#7
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「こんの!!大馬鹿やろお!!」
た…頼む、二日酔いなんだ。できれば大きな声を耳元で出すのは…。
「なあにが、二日酔いだ!おれたちが行かなきゃ、てめえはあのまま!!」
ビール三本かっくらって、昼まで寝てただけだろ?冬馬はその言葉を必死に飲み込んだ。
冬馬は最初、自分がどこにいるかちっともわからなかった。真っ白な天井とカーテン、微妙なざわめきの人の声。それからのぞき込む心配げな新之介の顔と、この世のものとも思えないほど怒りまくった愁の顔。
そう、そこは僕らが二週に一度必ず顔を出す京成総合病院心療内科の処置室だった。
僕ら三人をつなぐミッシングリング、主治医の園山は穏やかににっこりと微笑んだ。
「白瀬くん、よく薬を飲まずに我慢しましたね。検査の数値にもはっきり出ていますよ。パキシルを一錠も口にしなかったんですって?」
にこにこ顔の主治医と対照的に、ばつの悪そうな愁の顔が横を向く。
「あれから電話にも出ねえし、メールもブッチだし。てめえのことだからと心配して園山先生に無理いって住所聞いて」
「私には守秘義務があるからと何度も断ったんですけどね、白瀬くんを死なせていいのかとそれはそれはこのお二人が。いいお友達を持って君は幸せですね」
冬馬はがばっと起き上がった。急に動いたものだから頭ががんがんする。でも、そんな。あの時間に僕の部屋のドアホンが鳴ったのは、夢じゃなかったのか。新之介もあまり寝ていないのだろう、少し顔色が青白い。それもみんな僕のせいか。
「床にはクスリが散らかり放題だし、ビールの缶は転がってるし、おれたちがどれだけ……」
それだけ言うと、愁は黙った。口元を押さえ何も言葉にならない。
冬馬だけじゃない。おのおのの記憶の中にある、鮮明な記憶とぼやけた景色。
「覚えてないんですか、ゆうべ僕に送ったメールを」
それまで口を閉ざしていた新之介がそっとつぶやく。えっ?冬馬は目を見開いて彼を見つめる。
「mortalidad、とだけ」
寂しそうに彼が冬馬を見やる。ああそうだ、凝り性のくせに飽きっぽい冬馬が、習ったばかりのスペイン語で昔書いたメールの一節。新は覚えててくれたのか。
mortalidad……死すべき運命。我ながら趣味の悪い単語ばかり覚えやがって。
「おれはおまえが怖いんだよ。何を言っていいかわからねえ。おれの一言が引き金になるのか、それとも背中を押すのか。じゃあおれは何も言わずに黙っていればいいのか」
いつも強気の愁が、頭を抱えて椅子に座り込む。
「ゴメン。いや、本当に申し訳なかった。すみません迷惑かけて。こんなこと二度としない。心配かけるような言動もしないし行動もしない。約束する。だから」
「約束できるんなら、心療内科なんかに通ってやしねえだろ?できない約束ならしない方がいい。無理すんな」
愁らしくもない痛々しい笑顔。新之介は静かに言った。
「冬馬さんが無事で何よりでした。僕らが駆けつけて結果的によかったのかどうかわかりませんが、どうか一人ではないことを、忘れないでくださいね」
冬馬はその言葉にありがとうを言うことができなかった。言えば涙がこぼれてしまいそうだったから。いくつも年下の彼らに助けられてばかりで、僕は何も返せない。
三人が、世にも珍しくまるで青春ドラマのように温かい友情をそっと確かめ合っているところへ、園山はにこにこと口を挟んだ。
「それにしても白瀬さん。まだだいぶパキシルは残っていらっしゃるようですねえ。来週の診察日には処方箋から消しときましょうか?」
冬馬の顔が引きつった。
「ちょ、ちょっと待ってください。もう一錠だって残ってません、本当です。クスリがなかったら僕は日常生活送れません!センセー!!ちゃんとクスリください!!」
冬馬は半分涙目だった。本当は眠れないときのための睡眠導入剤も、いざというときの抗不安薬も山ほど残してはあるけれど、そんなこと言ったら本気でストックがなくなっちまう。
「いやあ医療費もかさむことですし、少しでも薬代を節約した方が何かといいですよ」
本気かからかっているのか、園山は破顔一笑した。看護師達も笑い合っている。冬馬がオーバードーズ、大量服薬の常習犯であることはここでは誰もが知っていることだからだ。
引きつる冬馬に、愁がさっと手を差し出した。いぶかしがる冬馬に新之介は紙切れを見せつける。
タクシーの領収書。げっ!夜遅くは割増料金か?
「もちろん払っていただけるでしょうね」
にっこりと新は微笑んだ。これだけで勘弁してやる、ありがたいと思え。愁はぶつくさ言い始める。
「あ、あの零細著述業者にこれを請求する気?友達なのに」
「僕ら無職に払わせるよりは、よほどよいと思いますが」
さっきまでの心配顔はどこへやら、新之介は涼しい顔で言い切った。ちっきしょう、そういうヤツらだった。すっかり忘れてたよ。
あわてて財布をのぞき込むが、千円札が数枚と小銭だけ。今夜の治療費は払えるんだろうか。どこかにもらったばかりの原稿料を突っ込んであったと思ったんだけど。
ちょうどカバンの片隅に五千円札がのぞいていた。冬馬が取り出すより先に新之介がさっと引き抜き、まあいいでしょう、と自分のブルガリにしまい込んだ。おまえの方がどう見ても金持ちだろうが!!
すっかり顔なじみになってしまった事務長が請求書を持ってやってきたときは、どう逃げだそうか冬馬は真剣に考え始めていた。
(つづく)
北川圭 Copyright© 2009-2011 keikitagawa All Rights Reserved