出逢うまでもお仕事です。
お盆もほどほどに過ぎて、蝉の声がアブラゼミからツクツクボウシへと変わってきた夏らしい残暑が残る八月の末。部屋の窓から見える庭のそこかしこに生えている雑草は、時間が止まったようにずっと揺れず太陽の光を浴びている。嫌なことにこの時間は無風だった。
暑苦しい部屋の中で扇風機の強さを『強』にしても、ベタっとした空気だけが身体に送られてきてしまい、自然と握っていたペンの動きも止まる。
「はぁ……暑いわ…………」
独り愚痴たところで夏の暑さは変わらない。そんなことは分かっているのに呟かざるを得ない状況、というのは勉強するのに向いてはいないわね、とヒビキは思っていた。向いていなくても机には向かわなくてはならない状況、というのは学生には本当にキツイわ、とも。
自分以上に汗をかいているグラスを手に取り、微温くなった麦茶を一口含んでゆっくりと喉を潤す。たとえ身体が冷えなくても補給した水分がすぐに出ていってしまうこの暑さでは、定期的に水分を補給しなければ脱水症状で倒れてしまう。学校に行く必要もない夏休みだというのに、脱水症状で倒れて一日以上を消費していたら勿体ない。
「別に誰かと遊ぶ予定も、遊ぶ友人もいないけどね……」
愚痴を吐いたところで友人ができるはずもなく、作る努力すら惜しい。
別に友人を作りたくない。とヒビキ自身が思っているわけではない。やむにやまれぬ家庭の事情と周囲の環境が、ヒビキの友人作りを阻んでいる。と、思っている。と思い込んでいる。そう、思いたい。そう、願望している。
「未来の私は、今の私を笑っているのかしら?」
残っていた麦茶を一気に煽り、扇風機の首振りを止めて、強さを一段回落とし、首を下に傾けてから畳の上に寝っ転がる。
だらしない格好のまま壁掛け時計に目をやると、針はすでに一時を回っていた。
朝食を摂ってから風がまだ涼しい内に進めておこうと思い立ち、机に向かってから早五時間近く。最初の勢いはどこへやら。十時のおやつの時間を目前にしてからパタリと風が止み、暑さと流れる汗に格闘しつつ机に向かうこと四時間ほど……机に開かれたノートは、雪が降り積もったのかと思えるぐらいに真っ白だった。正確には一ページ進んでいて二ページ目の最初で止まっているのだが、五時間を使った割には悲しいくらいに進んでいなかった。
右手で回していたペンを放り投げ、ヒビキは天井に向かって呟く。
「こんなに必死に勉強したところで、社会の役に立つのはほんの一部なのよ」
この言葉を言ったのは父親だったか、それともテレビに映る偉い教授だったか。忘却の彼方に消えてしまったけれど、大人になるにつれて段々とその言葉の意味を理解し始めた時は言い得て妙だと、少女は考えたことがある。
だからと言って、建前を並べて勉強するのが嫌でしたくもない。ことはなく、何かに集中して取り組む姿勢というのは養っていて損ではない、気はしている。それが単純に学生の場合は勉強というだけであり、勉強以外で自分が特に集中して取り組めるような趣味を持っていないのが実情だったりするだけ。
寂しいからといって自分の人生がつまらない訳ではなく、楽しくない訳ではなく、特記するようなこともない普通に普通で、ただ大人になっていく階段を日々昇っていく、これ以上にない普通の毎日。今以上の生活を求めている訳ではない。それこそテレビドラマみたいに、突然この窓からガラスを破って白馬に乗った王子様が現れるようなストーリーは、こちらから願い下げしたい。むしろガラスの修繕費を弁償しろよ。と思う口。ただ、弁償どころか家を建て直すくらいに出資してくれるのであれば、何枚でもガラスを破って構わない。
「ま、王子って愛称じゃなく呼ばれるなら、家の建て直しくらい余裕よね。うーん、だったら惚れるかも。やっぱり現実は現金主義が一番だわ」
でも何かが足りない気がする。
「ようするに……私は刺激が欲しいのかしら? だとしたら意外に貪欲ね」
生活水準を急激に変えてしまう何か、ではなく、今の自分の考え方を変える何かが欲しい。おそらく。具体的な刺激の内容は説明できないけれども。
「ま、いいわ。麦茶でも飲んで、気分を入れ替えましょう」
空になったグラスを持って立ち上がり、冷蔵庫の扉を開けた瞬間、ヒビキは絶望感に苛まれる。
「嘘でしょ…………?」
ついつい手に持っていたグラスを落としかけたが、何とか掴んでいた。
「なんで空の容器だけ冷蔵庫に仕舞ってるのよ私…………はぁ、仕方ないわね。侘しいけど氷だけ食べますか、なっ――! こ、氷も作ってない、の……?」
とてもじゃないが、やり切れない。そしてこのやり切れない気持ちはどこにやればいいのかも分からない。
氷冷庫の中には、何にもなりはしない霜だけがほんの気持ち分だけ積もっているだけで、見事なまでに綺麗だった。
「はあ、ちょっと面倒だけど、コンビニでお茶でも買ってこようかしらね。帰ってからさっさとシャワーでも浴びますか」
この状況下、グダグダ言ったところで変わらない。ならば行動あるのみ。
汗だくのシャツから水色のワンピースに着替えて、日焼け止めを忘れずに塗る。麦わら帽子でも被れば『夏少女』という感じだったが、あいにくヒビキの家には麦わら帽子はなく、あまり日よけは期待できないファッション帽子で妥協することにした。
玄関を開けて、遠くに見える入道雲。
他には負けじと、鳴き叫ぶセミたち。
共鳴しない、風。
「あっつ…………」
夏休みのはずなのに人っ子一人通らない道路を一人寂しく歩きながら、一kmほど離れたコンビニに向かう。自転車を使えばいいのだが、ヒビキはあまり自転車が好きではなかった。理由は単純で友人に「ヒビキはパンツの方が似合ってるよね」と言われたからである。天邪鬼な性格と言い換えてもいい。
パンツが似合っていると言われたなら、あえてスカートを穿く。スカートを穿けば、必然的に自転車のペダルを漕ぐのが手間になり歩きに変わる。歩きになれば性格が変わる。
……と、独自の理論を小学生から中学生までの九年間実施していたのだが、生まれ持った性格はほとんど変わることなく、段々と意固地になり、結局は固められ、足が地に埋まったように固形化されてしまったと自覚した頃には後には戻れず、パンツにも戻れず、結局は似合っていないと言われてもスカートが日常になり、そのうち、「別に一km程度なら歩いても苦じゃないわね」と悟るようになり、今に至る。
ヒビキの両親は仕事の都合上、全国を飛び回っているのだが、両親の話によると都会には一〇〇mの単位でコンビニが存在しているらしい。ここ最近ではヒビキの住んでいる地域も開発が進み、コンビニが段々と目立つようになってはきたが、それでもコンビニ間はほとんどkm単位で離れている。交通手段の主が車ならではの地方、ありきたりな光景である。
「最初聞いたときは、在り過ぎても困りものよね。なんて思ってたけど、こういう状況になると心底羨ましいわね。あー、そうね、王子様が現れたら家の隣にコンビニを作ってもらおうかしら」
額から滲み出る汗をハンカチで拭いながら、片道二〇分のコンビニに到着。外との温度差でお店に入った瞬間「寒い」と感じたが、それも一瞬のことだった。
汗がひくまで立ち読みをして、ペットボトルのお茶とボックスの氷、アイスクリームと夕飯後に食べるスイーツを購入してからコンビニを後にする。
「んっ、ん……やっぱり、アイスはミルク味が至高だわ。王道にして究極ね」
アイスクリームのお蔭で身体が冷えたのか、帰りはそこまで汗をかくことなく、次の曲がり角で自宅が見える。そんな時だった。
「――っ?」
夏とは思えないほどの冷たい風がヒビキの身体に突き刺さり、通り抜ける。
いつからいたのか。
どこからいたのか。
『それ』は突如としてヒビキの前に現れた。
「あんたが、今回の『運命者』?」
魅了されてしまうほど、美しい声だった。
言葉に似合わず、ソプラノ調の声で優しくも強い。
「これは……ヒビキ、で合ってるのか?」
問いかけはヒビキに向けられたものだったが、彼女の頭には一切入ってこなかった。
何もかもがおかしい『それ』に対してまともな返答、平常心を保てる人間のほうが少ないかもしれない。
キリッとつり上がった目尻に整った眉、口元、シャープで美しい曲線を描く輪郭。太ももまで伸びた混じり気のないゴールドの髪の毛。冷酷さ漂う、蒼碧の瞳――。
「人間じゃない……?」
直感的にヒビキはそう感じた。
造形は人間だ。誰がどう見ても。どこからどう見ても。しかし、三六〇度、形が整った、人形よりも物以上に物の『それ』は人間ではない。
果たして自分の目の前にいる『それ』は本当に存在するのか?
希薄ではなく皆無。
姿が見えているのに、瞬きの合間に見えなくなってしまいそう。
なのに……どうしてこうも自分は目の前の存在に対して恐怖心を抱いているのだろうか。
「…………」
自分でも気づかないうちに後ずさりをして、何もないところで躓いてヒビキは尻餅をついてしまった。
「何をそんなに怯えているのさ。悲しいじゃないか、そんな態度を取られると、さ? お楽しみはこれからなのに。これからもっともっとその顔を見ることになるのにさ?」
つり上がった目じりをさらにつり上げ、ヒビキの心臓を射抜くが如く睨みつける。
殺される――。
「お待ちください」
眼光から放たれた殺気からヒビキを守るように、黒装束の死神少女は現れた。
物語の主人公ともとれそうなタイミングとカッコいい登場の仕方。残念なことに白馬には乗っていなかったが、ご都合主義という流行の波には乗って現れた死神少女。
「ディエーチ、規約で明記されていないとはいえ、運命者をそのように脅すのはどうかと思いますよ?」
「脅したつもりはないさ。少なくとも、私は思ってない。そいつがどう思っているかは知らないけど、私は思ってないさ」
「何故、同じことを二回言ったのですか? 何か理由があるのですか?」
「あんたには冗談って通じないのかねぇ?」
「ジョーダンなら知っています。バカにしないでください」
「それだと人名だろ、バカ」
「ん? ジョーダン、ですよね?」
「話、先に進めて」
「はあ、では改めまして――」