始まり。
「お怪我はしてませんか、ヒビキ?」
それはとても幼く、中性的な感じの声だと、ヒビキと呼ばれた少女は思った。
そして、直感を肯定するように全身を包んでいる黒い装束衣装から差し出された腕は白く、細く、綺麗で、手のひらは自分のものとは比べようにならないほど小さかった。
差し出されたその小さな手を、自分の手が包み込むような形でとっても驚くほど軽々しく立ち上げられると、やはり黒装束を纏った目の前の子どもは、ヒビキよりも頭一つ分以上背が低い。一四〇センチあるか、ないか。身長も相まって、より性別が分かりにくい。
「……え、えぇ、大丈夫。ありがとう」
少し戸惑いながらお礼を言って、尻もちをした時に付いてしまった砂を軽く払う。
何故目の前にいる子は自分の名前を知っているのか、どうして自分の前に現れた『それ』に対して何の疑問も持っていないのか、そもそも……この季節に上から下まで隠れる黒い服に身を隠して暑くはないのか? 暦の上では立秋を過ぎたとはいうものの、秋の気配を微塵も感じない八月末に似合わないこの恰好。頭がおかしい子なのだろうか……。
色々この場の雰囲気に不似合な考えがヒビキの頭の片隅によぎったが、口に出ることはなかった。
「申し訳ありません、こちらの手違いで連絡が少々遅れてしまい、伝わっていなかったようですね」
「あ、いや……ん? はあ、どういう…………?」
「まだ彼女には説明をしていません。今日のところは引いてもらえないですか?」
言葉はヒビキに向けられたものではなかった。
黒装束の子は空を見上げ、改めてヒビキの前に現れた『それ』に向かって言葉を発していたのだ。
人の形をしているのに空中に浮かんでいる『それ』に向かって。
「べっつにぃ~。あたしだって規約があるんだからそいつに手を出そうなんて思ってないさ。ただ、挨拶だけしにきたのさ。これからよろしく、そして、さようなら……ってさ」
空中に浮かんでいる女はニヤリと口を歪ませ、感情のなさそうな冷徹な瞳でヒビキを睨む。
胸元からへそ下まで開かれた、黒装束の子とは対照的な真っ白いドレス。重力を無視して浮かぶ身体と胸。必要以上に強調されている胸。不必要なほど強調されている胸。
「まるで貴女が勝ち抜くような物言いですね。ナンバー・ディエーチ」
「そんな怖い顔するなよー…………たとえ事実でも、さ?」
ディエーチと呼ばれた女性の、挑発交じりの返答と見下すような視線。
「気に入りませんね」
「んー? 何がさ?」
「その上から見ているような視線が、ですよ」
「そりゃあ、向こうは空中に浮かんでいて、こっちは地に足を着けているのだから上から見ている視線になるのは当然だけど……この子は、バカなのかしら? ……あぁ、きっとバカなんだわ」そんなことを考えていたヒビキの考えが、後日しっかりと肯定されることになるのだが、それはまた別の話。
「う、うん、まあ、そうなんだけど、さ……」
黒装束の子に、予想以上に想定外の返答されたせいなのか、ディエーチと呼ばれた女性は戸惑った表情を浮かべた後、頭を掻いて、何度か何かを喋ろうと口を開くが言葉はなく、最後には諦めたようにため息を吐いてから、
「めんどくせーな、こいつ……」
と、ギリギリ聞こえるか聞こえないか程の声。ヒビキの耳に入った以上はおそらく聞こえるように発したのだろう。しかし、そんな言葉を理解していないのか、面倒だと思われた本人自体は自覚もなく、「どうしてこの人はこんなことを言っているのだろうか?」みたいな顔をしていた。
「規約もあるし、あたしも暇じゃないからさ。すぐに遭うことになるだろうけど、その時はよろしくってことでさ。じゃ、また――」
言いたいことは言った。とでも言うように女性は白昼夢のように霧散し、消える。ヒビキが見た者は何だったのか、本当に夢でも見ていたのか。そんな気すら無かったことのような気配の無さ。ただ静かに、いつも見慣れている空景色が映るだけだった。
「……………………」
無限に続く視界の奥には入道雲が育ち、いずれ来る夕立を呼応させるように遠雷が鳴り響く。
恐怖を促すような低い音が遠くで鳴り、ようやくヒビキは思い出したように目の前に現れた黒装束を纏った子どもに声をかけた。
「深い事情はよく分からないけど、結局、貴方、たち? は何者なの?」
相手の事情は分からない。が、少なくとも今の立ち位置を見れば否応なく自分は巻き込まれていることを自覚せざるを得ない。それも、例えようのないレベルでの厄介事。
「失礼しました。自己紹介がまだでしたね」
そう言ってようやくフードに手をかけ、顔をあらわにする。あらわにした所でようやく性別が判別できる。
「――っ!」
人に対して『息を呑む』なんて言葉は眉唾物だと思っていた。だが、実際に美しいものを目の前にすると、本当に人は息を呑んでしまうのだとヒビキは身をもって体感した瞬間だった。完成された言葉を発する西洋人形。とでもいうべきなのか、表現できる言葉が見つからない。
透き通るような細い銀色の髪の毛、吸い込まれるほど深い蒼の瞳、嫉妬してしまう羨ましい小さな顔。
「あな、たは……?」
喉が渇いて仕方ない。
心臓が高鳴って、周りの音が聞こえづらい。
どこからどう見ても、黒装束から現れた子は少女だった。
成長もしきっていない、自分よりも幼い童女。
なのに……どうしてこうも恐怖心を煽るのか。
「申し遅れました。ウチの名前はエルディニア・ダーカー・シン・グローリィ・スネイル。長いので気軽にエルダー、よろしければエルとお呼びください――」
黒装束をスカートに見立て、裾を持ち上げてお嬢様のように一礼し、一拍於いてからヒビキの理解を超越する言葉を目の前の童女は辛辣に言い放つ。
「――二週間後に死ぬ貴女の魂を狩りに来た、死神です」
初めまして、未一亜末と申します。
遅筆ではありますが、長く、大きな目で見ていただけると幸いです。
よろしくお願いします。