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#28

#28


「な、なんか、身体中痛いんだけど」


「そりゃあランエボはマニュアル車だから、ウォークスルーできるような構造じゃないし」


刺さってたのかよ、あのごっついシフトレバーが。おぼろげに憶えている気がした柔らかな膝枕は、結局は一瞬だったって訳?どーせ、とふてくされた顔で冬馬は腰のあたりを自分でなでる。あざになってるかも。


薬のせいなのか症状のせいなのか、けだるい眠気はとれてはいない。重い身体を引きずるように自分の部屋へと帰ってきた。一緒に沙織が付き添ってくれるのは…病人を放ってはおけないだろうという同情。


たぶん。



「綺麗にしてるじゃない、男性の一人暮らしにしては」


周囲を見回して沙織が明るく声を掛ける。何もないからなあ、金ないし。嫌みではなく本心から冬馬は呟く。暮らしていくのにやっと。今はそれでいいと思ってる。


「何か飲む?沙織センセ。っつっても何もないから下の自販機で」


「いいから寝なさいよ。あれだけの発作、身体きついでしょうに」


常備のミネラルウォーターがあるでしょ、あれちょうだい。いくらわたくしでも、車だからさすがに飲むわけにはいかないし。

さっきまでの会話がなかったことのように、いつもの沙織の声が響く。その言葉に一瞬動きを止めた冬馬は、冷蔵庫をそっと開けた。


かたん。


彼女の目の前に、しまい込んであったバドワイザーの缶を置く。どこに行ったって今じゃなかなか売ってない。ビールに賞味期限なんてあったっけ。まあいいや、飲むのは僕じゃないだろうから。

最近ほとんど見かけない赤と白の独特のパッケージをしばらく見つめると、沙織は冬馬を見上げた。ソファー代わりのベッドに腰掛けながら。


「聞こえなかった?一応仕事が仕事だし、アルコール飲んだら車に乗れないでしょう?」


「じゃあ乗らなきゃいい。ここから帰らなきゃいい」


真顔の冬馬に、あの沙織が少しばかり目を見開いて黙る。寂しそうにそれを見ていた彼が苦く笑う。


「ねえ、沙織センセ。そこはさ、きっちり突っ込んでくれなきゃ。そんなセリフ百年早いわボケとか、顔洗って出直して来いとか。愁なら確実に雪駄でぶん殴られてるとこだ。まあ、やつ相手には何があっても言わないセリフだろうけど」


「真面目に言われた言葉は真面目に受け止めたいわ。あなたのように」


そう言いながらも、沙織は缶を開けるでもなく手に取り、横文字の注意書きを読んでいるみたいに顔を寄せていた。


飲むのか飲まないのか。冬馬にとっては確率が限りなくゼロに近い…賭け。恋愛感情とか対抗心とかそんなもんじゃなくて、ただ、膝枕をしてもらいそびれた悔しさからだけかもしれない。


沙織は迷っている。彼女を戸惑わせている。困らせて、いる。

そんなシチュエーションに冬馬が耐えられるはずもない。彼は沙織の手からバドをひったくると、プルトップを開けて口をつけた。もちろんすぐに奪い返される。怒鳴られながら。


「さっき薬飲んだばかりなのよ!?アルコール併用が禁忌なのはイヤと言うほど知って!!」


「クスリ?一錠しか飲んでない。ワンシートとビールなんて無茶、もうしてないし」


パキシルだろうがソラナックスだろうが、十何錠もあるシートをまるまる飲めば、ましてや酒と一緒に飲めば、救急搬送されても文句は言えないけどさ。


「飲まなきゃやってらんないときくらい、あなたにもあるでしょ?」


ほらもうろれつも回ってないし、頭はがんがん痛み出した。もつれる足にふらつく身体。見かねた沙織に無理やり横にさせられる。


「言いたいことも言わずに我慢しちゃうからでしょ!あなたの場合は!!私がすぐに誘いに応じなかったからって、見離されたとでも思ったの!?だったらそう言えばいいじゃない!!」


私…という人称代名詞を沙織が使うときって、たいていは本心。怒ってるんだ、そうだきっと彼女は怒ってる。何に?僕なんかに誘われたことを…。



「冬馬くんはどうしたいのよ!!」


少しの酒でも酔える。酩酊感じゃなくて気持ちが悪い。二日酔いの最悪な気分だけを味わわされてるみたいだ。


「…膝枕」


えっ?意外な言葉に沙織は冬馬を見やる。


「膝枕で寝たい。ああなんて庶民的でささやかな願いなんだろ」


……ランエボの中で放置されたこと、根に持ってるんだ。彼女の顔がむっとした表情に変わる。


「せっかくのプラダのスーツがしわになっちゃうじゃない。この色、気に入ってるのに」


だったらしわになんないように、だなんて言えるはずもなく、それでも冬馬はかなり乱暴に沙織から引き寄せられた。頭だけを彼女の柔らかな膝にのせる。

目をつぶる。気づかないうちに苦しげに眉をひそめてたんだろう。冷たい手が冬馬の額に当てられた。



「沙織先生こそ、どうしたいんだよ。看護師してたって言ってたよね。医大中退ってホント?じゃあ何で今、東峰の保健室なんかにいるの?こうやって根掘り葉掘り聞いてもらいたいんでしょ」


マジョリティの人って。最後の言葉はもちろん口にはしない。

手の冷たさが心地いい。またこのまま眠ってしまいそうなくらいだ。他人の事情も理由も本当のところは冬馬にはどうだっていいんだけれど。どうせ僕のところには届いては来ないし、来たところで期限なんかとっくに過ぎてる。いつも、いつも。


「他人のことなんか興味ない、って感じね。普段の仕事はそうこなしてるの?」


沙織の手のひらの下で、冬馬の顔がこわばる。誤解しないで、と彼女が付け加える。


「ほっとしてるの。あなたがいつも全力で他人と関わっていたらどうしよう、って心配してたんだから、これでも」


心配?口元だけで呟く。それでも聞こえるほどの近さ。


「他の人の辛さも苦しさも、冬馬くんは自分のことのように…いいえ、自分の問題として取り込んでしまう」


「カウンセラー気取りやめてよ。僕は沙織先生に訊いたんだ」


つまんない自分語りよ?聞き流してくれていいから。沙織の声も小さくなる。




「実家がね、病院なの。兄たちは普通に医者やってるし、わたくしもって思っていたのに。安達の嫁と医者の両立なんてできるかって止められて」


いっぺんナース服って着てみたかったのよねえ。しらふでも十分酔ってるように聞こえるのはきっと気のせいじゃないと冬馬は思った。沙織ならこの理由で選ぶのもありだろうな。


「看護師やってるときは充実してたなあ。だけどテレビで美しすぎる女医特集見ちゃったのよねえ」


女医って、素敵な響きじゃない?この人の職業選択志望動機ってそんなもんなの?ああそうかも、って納得いくところが怖いんだけど。

資格持ってたって悪いことないだろうし、白衣の天使もいいけれど週一でクリニックバイトもありかなあって。それなら安達の家とも両立はできると思ったし。


こいつ、医者という仕事を舐めくさっとんのか。ちょっとだけ握ったこぶしを、冬馬はそっとほどいた。彼女のことだ。本心はどこにあるんだろう。


「でも今は保健室にいる。なんで?」


つい口を挟んだ。新之介との縁談が破棄されたのなら、そのまま医師になればよかったのに。


「安達の家とは親戚みたいな付き合いでね。お祖父さまもよく知ってるの。新は…歳の離れた従弟みたいな感じで」


秘書課の高崎は表舞台に出ないように気を遣っていたみたいだったし、東峰で会ったときはわたくしは本当に気づかなかったのよ。彼も雰囲気がかなり変わってたし、大切な姫をエスコートしてたでしょ?あのあと、生徒たちから質問攻めだったんだから。あの人たちって付き合ってるんですよねって。


彼女が軽く笑うと振動までもが伝わってくる。少しだけ、くすぐったい。その噂だけはすぐさま撤回して欲しいけど。


「あっちもまさか、わたくしが保健室にいるだなんて思ってもいなかったでしょうし」


「だからどうして…」


これ以上聞きたくない気持ちと、訊いて欲しいと言ってはみる沙織の声がぐるぐる頭を巡っている。

沙織は本当に言いたいんだろうか。辛いんじゃないのか。それとも、これまであったことを言葉にして自分自身を傷つけたいのか。




「安達のお祖父さまは実力主義だから、本気で新を後継者にと思ってたみたい。周りもそれは十分承知で納得済みだった。調子のいいときの彼を見ればわかるでしょ?」


確かに、人の上に立つ貫禄が新にはある。態度がでかいんじゃないのに、低すぎるほどの物腰と穏やかな風貌なのに。


「お祖父さまは新に、事業の後継者が無理ならば東峰学園を任せようとしたのよ。理事長としてね。私は彼にはできないと伝えた。新の状態はとても人前に長い時間いられるほど回復していないし、それを望めるかどうかも厳しいとね。けれど…肩書きだけでもいいからと言われて。大切な大切な孫だからって」


落ち着いているとき、以前の彼の片鱗を見せることがあるでしょう?学生でありながら人を束ねていた、誰からも信頼されて決断力も判断力もある彼を。


冬馬は軽くうなずく。だから期待してしまうんだろう、誰もが。いつかはまた前のようにって。


「新は、その話を蹴ったの?」


「怒ったわ。温厚な彼らしくもなく、かなりね。自分の今の状態を考えて身の丈に合った仕事を探します、自分なりに自立しますって。一番歯がゆい思いをしているのは新之介自身だと思う。できるときもある、けれどそれは長続きしない。仕事としては成り立たない。それも自分が一番よくわかっている」


だから、いつでもフォローできるように沙織は学園に勤めたのか。


「スカウト詐欺の被害は近隣の有名校にも及んでいて、対策を取らなきゃねとは言っていたの。じゃあこの機会に乗じて、新を東峰に近づけてみようかってことになって。あの子、意地になって絶対に学園の話題には触れようともしなくなったし。そのおかげでわたくしが勤めていることもバレずには済んでいたんだけど」


新之介のそばには、調査なんてお手の物の高崎がいる。親しい友人にはフリーのライターもいる。こんな好都合なことはない。安達の息がかかってるだなんてわからないように、高崎に話を持ちかけた。わたくしはわたくしで麻美子ちゃんの件があったから、あゆみさんと相談して。


「たくらんで、でしょう?」


うまく行くと思ったんだけどなあ。ふうっと沙織が息を吐き出す。

単純に麻美子のデビュープロジェクトってだけじゃなかったのか。東峰学園と新とを関わらせることで理事長の話まで進めようとしてたなんて。


しばらく二人とも黙った。思いは言葉にできるほど簡単じゃないし、出してしまったらきっとその瞬間…嘘に変わる。


そんな気がした。




「沙織先生は、どうしたかったの」


同じ質問を繰り返す。意味を図りかねたんだろう、応えは返ってこない。


「変よね、冬馬くんの声を聞くと何でも話してしまいたくなる。いいえ、気づくと言葉にしている。高崎もいつだか、そんなことをぼやいていたな」


えっ?だからそれは僕が何の力もなくてって…。そんなことじゃなくて。


「じゃなくってさ、新はまだ働けないって言ってみたり、理事長就任大作戦に荷担したり」


そうね。また続く沈黙。思いを引っ張り出す作業は実はそんなに簡単じゃない。

大して広くもない冬馬の部屋を、沙織はふわりと見渡した。心はどこかへ、ここじゃないどこかへ。



「自信を取り戻して欲しかったのかも、ね」


自信?


「新之介が病気だろうと何だろうと、できることだって必ずあるし。一瞬でもあの頃の自信を…ああ違う。私が見たかったんだと思う。そんな新の姿を」


それってさ。気づくと冬馬は口にしていた。新のことを思うと、目の前の沙織がどう感じるかさえも吹っ飛んだ。だってそれって。



「今の新じゃ……ダメってこと?」



当然のように、沙織の表情も身体も一瞬で凍り付く。冬馬の額に乗せられていた柔らかな手のひらは、びくりと弾かれたように引っ込められた。


(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2011  keikitagawa All Rights Reserved

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