序章*1
──人生なにが起こるかわからない。
そう痛感した時には、もう何もかもが手遅れだった。
それは突然だった。
目に入る眩しい光。
車のヘッドライトなのだと気づくには至らない一瞬の後、衝撃と共に私の身体が宙を舞う。
時間にすればそれこそ一瞬だったのだろう。
しかし、私にはとても長く感じた。
地面をタイヤの擦れる音や、物がぶつかる衝撃音。耳をつんざくような、幾多の悲鳴──その中でも際立って私の耳に残ったのは、直前まで隣を歩いていた私の唯一の友人、橘 美琴のこれまで聞いたことがない悲痛なものだった…。
ああ、私は死ぬのか…と他人事のように思っていた。
その後、僅かに確認できたのは私の元に駆けてくる美琴。
直ぐに私の側にへたりこみ、彼女は普段からは想像できない程に動揺しているのがありありとわかる様な、とても必死な顔をして何かを叫んでいた。しかし、今の私にはその声が酷い耳鳴りに邪魔をされて聞こえなかった。
その口が何を言っているのか知りたくて、私は薄れゆく意識を保ちながらもじっと口元を見つめる。
そして、その動きを直ぐに解読出来たのは、何度となく呼ばれた私の名だったからだろうか。
こんなときにさえ、やっぱり美琴から名前を呼ばれることが嬉しいと思った。けれども同時に、その声を聞けないのがとても残念だとも感じた。
血相を変えて呼び続ける美琴が堪らなく愛しくて。
私は、事故のせいで全身がまともに動かせなくなってしまった中でも、かろうじて動かせた左手を彼女に伸ばした。
少しでもいいから、彼女の温もりを感じたかった。
それに気づいた美琴が素早くその手を両手で包むように握ってくれた。
それがまた堪らなく嬉しかった。
多分に、今の私は自分で言うのもなんだが、かなりの酷い有り様だとおもうのだが、そんな私を前にして彼女は何の躊躇いも見せない。
本当に、嬉しかった。
もう、これが最期の機会だと冷静な私の心が伝えているから。
出来うる限りの──今の私には最大級のお返しとして、その手を握り返し微笑んで見せた。
そして、心からの『ありがとう』は、声には出せなかったけれど動く唇にのせる。それを見た彼女は、少し悲しげにだけれど、いつものように笑顔を見せてくれた。
私は、その笑顔に何度助けられたのだろうか…。
本当に彼女には感謝してもしきれないくらい、良くしてくれたから。
欲を言ってしまえば、もう少し一緒にいたかったけれども。そんな我が儘すぎる願いが、叶うはずもないと知っている。
これまで、一緒にいれたことがとても嬉しいから。私はどんどん欲深くなる自分自身に、そろそろ蓋をしようと思う。
それからは、心地の良い睡魔が私を襲ったのでもう無理だなって半ば諦めの気持ちだった。
朦朧とする意識の中でしみじみ思う。
最期にこんな幸せな気持ちで逝けるなんて本当に私は果報者になったんだなって。
ちらりと側を見上げたら、彼女はとめどなく涙を流していた。
けれど、私が穏やかな表情で微笑んでいたので、彼女もそれを分かってくれたのかもしれない。
最後は、よく彼女から聞いた言葉がその唇から発せられていた。
──『アンタって、本当にバカねっ』
泣き笑いのような、いつもの表情とも違う複雑そうな笑みに、私はついいつも通りにごめんなさい、と返してしまいそうになる。
最期くらいは、微笑みで。
なけなしの私のプライドは、彼女に幸せだったと告げること。
そして、今この瞬間も幸せなのだと伝えたくて。
こんな私に、友情という感情を教えてくれた唯一人の人だから。
もう目の前が真っ暗で何も見えなくなってしまっていた。
それでも、最期まで感じた暖かな左手の温もりはずっと残っていた。
けれど、たったそれだけ…。
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あれから、どのくらいの時を暗い空間で過ごしたのか、知る術はない。
けれど、それから急に意識が浮上したのは、あのとっても懐かしい温もりに引っ張られたからだ。
気がつけば、蒼と碧の二対の瞳が私を心配そうに見つめていた。
何か必死にこちらに話しているのだが、全身の激痛と酷い頭痛に、私は答えられる気力が欠片もなかった。
それどころか、目を開くことも持続できそうにない。
──この人たちは、誰だろう。
──私は、あれからどうしてしまったのだろうか。
疑問ばかりが、頭の中で飛び交うばかりで。
しかし答えなどでるわけもなく。
私は再び沈みゆく意識と共に、抗うことなく思考をも手放した。
考えるのは後で、とりあえずこの睡魔を何とかしよう。
思い立ったが吉日とばかりに、私は瞬く間に再び闇の世界へと旅だったのだった。
──自分の身に、何が起こったのか把握しなかった自分に苛立ちを覚えるのは、それから数年。漸く目覚めた“私”だった…。
序章*1:了