気付いてしまう
フィリップ様はお湯を飲み干すと、戸惑い黙ってしまったわたしに「君の分を淹れてくる」と言い、立ち上がった。
「……あの、近くで見ていてもいいですか? わたしもお茶を、うまく淹れられるようになりたくて」
「ああ。俺で良ければ教える」
「ありがとうございます」
快諾してくれた彼の後を着いていき、二人でキッチンに並び立つ。そしてフィリップ様は子供にもわかるくらい、丁寧にお茶の淹れ方を教えてくれた。わたしはそんな彼の手元を見ながら、指先まで綺麗だなんて思ったりもして。
やがてティーカップを手に、再び広間へと戻ったけれど。
「…………」
ソファにぽふりと座ってから、わたしは自身が座った位置がおかしいことに気が付いた。
キッチンにいた時の感覚で、ついフィリップ様のすぐ隣に腰を下ろしてしまったのだ。そして隣からは痛いくらいの視線を感じる。恥ずかしすぎて、穴があったら入りたい。
今更離れた場所に座り直すのもおかしいだろうしと、落ち着かない気持ちでいた時だった。
「っきゃ……!」
不意に、先ほどよりも大きな雷の音が鳴り響き、地震かと思うくらいに建物が揺れたのだ。その瞬間、停電が起きたらしく部屋の中が真っ暗になる。あまりの恐怖に、わたしは思い切りフィリップ様にしがみついてしまっていた。
するとすぐに彼はわたしの背中に腕を回し、「大丈夫だ」と何度も優しく声を掛けてくれて。
そして時折、とんとんと背中を撫でてくれる。すると魔法のように、恐怖心が和らいでいくのがわかった。
「……ありがとう、ございます」
「ああ」
それから、十分くらい経っただろうか。
わたしは何故か、落ち着いた今もまだフィリップ様の腕の中にいるままで。柔らかな良い匂いとあたたかな体温、そして早い鼓動の音が、ひどく心地良い。
そのせいか、だんだんと瞼が重たくなってきてしまう。
「……今日、一緒に居たのが俺で良かった」
「えっ?」
「仕方ない状況とは言え、もしも君が他の男とこうしていたらと思うと、耐えられそうにない」
そして彼は、例えレックスが相手だとしても嫌だなんて呟いた。多分、わたしもレックスも普通に嫌だと思う。
「大丈夫です」
「…………?」
「わたしは、フィルだからこうしているんだと思います」
気が付けばわたしの口からは、そんな言葉がすんなりと出てきていた。
けれど本当に、彼以外の人とこうして抱き合っている状況など、想像もつかなかったのだ。
そう呟いた後、ひどい眠気に襲われたわたしは、耐えきれずゆっくりと瞳を閉じる。そしてフィリップ様の次の言葉を聞く前に、わたしは夢の中に落ちて行ったのだった。
◇◇◇
「…………ん、」
ゆっくりと瞼を開ければ、眩しい朝日が差し込んでいた。
そして何度か瞬きを繰り返しているうちに、自身が温かくて良い匂いに包まれていることに気が付く。
そうしてだんだんと意識がはっきりとしてきたわたしは、慌てて顔を上げた。まさか。
「おはよう」
すると驚くほど近距離で、フィリップ様と目が合って。彼はまるでお日様みたいに柔らかく笑った。窓から差し込む朝日に照らされた彼は、驚くほどに眩しい。
それと同時に、彼の服をしっかりと掴んでしまっている自身の手の存在にも、ようやく気が付いた。
「あ、あの、わたし……」
「昨夜、君はこの体勢のまま寝てしまって、ベッドへ運ぼうにも何も見えなくて無理だった。それに俺の服を掴んで離さないから、そのままの状態で今までいた」
「えっ」
ちらりと時計を見れば、もう朝だ。
もしやフィリップ様はわたしのせいで一晩中寝ていないのではないだろうかと、申し訳なさで冷や汗が止まらない。
「ほ、本当にごめんなさい、フィルは寝ていないのでは?」
「いや、俺も少し眠ったから大丈夫だ」
彼はそう言ったけれど、本当だろうか。わたしに気を遣って嘘をついてくれているとしか思えない。
「あ、あの、寝顔、見ました……?」
「ああ。信じられないくらいに可愛かった」
そんなことを真顔で言われてしまい、わたしは慌てて両手で顔を覆った。わたしの寝顔なんて可愛いはずなんかない。
子供の頃、うっかり庭のベンチで寝てしまった時、レックスにびっくりするほど間抜けな寝顔をしていると言われたことがあるのだ。恥ずかしすぎる。
「……君の寝顔を見ながら、幸せとはこういうものなんだろうなと思っていた」
指の隙間からそっと様子を窺えば、フィリップ様は本当に幸せそうな、柔らかい表情をしていて。わたしはそれからしばらく、彼の顔を見ることが出来なかった。
窓の外は昨日の悪天候が嘘のように、晴れ渡っている。
それからは、部屋に運ばれてきた朝食を二人で向かい合って食べた。朝からこうして一緒に食事をするなんて、なんだか不思議な気持ちになる。
もしもいつか彼と結婚したのなら、毎朝こんな風に過ごすのだろうかなんて考えてしまう。
「フィルって、本当に綺麗に食べますよね」
「そうだろうか?」
「はい、昔からそう思っていて、……っ」
そこまで言って、わたしは慌てて口を噤んだ。何を、言っているんだろう。あまりにも気を抜きすぎていた。
慌ててフィリップ様へと視線を移せば、彼はひどく驚いた様子でわたしを見つめている。
「記憶が戻った、のか」
「よ、よくわからないんですけれど、口が勝手に……」
「……そうか。他に何か、思い出したりは?」
苦しすぎる嘘だったけれど、どうやらフィリップ様は信じてくれたらしく、ほっと胸を撫で下ろす。
……本来なら、このまま記憶が戻ったと言っても良かったはずだった。わたし自身が困ることなんてもう何もないのだから。むしろこんな最低な嘘をつき続けなくて済むだけで、だいぶ気持ちが軽くなるだろう。
けれど先日レックスに言われた言葉が頭を過ぎった途端、わたしは咄嗟に嘘をつき続けていた。
もしもわたしの記憶が戻ったと彼が知ったら、きっと今の関係では居られなくなるだろう。今まで彼につかれた嘘の内容から考えれば、レックスの言う通り引きこもるくらいしてもおかしくはないのだ。わたしなら間違いなくそうする。
そしてそれと同時に、わたしは気付いてしまっていた。
「……他には何も、思い出していません」
フィリップ様に会えなくなってしまうのが、何よりも嫌だということに。




