#31
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病院前に常駐してるタクシーに飛び乗る。愁は自分の携帯から何度も甲斐さんに連絡を取ろうとしてはやり直す動作を繰り返していた。ためらってるわけじゃない。焦りが冷静な行動をとれずにさせてるんだ。押し間違えてはクリアボタン。いつもの余裕はどこ行ったんだよ。
愁…。
新之介がいなくなったのは麻美子の家の近く、そこまではわかってるはずだ。だからこうして僕らも彼女の住んでいたあの家に向かっている。なのに。
心療内科に通う病人の誰もが、思い詰めた顔でうつむいているとは限らない。むしろ逆だろう。いつだって待合室はにこやかで穏やかで、みな静かに座って待ってる。内科のおばちゃんたちの方がよほど迷惑だ。あっちが痛いだのこっちが悪いだのと病人アピール満載で。
そう、言えないからこそ僕らはクスリを飲み続ける。治療はいつまでも終わらない。神経をすり減らしながらも日常を何ごともなく送ろうと努力して。
だからこそ、こんなに焦りまくる愁なんて…見たことがない。見たくないのかもしれない。
それはきっと、三人とも同じ。奇跡的なバランスを保っていた均衡は、でも破られた。
前に進むために。今では冬馬もそう信じてる。
現実を見ること、辛さから目を背けず直視すること、辛いと言葉にすること。
「身近な誰かにそれが言えれば、もうここに通う必要もなくなりますよね」
主治医の園山先生がいつだか呟いたのは、おそらく本音。暗い顔ができるのなら僕らは回復に近づいている。
その一歩を踏み出すのに、どれだけ心を痛めようとも。
車内は無言で、冬馬はそんなことを考えながら新之介を案じていた。
いつも穏やかでどこが悪いのかさえわからないほどの彼のことを。そして、本来の新が抱えているものを知った今、それでも前を向いて欲しいと願っていることを伝えたいと。
不意に今度は冬馬の携帯が鳴った。着信音を変えてある。沙織からだ。
「もしもし!ねえ沙織センセ、あの!」
愁が睨む。知らせるなと言いたいのだろう。でもそんなことに構ってはいられなかった。新が今どんな状態でいるかもわからないのなら、事情を知る人手は多い方がいい。
けれど、こちらが説明しようとする言葉を沙織はさえぎった。冬馬も唇をかむ。電話口からは叫ぶような声。
「麻美子ちゃんがいないの!!行き先に心当たりない!?っていうか思い当たる理由ってある?」
とっさに冬馬は携帯をスピーカーモードに切り替えた。沙織の言葉を聞いた愁が目を見開く。
思い当たる理由なんてありまくる。愁たちは彼女の実父に接触したんだ。それはたぶん、麻美子へも連絡が行ったのだろう。
その内容は…どっちに転んだのか想像するのも怖かった。
愁が頭を抱える。いつものように威張りくさっていてくれよ。僕を雪駄でぶん殴ってはへらへらと笑っていてよ。何があったって動じない愁でいてよ!頼むから!!
僕は彼の何を見ていたんだろう。
乗り込んだとき、急いでくれと運転手には伝えていた。病人を捜しているからって。都内の複雑な道をそれでも裏道を駆使してがんばってくれてた、人の良さそうな中年ドライバーは、横道から飛び出そうとした自転車をよけるように…急にブレーキを踏み込んだ。
運転する誰もが遭遇する、ごく当たり前の動作。危険をよけるなんて無意識にやることだから彼もまた普通にアクセルを踏み直した。
たったそれだけなのに。
携帯の小さなスピーカーから情報を聞き出そうと顔を寄せていた愁は、口元を押さえて身体を折り曲げるように身を沈めた。
「愁!?愁、どうしたの!?」
頭を抱え込み大柄な身を震わせている。我ながら酷いとは思ったけれど、無理やり起き上がらせる。今はとにかく緊急事態で!
あの愁が…真っ青な顔で目を開けようともしない。短い髪に差し込まれた指が白くなるほど力を込めて頭を押さえている。
「愁、まさか事故のこと…」
冬馬の言葉でさらに怯えたように、愁の震えが酷くなる。
フラッシュバック。
あまりにも酷いショックは、言葉じゃなくて脳の反応として記憶してる。冬馬にもいくらでも経験はあって、でも愁にだって新にだって当然それはあったはずで。だから僕らは治療を受けているんだから。
そんな当たり前のことすら、冬馬は今まで思いもしなかった。
フェリスの魔法はすべてを覆い隠してた。辛い体験と過去は見えないものとしてしまい込まれてた。誰も口にしなかったから。開けて見せようとも、こじ開けようともしなかったから。
それが…彼らの信じる優しさだと思いこんでいたから。
今、いやでも現実がなだれ込んでくる。新が自分の足で働き出そうとしたときから。冬馬が彼らを知ろうとしたときから。そして麻美子もまた、実の父親と突然向き合わされて。
押さえこんでいた愁の腕を、冬馬はわざとがつっと掴んだ。それを下に降ろして真っ直ぐに彼を睨む。
「今しなきゃならないことは!…新を捜すことだろ?麻美ちゃんもいないのなら二人一緒にいるのかもしれない。急にあいつがいなくなったのは、想像でしかないけど、麻美ちゃんを見つけて心配したからかもしれない。全部全部、今は仮定の話しかできないけど!それでもここで震えてても何にも解決しないよ!?」
酷いことを言ってるのは冬馬にも自覚してた。気の持ちようでフラバが抑えられるんなら誰だってしてる。無茶なんだ。でも無茶でもなんでも、ここで愁に心を閉じられたら新はどうなる!?
冬馬に隠されてた彼の強さ。それは時にひどく残酷で冷たい。本当のことはこうやって心をえぐるんだ。そんなこと、冬馬にとってはしたいはずもないことで、だからこそ胸の奥深くにしまい込んでいたのに。
動揺を隠せない愁が、それでも歯を食いしばる。
「落ち着いて捜そうよ。案外、二人でのんびりと話し込んでるだけかもしれないし。ただ懐かしい景色を麻美ちゃんが見たくて、それに新が付き合わされてるだけかもしれないんだから」
ありもしない最悪の想像と、こうしていればという取り返しのつかない後悔は、今の僕らには何の足しにもならない。今だけじゃない、いつだってそれは何の役にも立たないんだ。
現実は現実で、それは良いも悪いも何もなくて、ただそれを黙って受け入れるしかない。受け入れた上で、僕らは今できることをするしかない。
それが、本当の意味で前に進むということ。どんなに痛くても、しんどくても、辛くても。
「…バカが…エラそうに説教…するな…冬バカ」
押し出すように呟く愁に、冬馬はほっとした顔で微笑んだ。バカって言われて安心するなんて、新の言うとおり僕はどえむなのかもなあ。
あたりはもう薄暮れていた。麻美子に初めて会ったあの日のように。
同じように砂利道に降ろしてもらって、冬馬は駆け出した。細かい石に足を取られてもつれる。激しい運動は厳禁だと言われてるのに。筋肉中の乳酸が高まる、きちんとした呼吸ができずに酸素がうまく入らない、そういう状態は発作を誘発するから。何度聞かされたことだろう。でも構ってなんかいられない。
愁もまた、重たくてたまらないだろう身を引きずるように後を追う。気の持ちようなんかじゃないんだ。行動までもが制限される。コントロールも利かなくなる。包帯もギプスもしてないけど、外から見えないだけで、僕らは心だけじゃなくて身体に症状が出まくるんだ。
冬馬自身が甲斐さんと連絡を取りあって合流する。手分けして捜しますかという甲斐さんの当然の提案に…冬馬は首を横に振った。
「たぶんだけど、いつかのビルにまず行ってみましょう。いるんじゃないかなって」
このあたりで一人になれるとこなんか、本当言うと限られてる。川べりは目立つし、都内なのに低い建物しかないし、公園なんかもろくに整備されてない。
同じ東京だってのに、忘れ去られたみたいに残された昭和の街並み。それは懐かしいんじゃなくて、なぜか現実にそこへと住む人たちの心をすさませる。
夕暮れの薄明かりの中で、冬馬はビルまで走った。少しばかり息を切らせながら見上げる。どうかここにいて。ああでも、屋上なんかにいないで。矛盾する願いを抱えながら。
けれど意味もなく確信していた情景は、当然のようにそこにあった。
屋上の縁に見える影は、ひだのある制服のスカートとそこから伸びる脚。一度ぎゅっと目をつぶってから息を整えると、意を決して冬馬は口を開いた。
「いるんだろ?麻美子ちゃん。そこにさ」
彼女は忘れてはいなかったみたいだ。あの日と同じようにかすかに揺れる脚が答え。
「一人なの?誰かそこにいるの?ああもうそうじゃくて、新之介もいるんだろ!?」
耐えきれずに矢継ぎ早に言葉を並べる冬馬に、ためらうように脚が止まる。
「…ごめん。どう答えていいか、これじゃわかんないよね。じゃあ一つだけ」
追いついた愁も甲斐さんも何も言わない。言えない。冬馬は首が痛くなるほど顔を上げて麻美子の姿を見つめていた。
「一つだけ、教えてよ。新はいるの?」
止まっていた脚が、ほんのわずか揺らされる。
その瞬間。
冬馬は外階段に飛びついていた。そのまま駆け上がり始める。さっきの砂利道とは比べものにならないほどの速さで。
「僕が行くまで!!お願いだからじっとしてて!!ねえ!!麻美ちゃん頼む!!」
麻美子への呼びかけは暗がりを増すビル辺り一面に響き渡った。激しい運動は厳禁、だから何だ!冬馬はひたすら階段を駆け続けた。
(つづく)
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