平成かぐや
飛び抜けて美人なクラスメイトのあの子は、「月に帰りたい」が口癖だった。
「お前、また数学の宿題やってこなかったんだ?」
なんて同級生が嗤うと、
「月には宿題なんてなかった。早く月に帰りたい」
と、真面目な顔をして言う。長い黒髪を目の上で切りそろえて、流れるようにしなやかに歩く様は、本当にお姫様みたいだった。近所に住むクラスメイトいわく、休日に着物を着ていることもあるらしい。ただし、十二単ではなく、赤い振袖だとか。彼女の身内がどう思っているか気になるところだが、かぐやとの共通点が「同じクラス」というだけの私に、知る術はない。都会の女子中学生が「月に帰りたい」などと始終言っているのは滑稽極まりない話だが、かぐやの双眸なら絵になっていて、だからこそ、嘲笑は陰で静かに続いている。彼女と話すときに覚える違和感は、誰もが覚えるはずなのに、禁則事項のようにその事柄を話題にしない。
同じ係になったのが、私にとっての運のつきだった。
「中原さん。先生に明日の持ち物訊いた?」
中原綾こと平成のかぐやは首を傾げ、
「まだ、訊いておらぬ。あなたが訊いてきてくれないか?」
と、桜色の唇を動かして問いかけてくる。彼女の中途半端に竹取物語をかじったかのような口調に、私は毎回心の中で「ここ、笑うとこ?」と自問する。
「じゃあ、私訊いてくるね」
と言って、話を打ち切る私。彼女と喋っていると恥ずかしい。自分が昔書いた日記を音読されているかのような気恥ずかしさだ。いつだか、姫とは程遠い派手な女子グループの人たちが、かぐやのことを「あざとい」と言っていた。彼女たちによると、かぐやは『なんちゃって不思議ちゃん』らしい。そのグループに所属する友達は「ホンモノだったら学校自体来ないでしょ。『月には学校なんてなかった』って言って。っつーのがうちらが出した答え」と言っている。五人がかりで出した根拠は、それなりに説得力があるものだ。『かぐや(笑)名言集』と書かれたノートに筆を走らす彼女たちの表情は、すごく生き生きとしている。でも、そのノートには最も大切な情報が欠落している。
「中原さんって、かぐや姫なの?」
どうしてそう、訊かないのだろうか。
もしかしたら訊いた人もいるのかもしれないけれど、友達に頼んで見せてもらったノートには、その質問をしたというデータが書かれていない。
現実的に考えて、かぐやが本当の月の住人だという可能性は絶対にない。でも、私は、かぐやが本当にかぐや姫だったらいいのにと思っていた。彼女の端正な顔立ちは、月を背景にしても見劣りしないだろう。そんな超展開があったら、私はかぐや姫のクラスメイトだったというだけで、これから出会う女の子たちとの気まずい沈黙を埋められるだろう。もう、去年目撃した派手な交通事故の話題を無理やり引っ張らないで済む。事故の話をつらつら話すのは、亡くなった人に悪いと思っていたから。かぐやの話で盛り上がるのは最初の数日だけかもしれないが、マニキュアがどの色ならばれないかと日々試行錯誤を重ねる癖に、教室で挨拶を返してもらえなかったことをいつまでも気にしたりする、浅はかなようで繊細な女子の心を掴むのは、始めが肝心だ。始めだけが、肝心だ。
今日もかぐやは「月に帰りたい」と言う。
「ねえ、中原さんはなんちゃってじゃなくて、マジで言ってたらどうする?」
と口にしただけで、食道の途中でつっかえていたものが、すとんと胃に落ちた気がした。かぐや、とは口にしたくなかった。皆が使っている呼称を使うのがはばかれたから。
「マジで、って、それこそヤバい人じゃん」
そう言って友達は笑った。
「今流行りの中二病でしょ。数年後には、過去の自分を思い出して足バタバタさせるんじゃない?」
思春期特有の空想が過ぎたものと見ている彼女たちと、本気で、心の底から自分がかぐや姫だと信じて疑わないのではないかと推測する私と、どちらの方が、かぐやにとって良いのだろうか。
かぐやが他人と話し込んでいる姿は見たことがない。私とも、必要なことを、必要なときに言うだけで、雑談といったものが彼女の辞書にはないように見受けられた。クラスメイトからからかわれるときも、「○○は月になかった。月に帰りたい」と繰り返すに留まっている。決まった問いしか返せない、低レベルなロボットのように、その語彙は少ない。かぐやは現に勉強があまり得意ではなかった。それでも毎回合格最低点を突破するしたたかな彼女のそれが、『あざとさ』だろうか。
多分、女子グループにかぐやの受け答えを耳打ちすれば、私は彼女たちに仲間として歓迎されるのだろう。でも、残念ながら私は、皆と同じレベルに堕ちることを嫌う、どこにでもいる女子だった。その気持ちを行動に表せる私は、少しだけマシという感じかもしれない、客観的に見たら。
「今日の夜、クラスメイトが私を月に帰してくれると言っていた。夜が待ち遠しい」
そう語るかぐやの生まれ故郷には、『クラスメイト』という言葉が存在しているのだろうか。
クラスメイトが誰を指しているのかは想像がついたし、かぐやは月に帰れず、笑い者にされるだけというのは目に見えていたが、夕食を食べている間も、彼女の「やっと私は月に帰れる」と言った嬉しそうな顔が頭から離れなかった。笑いものにする舞台は近くの公園なんかを選ぶんじゃないだろうか。かぐやの大体の家の場所は人づてに聞いていたので、使い古したサンダルを足につっかけて、夜の街へ飛び出した。
早足で彷徨うこと十分、歩道橋を渡ったこの辺にかぐやの家があると聞いていた。角が茶色く錆びている案内板の地図を見て、近くの公園へ足を運ぶ。自分が行ったところで何も変わらないし、何を変えたらいいかも分からないのに、足は止まらない。
やがて、木々で覆われた小さな公園を視界に捉えた。点滅する街灯に、蛾がたかっている。その不安定な白い光は、確かに、公園の中にいる人影を映し出していた。何かを持って、何度も振り下ろす影。影と一緒に聞こえてくるのは、何かが潰れる音。強風に煽られた木の葉がかすれる音よりも強く、断続的に。
「かぐや……」
呟いたところで、胃から湧き上がってきた嫌な味は消えなかった。クラスメイトの女子たちは、暴力を降るほど落ちぶれていないと思っていたのに。周りを見回すが、通行人はいない。車もほとんど通らない、昔だったら秘密基地を作りたくなるような場所にある、公園。そこで聞こえるのは、不気味な音だけ。自然と、足が小股になる。白い息を震わせながら、公園の入口から中を窺う。
そこには、細長いものを振りかざす振袖を着た人間の姿があった。
悲鳴をどうにか飲み込んで、逃げ出したくなる気持ちを押し殺しながら、振袖の足元に折り重なった人の数を数える。五人。ぴったりだ。この中に友達が含まれていることは確実なのに、私は真っ白な頭で立ちすくんだままだった。予想とは正反対の光景。振袖を着た人間が手を振り下ろす度に、液体が飛び散っている。公園の脇を通る車のヘッドライトが、その人間の顔を照らした。
「中原さん……」
血しぶきが飛び散り、怒りの色を覗かせたその横顔は、もうかぐや姫とは呼べなかった。中原綾が、クラスメイトの女の子たちをかんざしで刺していた。長い髪を振り乱して。何故、私は逃げずに「中原さん」と呼んだのか、自分でも分からない。中原綾は、私の方を見て、
「月に、帰れないのだ」
と、細い声で言った。
「この者たちが、私を月まで導いてくれると言ったのに。嘘だったんだ。全部、私を騙していたんだ。私は、月に帰りたいだけなのに」
もし、皆が中原綾の言葉を信じていたら、それは結果的に騙していることとは違うのだろうか。そんな些細な疑問は一瞬で消えるくらい、彼女の顔は怒りに満ちていた。
「かぐや姫は、かんざしで人を刺したりしない」
かすれた声で、言った。
「月には、他人を騙す人なんておらぬ。皆、仲がよかったんだ。きっと、仲がよかったんだ……」
「……警察と救急車に電話していい?」
「警察なんていらぬ。救急車なんていらぬ」
中原綾の手から、かんざしが落ちた。彼女に殺されるのを防ぐために、それを急いで踏みつける。
「ねえ。中原さんは、本当にかぐや姫なの?」
ずっと訊きたかったこと。中原綾は、私をまっすぐ見つめ、
「母上が、私はかぐや姫だと言ったんだ。私は月に帰らなきゃいけない。月で、母上が待っているんだ。私は、母上に会いたいだけなんだ」
その言葉に唇を噛み、一瞬だけ月に視線を移した。今から、私は、一番残酷なことを言わなければいけない。
「あなたのお母さんは、去年、交通事故で亡くなったんだよ」
中原綾の目から光が消えた。その表情は、今まで見た中原綾のどの表情よりも美しく、月が似合いそうな、かぐや姫らしい顔だった。