02 ルチルクォーツの湖
私たちは激おこだった。バチバチにキレていた。
ので、宣言通りにその次の晩、ほとんど同じ時間にまたあのあずまやへ呼び出されたときには、靴を履いて、ジャージを着て、私と幹也にいたっては包丁と金属バットをそれぞれ手にしていたのだけど、クラージュ達は別に動揺したそぶりは見せなかった。
クラージュは微笑んだまま、赤のナルドリンガと青のシダンワンダは軽く頭を下げて目を伏せた姿勢のまま、魔法使いAは棒立ちのまま。
自分から包丁を持ち出しといてなんだけど、人を刺す勇気はないので、包丁を見て怯んでくれなかったのには私のほうが動揺した……というか困った……。
「後でお返ししますね」
クラージュの、半透明で薄暗い色のマニキュアをした指先からぴりっと、一瞬火花と稲妻が二条散った。
暗い中だから見えたんだろう。それが当たるや否や、包丁は柄だけ残して、金属バットは塗装のところだけ……と思いきや、中身の発泡スチロールとグリップだけを残してどろどろにとろけ落ちた。
……金属バットの中身ってこうなってたのか……。ていうか包丁もやばい、お母さんに何て言おう。
金属のしずくから足元を守ろうとして若干飛び退る私たちと、バットの持ち主である葉介のドン引きの視線も意に介さず、クラージュは胸に片方の手を当てて、もう片方の手をゆったり広げる優雅な礼をした。
おじぎの動きで、ローブにこれでもかとつけられたアクセサリー類が触れ合って、きらきら涼し気な華々しい音を立てるのでイラッとくる。
よく見れば、そのアクセサリーのうちひとつ、いくつもはまった金の指輪の一つだけが、こげ茶色にくもっていた。
マニキュアの指からのぴかっ、の前は光っていた気がする。アクセサリーが魔法の力の源なんだろうか。トークン的な……。使い捨てカイロ的な……。
「お元気そうで何よりです。昨日のお話の、続きをさせていただけませんか」
私の視線に気づいたのか、指先をさりげなく隠しながら、クラージュは言った。
やむなく私たちは受け入れる。
今夜の空は昨日と違って薄く雲がかり、ぽんぽんとあちこちに吊るされた、提灯みたいなランプみたいな、すりガラスっぽいまん丸い灯りがそのへんを照らしていた。
光の角度が悪いのかわざとなのか敵意の目で見てるからか、とにかくクラージュはめちゃくちゃ悪そうな顔に見える。
しかし埒が明かないのは確かだった。イのイチ、葉介が昨日と同じ位置のベンチに座る。
ナルドリンガ、シダンワンダの二人は今日は服を着ていたけど、やっぱり出来るだけ遠くに座ってもらった。不気味だからね。
昨日のことで、意外と怒ってなかったのが葉介で、実際、私たちと違って武器を持ち込んでない。スマホ以外は手ぶらだ。スマホの機能で録音はしておくと言っていたけど、昨日の今日で早くもこのサイコパスと世界に順応を始めているらしい。
ていうか録音って意味あるんだろうか? 警察に持ち込んでも、対応してもらえる可能性はほぼないと思うけど……。
幹也は突発的な事態にめちゃくちゃ弱いので、自分の手の中のバットかどろどろに溶け落ちたのがショックすぎてまた茫然自失の状態に陥ってしまった。私が引っ張ってようやくベンチに座る。
しかしさっきも言った通り、私は確かに一瞬あっけにとられはしたものの、引き続きバチバチにキレていた。
「昨日はどうして誤解させてたの? なんで帰してくれるつもりが少しでもあったのに、あんな風に、私たちが慌てるのを見て楽しんでたの?」
「そのことも含めて、改めてご説明を」
クラージュは動じなかった。というか悪びれなかった。面の皮の厚い男だ。
クラージュが袖を振ると、袖に何連にも縫い付けられていたコインが、さっきまでのしゃらしゃらとは違う、静電気のはじけるみたいな音を立てる。
その音と一緒に、昨日、靴に変わったのと同じ金色の魚が三匹現れた。代わりにコインは煤けたみたいに黒ずむ。使用済みって感じだろうか……?
魚はまた空中を跳ねまわりながらどこかへ去っていく。それを視線で追っていた私たちへ、クラージュがさりげない感じで声をかけた。
――一つの函に一人の鉱脈。函より顕れたる白砂は初乳のごときもの、従者をうみてのちも函は鉱脈をやしなう。
――鉱脈の心健やかなるをよろこんで財を生じ、鉱脈の心患うをなぐさめてまた財を生す。
「……つまり、私たちのテンションが上がったり下がったり、心に合わせて、昨日の箱から鉱物が出るってこと?」
呑み込めるようになるまで少しかかったけど、注意深く聞くと、そういうことかなと思った。クラージュもうなずく。
「感情に合わせて石が出るから、昨日は私たちを悲しませたままほったらかした? あー出してる出してる自分に乗せられてるとも知らないでって内心ほくそ笑みながら?」
クラージュはもう一度うなずく。そしてベンチにも腰掛けないで立ったままの右半身入れ墨ぎっしりの魔法使いAをちらりと見た。
「途中、彼が割って入ったのは、このままでは関係性を築くことができないと判断したからです。これ以上追い詰める必要はないと」
「はあ……」
こんなに悪意マシマシの人を私は初めて見たので、怒るというよりもう、びっくりしてしまって、私はまじまじクラージュを見つめる。
私の視線をどういうつもりで受け取ったのかは知らないけど、クラージュは薄く笑った。
「ぼくは思いやりのない冷血漢ですが、ここで謝ったり何か言い訳をするほど、恥知らずではありません」
そういうのを開き直りっていうんじゃないだろうか。
昨日はもう、絶望すぎて何も思う余裕がなかったけど、クラージュがまばたきするたび、彼の頬のあたりまで長く落ちているまつげの影が揺れて、それがすごく悲しげに見え、言葉でする言い訳の代わりに、これ以上責めちゃいけないんじゃないかって気持ちを相手に押し付けてるように感じる。
座る位置か、灯りの角度を一回変えてみません? って聞いてみようかなと灯りを見上げたら、位置が近づいて分かったことだけど、最初すりガラスだと思っていた灯りのシェードは、針か何かで根気強くひっかいたみたいな、ほんとに細かい彫刻がされていたものだとわかる。
量産するとなったらすごい大変そうだけど、あたり中を照らすぼんぼり全部がこれなんだろうか? 豊かな国なんだろうか……。
茫然自失からやっと帰ってきた幹也がぼそっと私を叱る。
「気が散ってる、花奈」
ていうか、選ばれて呼び出されて一応かしずこうとされているっていうことに、心のどこかが舞い上がってるのかもしれない。私は黙ってた方がいいのかも。
葉介が抑えた声音で言う。
「なんでわざわざそれを今俺たちに?」
「なぜ今……というよりも、昨日話そうと思っていたことを、止められた形ですね。
感情の爆発という点に限っていえば、昨日のうちにお伝えしたほうが、あなた方の『怒り』の感情は多く生まれたでしょう。
一日置いたことで、私は武器で脅される程度の感情のみを得るにとどまったわけで、僕の考えによればですが、これは彼の誠意でしょうね」
彼の、とクラージュは魔法使いAを示す。
魔法使いAは棒立ちで目を閉じたまま動かない。入れ墨のせいで表情も読み取りにくい。寝てるのかもしれない。いやまさか。
――クラージュは小さなしぐさの一つ一つに意味を持たせるのが上手みたいだ。ふと視線を私たちの背中側へやっただけで、私たち三人はつられてそちらを見やる。
視線の先ではちょうど、さっきどこかへ消えていた三匹の魚が、三つの箱を伴って現れたところみたいだった。
あの納骨堂みたいなところに昨晩置き去りにしてきた赤、青、銀の箱が、それぞれ銀のお盆に乗せられて浮いていて、そのお盆の周りを金の魚が水中と同じように泳ぎまわっている。
しっかり見るのは初めてだった……と言って昨日ぶりなわけだけど、箱はそれぞれ形とサイズが違い、ぼんぼりと同じようにすごく細かい透かし彫りが入っている。模様は魔法使いAの入れ墨と同じ、月、花、馬、鳥。あと蔦。
青いぺたんこの、たとえば文箱みたいな、四角く平たい箱、それに比べると少し厚みのある、赤いオルゴールみたいな箱、銀色の、片手でつかめるくらいの脚付きの香炉のっぽいの、の縁から、それぞれ同じ色の鉱石が縁から絶え間なくこぼれて落ちて、銀盆に触れた瞬間、音もたてずにどこかへ消え去ってしまう。
これは見ただけの印象だけど、この入れ物はそれぞれ全部、どうも、継ぎ目のないひとかたまりの鉱物で出来ている。
一体どうやって作ったんだろうか。
アルミはともかくとして、ひとかたまりのルビーやサファイアをこんなにも薄く削りだして模様まで彫り込むなんて、並の技術ではないはずだ。確かルビーとかサファイアっていうのは、ダイヤモンドほどじゃないとしても、二、三を争うくらい固い宝石のはずだし……。
しばらく三人とも、その様子に見入っていた。多分20秒くらいだろう。クラージュの静かな声が私たちを現実に引き戻す。
「これが鉱の小函。あなた方の能力の証。あなた方がここにいる間、感情が揺れ動くに従って鉱石を吐き出し続けます。
この一点に関してはまず包み隠さず話すことで誠意を感じていただきたいと思いますが、我々からあなた方へは、特に、託したい使命も危険もありません。
その代わり、あなた方のメリットもありません。これは強制労働みたいなものです。
あなた方は異界の野蛮人につかまって、不平等に感情を搾取されることになります。鉱石を生み出すという目的の中で、あなた方の自由は最大限に考慮しますが、拒否権は認めません。
――これはあなた方を追い詰めるつもりで言うのではなく、事実として言う言葉ですが、あなた方は我々の召喚にあらがうすべを持つでしょうか?」
メリット。拒否権。これを聞いて、私たち三きょうだいは顔を見合わせた。全員、同じことを考えている顔だ。
しかしそれを果たして口出そうか出すまいか、の無言の打ち合わせがすまないうちに、せっかちの葉介が言ってしまった。
「例えばそれを叩き壊したりしたら、俺達を呼び出すメリットは失われるな?」
クラージュはひたと葉介の目を見つめ返した。
金茶色の目の色が少し濃く、揺らめいたように見える。
「それをするとどうなるか、は、我々の間で相応の信頼関係が築けたときにお教えしましょう。
しかしぼくはそれが為されぬよう、あらゆる手段を尽くします。
今申し上げられるのは、それをすれば、小函はあなた方の絶望の感情を呑むだろうということだけです」
「……それは、それをやったら俺たちを後悔させてやるって意味?」
……いや? 葉介より先に聞き返した幹也の声音は剣呑な感じだったけど、私はそうは感じなかった。脅しではあると思うけど。
「いいえ」
クラージュは薄く笑う。葉介が代わりに問い返す。
「信頼関係を築こうっていう気持ちはあるわけだ?」
「ご存じの通りぼくは嘘つきですが、無駄な嘘はつかないつもりです」
はいそうです、とは言ってないってやつだ。
でも、私は聞いた。
「……昨日、私たちを家に帰してくれたのはどうして? そういえば昨日、明日は一時間って言ってた……今日も家に帰してくれるんだよね? ええと、不平等に感情を搾取、しないの? ここにいる間しか宝石は出せないのに」
また、目を伏せたクラージュの頬へ、まつ毛が影を落とし、表情が読み取りにくくなる。
「ここで答えるには難しい質問をなさいますね。
……今、悩んでいます。あけすけに話してしまうほうが禍根が少ないのか、そうしないでおいたほうが、誠意らしきものが伝わるのか。
なにしろまったく性格の違う、強い絆で結ばれた三人もの鉱の姫君が一度に呼び出され、まとめて説明しなくてはならないなどという状態を、昨晩まで考えもしなかったので」
と言いつつ、クラージュは、あけすけに話す方を選んでいるように見せながら、言葉を選んでいるらしく、ゆっくり話し出した。
「……白々しく聞こえるかもしれませんが、ゲルダガンドは今まで何百年もの間、少なくとも千人以上の鉱の姫の召喚を行ってきました。ぼくから言えることは、精神的に強いショックを受けた状態にある人は、とても簡単に病んでしまうといこと。
実利的なことを話すほうが安心してもらえるでしょうから言いますが、そういう場合……結果的に、生み出される鉱石の量はとても少なくなってしまうことのほうが多いようです。
……我々は、あなた方を拷問するつもりはありません。昨日のように失望させたり怒らせたりさせ続けると、長期的に見て、鉱脈の感情は悪い意味で凪いでいくからです。
不合理に感じる部分も多いと思いますが、鉱脈を作り出した神の意図と、我々人間の意図は違う、というところで、今のところだけは呑み込んでいただけないでしょうか。
ひとまず、ご兄弟それぞれに一言ずつ、申し上げさせてください」
ここでクラージュは息を吸いなおし、葉介の目を見た。
「葉介さん。力を貸してください」
葉介は黙ったままだ。
クラージュは次に幹也を呼ぶ。幹也は私側へ顔をそむけたけど、クラージュの方はその横顔を見つめて言う。
「幹也さん。決して危害は加えない、また加えさせないと誓います。家族で過ごす時間も十分とれるようはからいます。
兄のあなたに、相談させていただけませんか」
私たちきょうだいはまたも顔を見合わせた。無言のうちに視線に乗って感情が行き交う。
……分が悪い。これは間違いなく、分が悪い。
葉介は責任感が強いタイプだとか、私と幹也が年齢のわりにきょうだい離れができてないタイプだとか、だいたい読まれている。読み切られている。昨日と今日、併せてたった30分足らずの間に。
幹也は、自力で召喚を止められないっていう物理的なことのみならず、私たち三人が精神的にも制圧されかかっている風なことを感じ取っている。私はアホだけど幹也の目がそう言ってたので私も感じた。
クラージュは、なぜ自分がこれを話すのか、話さないのかまで明らかにしながら話した。これは呼び出した被害者みんなにやっていることなんだろうか?
潔癖気味の幹也はともかく、少なくとも葉介は、葉介の顔は、かなり説得されかかっているというか、騙されてやってもいいか、って気分な表情だ。現実、確かに拒否権ないし、という。
まあ確かにそうなんだけど……と、そういう(顔をしている)幹也だって、具体的になにかできることは見つかっていない風だ。
どうしよどうしよと視線を交し合ってる間、さほど間を開けず私が呼ばれた。
「花奈さん」
私は何を言われるんだろう。身構えた。ものすごく身構えた。何なら軽くファイティングポーズまで取った。
ただでさえ抵抗の余地はなさそうなのに。説得されなくてもあきらめかかっているのに……。
クラージュは私を見つめる。私も見つめ返す。
クラージュの目はほんのり黄色みがかった灯りの下で橙色にきらめいていて、虹彩に不思議な模様が入っている気がする。カラコンでも入れてるんだろうか。
クラージュは私の名前を呼んだきりしばらく黙っていたので、私はその間にクラージュの鼻先や唇の形を目でたどり、ばさばさした布の多い服の襟元とじゃらじゃらした金色のネックレスの隙間に、のどぼとけがあるのを発見した。
「……少し歩きませんか? 湖のふちを」
私は身構えていたので、反射的に、えっいいよと言ってしまった。
クラージュもありがとうと言って立ち上がってしまう。
とっさに、反射的に言っちゃったけど、あんまりよくなかったかも、行ったら命の危険はないにしろ、びっくりさせて石を取るために軽い感じで湖につきとされるかも、と、思った。
でも、やっぱりやめた、行かない、と言い出す勇気もなくて、とぼとぼついていく。
葉介も幹也もついてきて、美少女たちもついてきて、魔法使いAもついてきた。ずらずら変な行列ができた。
ずいぶん広そうな場所なのに、人影は相変わらず、私たち以外にはない。なんだか寂しい場所だった。
坂道を少し下ってたどり着いた湖は、うすく白く光っていた。
湖面が白くにごって、薄い雲から抜ける月の光を、風で立つさざ波が反射している。
きれいだった。
遠くに見えるお城と同じ色の湖は、にごって、どのくらいの深さがあるのかは計り知れない。
岸辺は護岸ブロックのこじゃれたやつ、みたいなタイルで埋め尽くされ、タイルは湖の中まで続いている。
「ここは荒野シュツルク。ゲルダガンドには乾季と水季があって、この地域では水季の間、石灰を多く含んだ地下水が噴き出し、このような湖をつくります。
水が多い年は放っておくとあの地下室や、あずまやのあたりも水没するそうですが、ここ最近はそういうこともありませんね。下を見ますか?」
返事はしなかったけど、クラージュは右袖を振る。
袖口からなにか小さなものが落ちて手に握りこんだ、と見えた間に、小さなものが長細く、線に伸び、間髪入れずそれが面に広がり、そしてすぐさま球に膨らんだ。球はジャイロスコープみたいに、球と円と点と線でできていて、目盛りがぐるりと取り囲んでいる。
クラージュがその球を左手の指先で転がすと、球は浮き上がって目盛りがゆっくり回転し、たぶんそれを合図に、ほんの10メートルくらいの狭い範囲に、金の雨がやわらかい針のようになって降り出した。
魔法だ。いつの間にか魔法が始まっていた。
雨は湖面に吸い込まれ、ときどき飛沫が頬に当たると、炭酸水みたいに頬の上で小さなはじける音がした、ような気がした。
注いだ雨は湖面に落ちるとそこでぽこぽこ泡立ち、泡は湖の底へ底へ沈んでいったようだった。
やがて泡はもう一度湖面へあがってきて、泡がおさまると、ふしぎなことに水の曇りはとれて澄んでいき、また金の雨自体が灯りになって、湖の底が覗けるようになった。
きれいだった。
真っ白い水底が見える。
水底は段々の、水盤を重ねたようなふしぎな石灰棚を作っていて、そこへ金の雨があぶくと一緒に降り注ぎ、またあぶくだけが上がってきて、金の光と銀のあぶくが上下に舞っている。
雨が当たったところ以外は白く濁ったままで、水の大きな穴が空いたみたいだった。
幹也のうろんげな視線を受けて、少し首をかしげて、クラージュは幹也向けに説明する。
「二酸化炭素を溶かしました。ただそれだけです。興味があるなら方法をお教えします」
そして続けて、クラージュはきょとんとしていた私に視線をやる。
「湖面を歩いてみませんか?」
「歩けるの?」
「ええ」
クラージュは布の多い服をたくし上げるしぐさもせず、ただ無造作に湖へ歩き出した。
小さな波紋が、クラージュの足元から広がる……ただの、ほんとに浅い、小さな水たまりを踏んだだけみたいに。
クラージュは振り返って微笑む。
「濡れないようにしていますから、安全です」
私は息をのんだ。見下ろした水底はかなり深かった。
「ほ、ほんと? 突然魔法を解いたりしない?」
「しません」
「ほんとに? ほんとに?」
「ほんとです」
「うそつかない?」
「手をつなぎましょうか、花奈さん」
やわらかい月明かりを背にして、クラージュは笑っていた。
昨日お風呂前にはかった体重は45.6キロ、昨日より200グラム増加していたから重さを預けるのは気乗りしなかったし、幹也や葉介の手前、手をつなぐのはちょっとだけ迷いがあったけど、でも好奇心が勝った。
伸ばされて待っていたクラージュの手を取って、ついでに出されてなかったもう片方の手も借りて、両手にかなり体重を預けながら、湖面へ足をつける。
汚れてもいいか、ジャージだしな、と思っていたけど、実際のところ浅い水たまり以上に、ちょっと浮いているような感触が靴の裏にあって、歩くと吸いつくようなぴちゃぴちゃした感じ。
「これも、興味があれば方法をお教えします」
これも幹也向けっぽい。私の背後へ、私の肩越しに一瞬声を張り上げた以外は、クラージュは黙っていてくれた。一歩一歩進んでいく。ミルク色の湖の穴の中心へ。
両手をとって、小さな輪をつくり、金銀透明のステージへ。
小さく後ろへ下がるクラージュと、同じ幅だけつま先を踏み出す。
やがて私が少し慣れてくると、実はこれ、今、顔を上げられなくなっているんじゃないか、とふと思った。
頭のてっぺんに、クラージュの髪の気配を感じる。
肘を引いて体を寄せ合っているから、距離が近い。
ありがとう、もう大丈夫だから片方離して、とお願いしようとしたとき、花奈さん、とクラージュが言った。
内緒話の声音だった。
「花奈さん、ここへは遊びにいらっしゃい。せいいっぱいおもてなししますよ」
――ずいぶん後になっても、このときのことは何度も後悔させられることになるんだけど、私は、このとき、うん、と言った。
私はなんだか、わくわくしていた。
落ち着いてみれば異世界はものめずらしく、また、高校生になってからというもの、自然とそれぞれ別々の時間が長くなっていった私たちきょうだいが、またこうやって、小学生の頃みたいに一緒の時間をもう少し過ごせるんじゃないか、ってちょっと思ったら、わくわくした。
確かにどうせ召喚にはあらがえないし、無理やり呼び出されるのはともかくとして、帰してもらえるとわかったし、日本ではVRでしか見られないようなすごくきれいな景色もじかに見れて、魔法らしい魔法も味わえた……気がする。
私は、いいよ、許す、って気分だった。そういう顔をしていたみたいだ。クラージュは私の表情を確かめて、微笑んだ。
月影は雲居でかがやき、湖はさながらルチルクォーツ、異世界はまるでおもちゃだった。
岸辺では呆れた、って顔で兄弟がにらんでたけど、今日はこのまま、とりあえず。
……で、終われれば美しかったんだけど。
一通り楽しみ終わって、そろそろ地面の上に帰ろうかな、って気分になったころ、ふとクラージュがささやいた。
「花奈さん、片手だけ、はなしてもいいでしょうか」
それは途中で私のほうが言おうとしたんだよと抗議しようとしたけど、クラージュはそれをささやき声でさえぎる。
「どうかそのまま」
私はだまった。
私は左手を離したから、クラージュは右手でそのローブの隠し……って言って、布だらけだからその布のどこかの隙間から、栓のされた試験管みたいなものを出してきた。
息をのんだ。
中に入ってたのは三本のアイスの棒だった。
思い出した。昨日、来たときに私たちがくわえていた、ソーダバーの棒だ。
一体どこに落としてたんだろう……いつからくわえてなかったのかも覚えていない。
私がそのことに気づいたことに気づくと、クラージュは瞬き一つで、多分なにかを魔法のなにかに合図して、試験管の中身を燃やしてしまった。
アイスの棒は一瞬で塵と灰になってしまって、栓を開けると折しも吹いてきた強い風にあとかたもなく散っていく。
「……二本は従者たちが隠し持っていたものです。ぼくが取り上げました。お忘れだったようですから良いかとも思いましたが……ふとしたときに、もし思い出されたとき、取り返しのつかないような恐ろしい思いをしないように、今、処分するところをお見せしました」
私はそのときはじめて、クラージュに怒りと怖さと絶望以外の感情を抱いたと思う。
あと、現況に対する恐怖といら立ちがまたもどってくる……けどそれはまた別の話として……
「あ、あ、あ、ありがとう……」
ちょっとプライドが邪魔をしたけど、まずとりあえず、素直に言えた。
言えてほっとした。
確かに忘れてたし、これから先ずっと思い出さなかったかもしれないけど、でも、今教えてもらえてすごくほっとした。
というのと、怒りに我を忘れてお礼も言えない自分になってるわけじゃないことが分かって、ほっとした。
と同時に、腰が抜けた。なんとも言えない、怖さの入り混じった疲労感が突き上げてきて、私はまた、クラージュに両手で支えられた。
なんかこう、遊びに来るよって約束した直後にこれを教えられたの、卑怯じゃないか? 卑怯だ。
ていうか本人がそう言ってたかな。いや言ってなかったかも。でも卑怯だ。
なんで私一人にこのアイスの棒を見せたのか、なんとなく察しがつく。
私はこれから、善悪の区別がついてないヤバいストーカーの奴隷二人から兄弟を守りつつ、このサイコパスの魔法使いと渡り合わなくちゃいけなくなったのだ……。