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神社の裏側にある山の麓に静かで澄み切った、神聖であるが故に名前が無いこの小さな湖へ、僕と彼女は足を運んでいた。
山道と湖の間に設置されている朱色の鳥居をくぐり、岸のところまで行くと朝早くに来たためか、視界を悪くしている白い霧が湖の上に浮かび上がっている。
でもそんなことは毎日のことであり、今更どうというものでは無かったはずなのに、その日は体が凍えるような感覚に陥るぐらい気味悪く、視界の中を泳いでいた。
彼女も同じような印象だったらしく、俺の隣で震える右手を背中で隠そうとし、目を大きく張り、金縛りのように体がピクリとも動かなかった。息もその間していなかったようにも思える程に。
でも数分経つと、諦観の思考がやっと芽生えたらしく頭の中から払うかのようにブンブンと首を振り、岸の近くにある木々の大群に姿を隠した。
その様子を先に解けていた俺が目で追い、見えなくなるとふっ、と短くため息を吐いた。
「やはり怖いんだろうな……」
僕だって怖い。明日の『祭』のことを考えると、心臓の奥の奥までもが血を流すことを忘れてしまうような、頭の中を真っ白に染め上げてしまうくらい。
なぜあの『祭』に参加する大人たちは平然とやってのけてしまうのだろうか。普段は彼女の方に汚い仕事をやらせ、厄介者のように扱い、そして――
「優! そろそろ目隠しつけて」
「あ、ああ……」
そう言われ、懐から一枚の細長い布を取り出し、目を隠すように巻きつける。そしてその場であぐらをかき、目をつぶる。
彼女が来たのだろう。草をかき分けながら湖の方へ足を動かす。
夏の時期でも冷たい水の中へ体を預けるように沈むところを想像する。
禊をするための服を着ている彼女が、淵で消えてゆくところを。
どうでもいいようなことばかり、今日は幻覚が飛び回ってゆく。
現実逃避としか思えないほど、仕事に集中が出来ない。
でももう今何もしなくても、これから起ころうとしていることは変わることなく、予定調和に進んでゆく。
視界が暗転しているおかげか、いらないことまでぽんぽんと浮かび上がってきた。
彼女との小さい頃の記憶やら、おじいさまから手ほどきを受けた剣の修行の辛さ、読んできた本の内容や書き初めで大きく太く書き上げた「生」という文字、などなど。
走馬灯のように見える情景。いや実際走馬灯なんだろう。そう考えると、夢みたいに流れてきた映像は雲散霧消していった。
暗闇の中にいると、ここが現実なのかそれとも逃げ出してたどり着いた幻なのか、境界線が曖昧に歪んでゆく。目が溶けていくような感覚。足が消えるような感覚。腕も無くなり、次第に体さえも泡になるような感覚。
それでも意識の核は消えてくれない。霞もしない。沈みもしない。
考えることはもうしようとは思えない。そこに留まり続ける、白い塊のようなものだと、自分を無意識に認識する。
さあここから見える景色はなんだろう。このざわつく感覚はなんだろう。何が拭えないんだろう。何が消えてくれないのだろう。なにが、なにが、なにが、なにが――
ポンポン、と肩を軽く叩かれ、我に返る。
「――う、優。起きてる?」
濡れていて、叩きながらも震えていることが分かるその手は、美咲だと体がまだぼんやりとする脳に刺激を与える。
さっきよりも震えが酷い。夏だとはいえ、ここの湖は冷たく、入るものを拒むような意思を持っているのかもしれない、と時々思うほどだ。
こうして呼んでいるということは、禊は終わったのだろう。目隠しをゆっくりと外し、光に慣れるまでまぶたを忙しなく動かし、徐々に視界に入るものを確認する。
確かに巫女装束に着替えた美咲だ。肩まで届いていた黒く綺麗に光っていた髪は、しっとりと濡れて左肩にまとめて乗せており、ところどころ拭ききれていないところが何箇所もある。
ぼんやりと彼女の姿を眺めていると、美咲が僕の肩を両手で掴んでは強く揺らす。
「おーきーてーるー?」
意識が明瞭になったとわかった時点で揺らすことをやめ、目の高さを座っている僕と同じにするようしゃがむ。
「……何か考え事でもしてた?」
意識がはっきりしているとはいえ、相変わらず言葉を発しようとする脳がまだ正常に機能していないのか、上手く声が出ない。
「ま、まあ」
やっと絞り上げることが出来ると「ふうん」と立ち上がり、湖の方へ体を向き、お辞儀をする。
それを見て僕も素早く立ち上がり、礼をしそれから僕らは鳥居をくぐり、村へと足を向けた。