界の端っこでクラージュがほほ笑んだのが見えた。
今までで見せられた中で一番甘いやつだった。
「わからずやの頑固者」
クラージュの指が顎から滑って、引き結んでいた私の唇へ。
さすがにどきっとした瞬間、クラージュの親指が唇を割った。はめていた指輪の縁が、唇の裏に触れるなり、びりびり電流が全身を走る。
「びゃん!!!」
それきり私はしゃべることもあるくこともできなくなった。
まるたんぼうのようにまっすぐなって、ばたーんと前のめりになっていく。
ティファニーで朝食をでこういうシーンあったな、と思ったけど、映画とは違ってちゃんとクラージュは私を受け止めた。
膝をつかって、胸と肩とで抱き留めて、動けない私の耳元の、くちびるが触れるほど近くでささやく。
「今日は絵でもながめて遊びましょう」
返事もできない、冷凍マグロのようになった私をクラージュは寝椅子に横たえ、お茶の準備を始めた。
私は目玉だけ動かして、その背中を見ている。
これは? これは? これはいったい??
びくとも動けない。感電したきり、まっすぐ気を付けみたいなポーズで、呼吸と鼓動と視線の自由だけあたえられ、それ以外ぜんぶをうばわれて、ぶったおれている。
これは……技術? それともさすがに魔法? いったいなにをされたんだろう?
まな板の鯉とかいうけど、私はそれ以下だった。
転がることもはねることもできない。お茶がテーブルにならんでも私は飲めない。
クラージュは私の頭をを膝に乗せ、花の表紙の、よくわからない画集みたいなのを広げ、私の全力のにらみを受けると、ふと怒ったような笑顔を消して、つぶやく。
「花奈さん、あなたは聡明な女性です」
「………………」
「おっしゃりたいことはよくわかりました。ただ、従者に関するいろいろについては、ぼくに一日の長があることを理解していただきたいですね」
「………………」
「それにぼくの言うことを聞かないことにしたでしょう」
「………………」
「だからぼくも聞かないことにしました」
またほほえむ。
「二度とこういうことがないようにしたいものですね、お互いに」
「………………」
しゃべれないのでにらみまくる。
クラージュはしばらくにこにこ私のにらみを受け止めていたけど、またふと、笑みを消して、私の目を見つめた。
私も見つめ返した。膝枕されたまま。お茶のいいにおいだけがのどかだった。
私をこんな風にしてるのはクラージュで、だから私から返事なんかできないってわかってるはずなのに、やがてクラージュから降ったことばは、問いかけのかたちをしていた。
「……どうしてそんなにも一生懸命なんです? 何があってもどうせぼくがあなたをかばうと高をくくっているのですか?」
「…………」
聞き捨てならない……が、結果的には毎回そうだ。その点はちょっと悪いと思っている。
そういう気持ちがちょっとは視線に出たのか、クラージュの私の目を見る視線があきれた風にかわる。
でも毎回、おそろしかろうとなんだろうと、ゆずっちゃいけない一線だった。あそこをゆずったら、私は自分のことがきらいになってしまう。
「……きょうだいとはいえ、しょせん他人なのに」
きょうだいだからだよ。
17年間、同じご飯を食べて、同じ家でねて、同じ遊びをして同じことでしかられて、同じことで笑って同じことで泣いて、同じ秘密を共有してきたきょうだいだからだよ。
あんなとき、知らんぷりすることのほうが私にとってはつらいことだ。
じゃあクラージュこそどうして私と一緒にいるの? わたしはこんなにじゃけんにしてるのに。いうことは聞かないし愛想よくもしてないし、してあげられることはなにひとつない。
私はクラージュについてって楽しく過ごせるようにおもてなしされ……されてないこともあるけど、でも、クラージュはただ一方的におもてなししてるだけで、クラージュにとっては、私を守ってあげなくちゃかばってあげなくちゃと思える根拠になるような、楽しい思い出は何ひとつないはずだ……
ここまで考えて、思い出した。いやでも一緒に過ごした時間が長くなりだして、忘れがちだ。
そうだ、クラージュは私の監視をしてるんだった。義務で。なにかの。なにかのっていうか。
魔法の力で魔法の宝石を生み出させるために。使いもしない宝物をため込むために。
「しょせん他人なのに。ぼくに対してだってそうでしょう。夕方、あなたを泣くまで追い詰めた元凶は、このぼくですよ。いいんですか? 怒らなくて」
「……………………」
でもそれは、クラージュの義務だかノルマだかなんでしょう? 義務だから、私を泣くまで追い詰めたんでしょう? ほんとはきっと、したくなかったんでしょう?
私のことはほんとは気のりしないのに、義務だから守ってくれてて、義務だから私のことを泣くまで追い詰めたんでしょう?
義務の意味が私の頭の中で何度も何度もひっくり返る。
「……花奈さんは、ぼくのことなどどうでもいいんでしょうね」
クラージュのつぶやきの意味が、私にはわからない。
クラージュは悪いやつだ。クラージュはほんとはいいやつだ。クラージュは、ほんとは悪いやつで、でも、ほんとは……
返事もできないせいで不毛な時間ばかりが流れ、今はぜんぜん見たくない花の絵を頬に感じながら、クラージュの顔だけただ眺め、どのくらいそうしていただろう。
クラージュは、私のなにかを見て、なにか決めたらしく、薄く笑った。
広げた画集の陰に隠れて、私の顔へかがみこんでそして、なにか話す。
たまに彼がそらんじる、函より顕れたる白砂はなんとか、というのよりさらに古そうな言葉の、なにか……
――稚き輝神 静寂と脂に沸き坐せたまひき――
そのとき、何かがおこった。
マスカラを乗せたくらい、ほんのわずかにまつ毛が重くなり、梅雨の夕方くらい空気が重くなり、おでこに前髪がふにゃんとしなだれる。
――だれかが来たのが分かった。
目には見えない、クラージュの話を聞きに来た、だれか。
クラージュはたった一節ですぐに話すのをやめた。
でも、だれかは、続きを聞きたそうに、あたりをぐるぐる回っている。
目にも耳にも分からなくても、それが分かった。
ソファの表面が地震みたいにわずかに揺れている。絵本を離した片方の手が、握り返せない私の左手を握った。
クラージュの表情は冷静で、私のようすを観察してるのが見てとれる。
クラージュはいったい、私に何をさせたいんだろう。
クラージュは、まるで、まだ治ってないってわかってるかさぶたをむりやりはがすみたいに、面白半分に、なにか……なにか、怪物めいたものを呼び出した……ようだ。
クラージュ自身すら道連れに、私をただ怖がらせるために……。
でも私はいま、身動きのいっさいを封じられている。私にできるのは、息と鼓動と、見ることだけ。ふるえる自由もない。
だから私は、クラージュを見た。それしかできないから。
あなたは私に何をさせたいの。言ってよ、そしたらなにかできるかもしれないから。
言ってよ、クラージュ。言って。
――やがて異様な気配は去った。
互いに無言のまま、クラージュの視線がティーカップへうつる。私からはひらかれた画集で見えないけど。
もはや私に抵抗の意思はないのを悟ってるはずなのに、クラージュは私をまるたんぼうのようにしたままだ。不用意なことを話させないため、もしくは、聞きたくないがため、みたいに。
動けない全身にどっと冷や汗をかいていて、体の芯だけなんだか熱いような気がする。
クラージュは画集へ視線を移し、何か話しはじめた。多分草の名前……なにも頭に入ってこないけど。
今のは、魔法? さっきのは呪文? なにか、神話みたいな……。
なにより、クラージュは……クラージュは、いったい……。