#30
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「ふあああああ、つっかれたよ」
冬馬がいつものフェリスへと入っていくと、愁は珍しくスーツ姿で足を投げ出していた。
雪駄じゃないんだ、とうれしそうに言ってやると、革靴の方がどう見ても痛そうだぜと薄笑いしやがった。何もしてないうちから殴られたくねえし。
「浅倉麻美子んとこに行ってきた」
くわえタバコでそう言う愁に、なぜだか顔をほてらせながら冬馬は思わず「沙織センセのとこ?」と訊き返してしまった。
「はい?何でまた真鍋の面を見なきゃって…ああ、違うよ。浅倉の元・養家んとこへな。縁すぱっと切ってきてやったぜ」
あっけなく言い放つ愁の顔をまじまじと見つめる。あの強欲そうな夫婦が大事な金づるを簡単にあきらめるもんか。それに成人するまでは親権者が必要なはずだろ?麻美子ちゃんにも。
「彼女の実父にな、本当なら親権を認めさせたかったけどそれは無理だっつうんでとりあえず後見人くらいは担えと。仮にも親なら少しでも親らしいところを見せろとね」
穏やかさを装ってはいるけれど、愁に見え隠れする微かな怒り。気づかない冬馬じゃなかった。でもあえてその先を問う。
「それも…安達コーポレーションの力?」
愁の顔がゆがむ。いつもならもちろん、雪駄殴打どつきのスリーコンボが飛んでくるはずだけれど、いつまで経っても代わりの革靴は脱がれることはなかった。
「学費は直接学園へ渡っていたけれど、生活費養育費は言わずもがな。その事実を父親ってヤツへ突きつけてやったよ。まあ…会社の名前も出したけどな」
苦い口調はかみつぶしたタバコのせいか。
「気づいてなかったのかな、あの生活のこと」
気づかないはずがねえ。金持ちのお父様にとっちゃ、若気の至りの後始末がはした金で済むならそれに越したことはないってか。
あの愁の声に力がない。それは麻美子の境遇への同情なのか、会社つながりの後味の悪さなのか。東峰に入れたがったって時点で、麻美子の父親が安達とも関係が深いのだろうと想像はついていた。いくら鈍感な…いや配慮深い冬馬でさえも。
「これから彼女は…」
「相談しないとな、いろいろと。ちったあ忙しくなるなあ」
そう言うともう一度、愁は伸びをした。
「そこまで麻美子ちゃんへの肩入れをしてるのはどうしてさ」
「ずいぶん突っ込んで訊くじゃん、珍しく。淡泊で知られた白瀬冬馬としては」
いつものように意地悪く口元を上げる。冬馬は口をとがらせ、全くもって珍しく言い返した。
「麻美子ちゃんの情報を入手したのは僕だ。まさかそれも、裏から手を回しただなんて言うなよ!?」
それが事実だとしたら、本当の意味でのただの狂言回しじゃないか。おびえを隠して冬馬は強がってみた。
「それはないって」
愁は素直にその言葉を否定した。彼女を知ったのも捜そうとしたのも見つけたのも冬馬だし、安達は何も関係ない、と。
「俺たちはただ単純にEXエージェンシーを追っていた。小遣い稼ぎにどうか、っつわれてね」
「小遣い稼ぎって…。新もそうだけど働ける状態じゃないんだろ?愁だって」
きつい抗鬱剤を飲みながらの新之介の介助。罪の意識にさいなまれながら彼と一日中向き合う。それがどんな心境なのか、冬馬でも想像がつかない。
愁はタバコをもみ消すと、あごに手をやって真っ直ぐに冬馬を見た。
「…真鍋に何を吹き込まれたかは知らねえけど」
「沙織先生は関係ないよ!」
しばらく二人して黙り込む。戯れ言だけが飛び交うはずだったフェリス。おめでたい三人のめでたい場所でしかなかった憩いの場が、現実の陰を引き込む。
「新之介は自立したがってた。いつまでも安達の家から養われているんじゃなくて、手帳を取ってでも工場や作業所までも視野に入れて就職先を探してた」
手帳とは精神障害者認定を受けてということだ。工場勤務を見下すということではなく、体力もなさげで線の細い新がラインで働くなんて想像がつかない。
でも、でもそれは。
「愁がやることなの?新がどんなにいやがっても、それって新の家族が心配しなきゃいけないことだよね?愁は安達の会社を辞めてるんでしょ?どうしてそんな、いつまでも責任感じることなんか…」
「知ったような口、利くんじゃねえよ」
すごい形相で睨まれると思って冬馬は身構えた。でも愁は視線を落としたまま。
「オーバードーズ常習犯で病室と外の社会を出たり入ったり。それでもこの冬バカでさえ働いている。パニック障害だって言ってるくせに初対面の人間と会いまくって車にも電車にも乗って。いっこうに良くならないはずのバカは、それでも生きるのに必死に働いている。俺たちがそれ見て、焦らないとでも思ったかバカ」
ぼ、ぼ、僕のせいにするなよ!!それにバカって何回言いやがったんだ?何回!!
それに、冬馬が働いているのは仕方なくだ。実家には帰れない。生きるしかない。あきらめたくはなるけれど、死にたいからってクスリを飲み過ぎるわけじゃない。
疲れて何もかも投げ出したくなるとき、何も考えずに昏々と眠りたい。いいことであるはずなんかないけれど、もう二度と無茶な飲み方はしないと誓ってはいるけれど。
「僕が言いたいのは、それを愁がやる必要は…」
「俺が元社員で新が経営者の子息だからとかじゃねえからな、言っとくけど」
そんな形だけにとらわれる彼らじゃない。それはわかっているつもりだった、冬馬にも。愁は続ける。
「下っ端の俺から見ても、新は上に立つべき人間だった。生まれや育ちは関係ねえ。能力の差だ。まだ若くて学生だったヤツの言葉は、もうすでに人を動かしていた。遙か彼方の先を読み、目先の自社の利益だけじゃなく、業界全体までをも見据えていた。あの若さで。俺はあいつの下につくようになってから、自惚れもプライドもなくなった気がした。実力をつけたいと本気で思った」
愁……。笑顔の片鱗もなく、苦しげに呟き続ける。ここフェリスにもっとも似つかわしくない話題。触れなければ良かったのか。そうすれば、能天気な日々は続いたのか。
「それが」
辛そうに言葉を切る。もういいよ、愁。他人の心に踏み込めば、こうやって傷をつけてゆく。表面だけをさらっとなでるだけの関係性だけあれば十分だ。耳をふさいでしまいたい。それでも、冬馬は何も口を挟めずにいた。聞き出そうとしたのは僕だ。
ほんのかすり傷で、でも頭を打ったから念のために入院して検査を。そう聞かされて安心していたのに、次に目にした新之介は全くの別人みたいだった、と。
とうとう愁はごつい両手で自分の顔を覆った。
全然知らない人への取材だったら良かったのに。酷い言いぐさではあるけれど冬馬は心底思った。辛さも悲しみも冷静に記事に書く。うまくすれば必要な援助がもらえるかもしれない。その手助けができるかもしれない。良心の呵責を騙す言葉を必死に思い浮かべながらマスコミ媒体に載せられたのに。
「身近な誰の顔もわからずに…呆然と座っていたんだ。あの新之介が。視線を合わせるまでに数週間、言葉を話せるようになるまで何ヶ月かかったか」
辛さなんかわからないくらい、いつだって平然と笑っているのが高崎愁で、僕はいつだってヤツとバカ話ばっかりして。
大部屋にいた頃からそうだった。点滴が外せない僕に向かって愁が「年上!?ありえねー」と声を掛けてきたんだ。新は文庫本を片手に穏やかに微笑んでいて。
「今のあいつは、報告書一つ読み切ることもできない。形ばっかの理事長でさえもとても無理だ」
じゃああの本は…。革製のブックカバーは使い込まれてて。
「ずっと新は手放そうとはしない。もう二度と理解できるわけもないハイデッガー。あの夜、後部座席で読んでた。俺の気づくのがあと一息早ければ、もっと先に声を掛けていれば、そもそも事故なんて起こさ…」
もうやめてよ!!耐えきれず叫んだ。冬馬にとって、一番知りたくないのは他人の陰。自分の陰を悟られるのがイヤなのと同じように。無力な自分を思い知らされるから。
「俺たちが先に進むために、働こうと思ったんだよ。あいつは…新はな。安達の庇護を離れてどこまでやれるか。落ち着く時間だって増えてきた。前のような判断力も思考力も全く失ったわけじゃない。集中するのが難しいだけだ。冬バカができるくらいなら俺たちだってなってさ」
ようやく、何かを吹っ切ったかのように愁はいつものにやけた顔を上げた。まあ比べるレヴェルが冬バカっつう最低ラインってのが気にはくわねえけどよ。
憎まれ口を聞かされて、でも当の冬馬は真顔だった。空気読め、バカ。愁の戯れ言をわざと無視する。
「俺たちに仕事を持ち込んだのは、よりによって安達の調査部だった。うっかり裏を取らなかった俺のミスだよ。気づくと取り込まれてた。今回の件だけでもきっちりと終わらせなきゃならないだろ」
それで麻美子の実父まで捜し出して、か。これからどうするのかと訊けば、愁からはため息だけが返ってきた。
「…一から就活、だな。嘱託とはいえ安達の社員として勤めるのはまっぴらだし」
「ねえ」
冬馬が真剣に身を乗り出す。あの愁が目をそらせずに押し黙る。
「社員じゃなかったら、新は納得するかな」
どういう意味だよ。愁の目が細くなる。だーかーらー、エラそうな冬馬の態度にたまりかねたように、革靴に手を掛ける。
「対等な立場でさ、安達とやりあ」
そこまで言いかけた冬馬を無視して、愁はテーブル越しに手を伸ばした。殴られるのかと思ったら、そうではなく…。
聴こえてきたのはクラシックの優雅なメロディー、新之介の着信だ。
「えっ?そう言やあ新は?」
「うるせー、黙ってろ!」
甲斐さんと、確認することがあるからともう一回浅倉んとこへ。
そう言いながらあわてて愁が彼の携帯を手に取る。
そもそもどうして新の携帯電話がここに?疑問符で頭をいっぱいにした冬馬をよそに、深刻そうな顔つきで愁はボタンを押した。
「……新?」
「!?新之介様ではないのですか!?」
近くの冬馬にさえ聞こえてくる、甲斐さんのあわてた声。
「あいつ、こんなとこに携帯を忘れて。何があったんです?」
愁が言葉をなくす。冬馬へと視線を向けると首をかすかに横に振る。
「新が…いなくなった」
「えっ!?」
二人は同時に立ち上がった。
(つづく)
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