#20
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広いグラウンドにはもう誰もいなかった。外の大きな窓から保健室の中をそっと見る。
肩を落とし、顔を両手で覆ったままの姿で沙織は自分のデスクに座っていた。
冬馬が掃き出しのガラスドアを静かに開けても気づかない。カーテンがわずかに揺れた。
その音にハッとしたように振り向く沙織の瞳には、この間のようなきらめく光の粒。
傷つきやすいのは……。
「無防備ですよ、これじゃ誰が入ってくるか」
「ここは乙女の園ですもの。最初の正門チェックは厳しかったでしょう?」
突っ張ってみせる仕草までもが、愛らしかった。
二人ともただ黙ったまま、ときは過ぎる。勘違いするなと冬馬の中で警鐘が鳴る。
相手はあの沙織先生だ。まともな純真な乙女とは訳が違う。シチュエーションに流されるな。
なのに自然と冬馬は彼女のそばに近づいていった。沙織は照れたように笑って下から見上げた。
「コンタクトがね、乾きやすいの。やっぱり使い捨てはわたくしには似合わないのかしら。それとも聖職者らしくきりりとメガネというのも、ありかも知れませんわね」
言うそばから、また一つ輝く涙。
思わず冬馬はひざまずくと彼女をぎゅっと抱きしめた。
好みじゃない。こんな強い女。別に恋愛感情がある訳じゃない。それに僕は誰とも付き合ってはいけない。わかっているのに。
最初はとまどっていた沙織がそっと冬馬を押し返そうとする。その指を絡めて冬馬は自分の方へと引き寄せた。見つめ合う。だから何度も言うように僕は決して。
「あなたを傷つけた。ごめんなさい」
「僕は大丈夫、慣れているから」
お願い、そんな言い方しないで。余計にあふれる涙。冬馬が親指でそっとぬぐう。
「全部、あなたが最初から仕組んだことだったのでしょう?沙織先生」
沙織は答える代わりに瞳を閉じた。たまっていた涙が一気に流れ出る。
「あなたに仕事の依頼が行くようにしたの。その前からあゆみちゃんが『あゆあゆ』ってハンドルネームで何度もレスをつけていたでしょう?あとは簡単だった。新之介くんたちがEXエージェンシーに目をつけていたことは知っていたし、ここまで単純に引っかかってくれるとは思わなかったけれど」
冬馬は沙織を抱きしめながら、ほんのちょっとだけ疑問を持った。このシチュで僕は彼女を抱きしめて、美しい女性が涙を流しているっていうのに、このセリフは酷くないか?
もしかして僕は、思いきりコケにされているんじゃ……。でも冬馬はあえてその疑問に目をつぶった。まあいいや。こんなにいい香りのするやわらかい感触。もう少しだけ感じていたい。
「じゃあ教えて、沙織先生。なんでこんなややこしいことしたの?直接、麻美子ちゃんにオーディションを勧めればよかったのに」
冬馬の問いに、軽く沙織は首を振った。それではダメ。そうつぶやきながら。
「あの子は自分に才能があることも、人前で歌えることも、麻美ちゃん自身がこんなにも歌を好きなんだということ自体も気づいていなかった。他人からいくら言われてやってもダメなのよ。答えはいつも自分の中にある。自分が見つけなければ決して先に進めない。ましてやあの家に縛り付けられていた彼女は、それでもそこから一歩も逃げ出そうともしなかった。狭い鳥かごから自分で羽ばたき出すには、それなりに傷ついてでもいいくらいの代償が必要なのよ」
まんまと踊らされていたのか、僕らはこの一人の女性に。不思議と怒りも悲しみもなにもわかなかった。そのおかげで麻美子は自由を手に入れ、歌声は世の中へと広がっていったんだ。
「ばれるようなへまをするつもりはなかった。黙っていれば誰も傷つかない。でもそんなにうまくは行かないのよね。罰が当たったんだわ。どうあなたに許してもらえばいいか」
なのに沙織は泣き続けている。僕らを振り回したという罪悪感から。
「それは…誰のため?麻美子ちゃんだけのためじゃないよね」
ほとんど聞き取れないほど小さなささやき声が伝わるほどのそばにいる。でもきっと沙織の心はここにはない。
僕ではないんだろう。冬馬の胸にまた冷たい氷が通り過ぎる。わかっているさ。おそらく沙織は…。
いつまでも自分の殻に閉じこもり続ける僕ら三人を、引っ張り出した訳は。
安達新之介。
彼女は忘れられないのだろう、彼のことを。自分を拒絶した新をどうしてもまた以前のような彼に戻したくて、こんなしち面倒くさい芝居を続けたのに違いない。
だったらもう僕は行くべきだ。ここから立ち去り、後は新に任せよう。
冬馬の心は理性はそう思っているのに、腕は彼女を離そうとはしなかった。
今日の彼女のメイクはシャイニーピンク。大人の女性にしたらちょっと若めだけれど、この乙女の園には似合っている。
「もう、泣かないでください。あなたのおかげで麻美子ちゃんは救われた」
優しすぎて、ずるい。沙織がつぶやく。
冬馬は彼女から腕を離すと、静かに立ち上がった。もう会うこともないだろう。EXのことは新や愁が詳しいらしいし、今度こそ僕はもう彼らとはなんの関係もなくなるんだから。
ガラスのドアに向かって背を向けた冬馬を沙織は呼び止め、不思議そうに振り返る彼に、その唇をそっと触れ合わせた。
冬馬の目が丸くなる。
「この間のお返し。いつまでもやられっぱなしじゃね」
いたずらっぽく笑う沙織をやや乱暴に冬馬は抱き寄せた。深い深いキス。お互い息ができない。それでもいい。
ピンクのカーテンはいつも閉められている。誰にも見られやしない。頬にかかる髪をそっとかき分けて顔を傾ける。甘い香りの唇を甘噛みするように触れると彼女の吐息がほんの少し聞こえる。豊かなウェーブのかかった細く柔らかい髪に指先を埋めて、力を込める。
何度も、何度も。自然に絡まり合う舌に彼女の身体がわずかに反応する。
新への対抗心?そんなんじゃない。
本当に好きなのか?そんなことわからない。
ただ冬馬は、強がる彼女がいとおしかった。触れていたかった。ただそれだけだ。
キスだけで済めばいいんだけどなあ。冬馬はかなり自分の自制心に自信が持てなくなっていた。頭のどこかはこんなにも醒めているのに。
真昼の女子高。そのシチュエーションに、どこか狂わされたんだろう。
ようやく唇を離すと冬馬は彼女の耳元にそっとささやいた。
ねえ、ここで君と……。
潤む瞳で見つめ合う最高の気分の盛り上がりに二人がひたっているまさにその最中、ピンクの部屋のドアがそりゃあもう思いきりガラリと開けられた。
「おーい!!冬バカがEXの逃げ場所を突き止めたんだって?」
でかい声、でかい図体、さすがに甚平に雪駄ではなくスーツに学校のスリッパ。見るも嫌みなほど決まっている愁がずかずかと入って来やがった。その後ろには、いつもながら涼やかな新之介。こいつらときたら!
冬馬はあわてて沙織から飛び離れると、何事もなかったかのように二人に向かってにっこりした。
沙織は涙をぬぐうと、知らぬうちに開けてしまっていたナース服の一番上のボタンを急いで閉めた。
もう二人の距離は不自然なくらい開いているのに、この恐ろしくも勘のいい二人が気づかないわけがない。
「は…ん、こりゃお邪魔だったかな」
にやにや笑う愁がにくったらしい。愁は大きな手をあごに当てて、半目遣いで冬馬を小馬鹿にしたように見ていた。
何を言っても罵倒か雪駄の代わりのスリッパが飛んでくるだろう。冬馬は無駄だと思ったけれど、助けを求めるかのように新之介にかなり情けなさそうな視線を向けた。
「沙織さんの今日のグロスはシャイニーピンクですか。冬馬さんのせっかくの新品のワイシャツについてしまう前に、口元を拭かれた方がよいかと思いますよ」
新の言葉にぎょっとして近くの鏡を見ると、冬馬の唇にはべっとりとピンク色の口紅が。
あわてて手でぬぐおうとするのに、冷静に新之介がウェットティッシュを手渡す。
どこまでも用意がいいんだか。
ふと横を見ると、平然な顔で沙織は化粧直しをしていた。
……女ってヤツは……
「じゃあおれたちは出直してくるってことで。な、新」
「そうですね。ここでは何ですから夜にでも冬馬さんの部屋に集まりましょうか」
ちょ、ちょっと待ってよ!何か勘違いしてないか?それに何で僕の部屋!?
冬馬の叫び声を全く無視するかのように、沙織はすくっと立ち上がった。
「そんな悠長なこと言ってられないの。あなた達二人をもってしても見つけられなかったEXの連中の居場所を見つけてもらったんだから、作戦決行は早いうちにね!」
愁はため息をつくとしぶしぶうなずいた。新之介は複雑な表情で沙織を見つめた。
そして冬馬は…。
「さ、作戦?まだ何かやるつもり?僕はもう関係ないよね?」
とあわてて付け加えた。
全員の視線が冬馬に集まる。
「何言ってんだ、この冬バカのバーカ。EXをぶっ潰すのが最終目的だろうが。それに、この作戦の主役は白瀬冬馬様に決まってるだろ?」
冬馬以外の三人は、なぜか薄笑いを浮かべた。
もう逃げられない。冬馬は背中がゾクゾクするのを感じつつ、がっくりと肩を落とした。
(つづく)
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