#27
#27
決して慣れることのないランエボの助手席で、冬馬は流れる景色を眺めていた。文字通り飛ぶような映像で、形すらはっきりしない。気づかずついてしまうため息。
「…言いたいことがあるのなら、はっきり言ったら?」
いらだちを隠さず沙織が声を荒げた。ほんの少し彼女の方をむきかけた冬馬は、結局は視線を窓へと戻す。何も言わずに。
「あなたをないがしろにしたつもりも、利用しただけなんて気もさらさらないわ。あれは冬馬くんがいなければ」
「もういいよ。無理しなくて」
うまく笑うつもりが、それだけはできなかった。単純で顔に出やすいだのわかりやす過ぎだのさんざん愁に笑われ、必死に新の冷静さを真似てみたのに。
彼らの名前が頭に浮かぶだけで、冷たい氷の固まりを飲み込むみたいな感じがした。
金魚の何とかみたいにひっついていただけで、お情けで仕事をもらった。お膳立ては全部彼らのためにできていて、自分はその中でついでの役を与えられた。それももう終わったこと。
他人と深く関わることはしない。したくもない。そもそもさせてももらえない。僕がここにいる意味なんてあるんだろうか。ここでなくてもどこででも。
「あなたが考えていることを言ってあげましょうか」
なぜかきつい口調の沙織に、冬馬はそれでも返事をしなかった。相手が気を悪くしては大変とばかりに、今までそんなこともできずにいたのに。
「自分のレゾンデートル(存在意義)は何だろう、ってね。意味なんかないじゃないか。自分なんか要らないじゃないか。それでももしかしたら、を繰り返してこうやって失望するくらいなら」
「…するくらい、なら?」
冬馬の静かな問い返しに、今度は沙織が沈黙した。
「僕をカウンセリングするんでしょ?考えてることなんて何でもお見通しで、いくらでもうまく操れると思ってるんでしょ。すればいいじゃん。他人の言葉で踊ることなら慣れてる」
視線は合わないまま。
麻美子はあゆみの家に泊まると、迎えの車に乗っていった。今日だって精神的に疲れただろう。友達と一緒にいるのと、いくら沙織とはいえ、母校の先生と暮らすのとでは気の張り方も違うだろう。ごく当たり前の家族の団らんがそこでは味わえるかもしれない。
残された大人たちは、当然のように二手に分かれた。甲斐さんがちゃんと待っていてくれたし、新だって愁がいれば心配ない。
ああそうさ、最初から僕は関係者でも何でもなくて、きっと友達ですらなかったんだ。
外の世界では会うことのない、フェリスでしか成立しない擬似対人関係。それはまるでネット社会で通りすがりに出会った人々との交流のように。顔を出さなくなればそれで終わる。現実世界に持ち込んではいけなかったんだ、こんなふうには。
「じゃあ、今度は沙織先生の考えてることの番だ。先生は何とかして新を引っ張り出したかった。麻美子ちゃんのことがあったから利用した。イヤな言い方だけどさ」
沙織の唇は固く結ばれている。否定もしない。
「新には愁がひっついていて、外の世界に出ようとはしないと思ってた。本当のところは新だって動き出そうとしていたんだろ?それでも…じれったくて見てられなくて、こんな大がかりな仕掛けを作ってまで彼らを現実に引きずり出した」
直接に彼らへと接触すれば警戒される。だからワンクッションが必要だった。白瀬冬馬という人畜無害なただのケーブルが。
「ケーブルじゃないわ。触媒よ。あなたが関わるからこそ、多くの人たちが変われる」
「言葉遊びがしたいんじゃない」
「何も知らないくせに!!」
停車したランエボの運転席で、とうとう沙織は叫んだ。冬馬は…聞き慣れたこの言葉に初めて言い返した。
「誰も教えてくれないじゃないか!!本当のことなんて」
「訊かないからよ!!もっとしつこいくらい訊き出せばいいのよ!友達でしょう!?あれだけ仲のいい信頼しきった友人なら、心配なら、根掘り葉掘り聞き出せばいい!!そうして欲しかったのに!」
…そんな、勝手なこと期待されても。冬馬が呟く。
「誰にだって言いたくないことくらいある。自分の好奇心を満たすためだけに人の抱え隠してることなんて訊けないよ!!」
それがライターの仕事じゃないの?沙織の声も嗄れていた。
「みんなが僕になら話しやすいのだとしたら、それはきっと、僕が何の力もないからだ」
沙織は目をつぶる。小さく首を横に振りながら。
「王様の耳はロバの耳。僕は地面に掘られた穴とおんなじ。その場限りの人間関係で十分だ」
どうして?エンジン音がないからようやく聞き取れるほどの小声。
「じゃあ、聞かされた僕は何かしてあげられるの?僕は新を助けてあげることもできないし、麻美子ちゃんを助けたのは結局は安達の力があるからなんだろう?」
そんなこと、何の意味もないのに。呟く沙織の言葉の意味を図りかねて、冬馬は彼女を見やった。
「まだわからないの!?私はあなたに嫉妬してるのよ?どうして新之介はあなたの前では笑うの?あんなに頑なに私を拒絶したのに!高崎愁でさえ、彼の生活を支えることはできても表情を取り戻させることすらできなかったのに!」
「嫉…妬?」
王様の秘密はしゃべっちゃいけないんだ。通りすがりで忘れられることならいい。目の前のよく知ったはずの大切な人が語る秘密は、その意味が持つ重さと同じくらい、自分の胸の中で鉛に変わる。
何も言うな。知りたくもない。頼むから何も言わないでよ。言うな!!
息の詰まるいつもの感覚を、冬馬は必死に飲み込んだ。発作を起こすより言葉できちんと伝えたい。「知りたくない」と。
でも、コントロールが利かないから病気なんであって。我慢しようとすればするほど身体中に力が入ってこわばって…。
いったん止まった呼吸は、浅く速く荒いものに変わっていく。胸が締め付けられて目の前が暗くなる。狭いスポーツカーの中で身体を丸めてうずくまる。
遠くから、ものすごく遠いところから沙織の声が聞こえる気がする。背中に置かれた手はきっと本物。それでも冬馬は出ない声を振り絞るように叫んだ。
「触んなよ!」
すぐ治まるんだ。本発作はそれほど長い時間かかるもんじゃない。この苦しさも痛みもきれいに通り過ぎていくだけ。どこも悪くない。悪くないのに、どうしてこんなに辛いんだ?
温かな感触が離れた。背中の手は宙に浮いてるんだろう。新からも冬馬からも拒否られた沙織の手は、だから泣きたいほど悲しがってる。
存在理由が欲しいのは、きっと本当は沙織のほう。
それでも彼女は冬馬とは違い、現実的な処置を施しにかかった。冬馬のシャツに手を掛けてボタンをはずす。バッグを勝手にあさって薬を取り出す。一緒にいつも入れてあるミネラルウォーターのキャップを開けて、沙織は冬馬の身体を少しばかり抱き起こそうとする。いくら抵抗しても手をゆるめない。
「いいから飲みなさい!あとで文句ならいくらでも聞くから!」
口をこじ開けられるかのように薬を突っ込まれた。むせる間もなくペットボトルまで。思わず飲み込んだ冬馬は、もう一度おそってきた発作の波に沙織の腕をぎゅうと掴む。
目をつぶって一眠りでもすれば落ち着く。わかってはいたけれど、冬馬はあえて顔を上げた。
「ねえ…セン…セ」
「今はしゃべっちゃダメ!次の発作が起きたら舌をかむわよ?」
「保健の先生に…なったのは…新のためなの?事故が…あったのは…だって最近…」
「資格マニアだって言ったでしょ?」
「訊けよって言ったじゃん!!しつこいくらい、本当のことをさ!!」
大声を出したせいでまた息が切れる。呼吸だけはきちんと深く、ゆっくり。自分に言い聞かせる。
「医大を卒業して研修医になって、それから一人前の医師として…なんて待ってられなかった。とっとと中退してすぐに取れる医療系の資格を手当たり次第かき集めた。新之介には二十四時間介護が必要なの!!それは今でも変わらない!!だから私は」
二十四時間介護?そんな。だって僕の見てる新はいつだって落ち着いてて冷静で穏やかで優しくて…。
「細かな薬の調整と環境を整えて、それでも集中力の持続できる時間なんてほんのわずか。あの子は日常生活でさえ介助がいるの!だから私がいるって言ったのに、新之介はその手を払いのけたのよ!」
じゃあ、今は…。
「一緒に暮らしている高崎愁がつきっきり。自分だってかなりきつい抗鬱剤を飲んでるくせに。事故は彼のせいでも何でもないのに、誰一人高崎を責める人間なんていなかったのに。安達の家だってそう。それなのに酷い自責感から抜け出せないのよ、あいつは!!」
新之介の将来を奪ったのは自分だからと。目に見える怪我をしたのは高崎の方で、あれだけの被害で済んだのは彼が最後まで事故を回避しようとしたからなのに。
泣き出しそうな沙織の声は続く。
冬馬の震えは、発作のためなんだろうか。それとも。
聞きたくもないし知りたくもない。目に見えない辛さを知らされて、何もできない周りはどうしたらいいんだろう。ああそうさ、僕が抱える荷物だって誰にもどうすることもできない。想像もできないからごめん、と謝られたことさえある。
だから僕は踏み込まない。踏み込ませない。それは誰にとっても安全なはずで、冬馬にとっては孤独を深めていくこと。
けれど彼は…孤独を選んできた。自分が我慢すればいいんだからと。
マイノリティをいくら集めても、マジョリティにはならないんだよ。一人一人抱える苦しみは違うから、だから距離を取ろうとするんだよ。
きっと沙織にはわからない。その哀しいまでの思いやりを。
だから…だから、新は沙織を遠ざけた。そんな気がする。
みんな水面下の苦しみを隠して、表面だけのくだらない付き合いを少しだけ楽しんでいたんだ。現実の世界に僕らを引っ張り出そうとするからこうやって歪みが生じる。
沙織にはわからない。マジョリティにはわかりっこない。ああそうだよね、どこかで聞いたことがある。
幸せの形は似ている。不幸の形はそれぞれ皆違うものだ、と。
……僕らは不幸なんだろうか……
いつしか冬馬は、静かに寝入っていた。狭い車内で沙織の膝に頭をのせたまま。
(つづく)
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