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#18

#18


「麻美ちゃんはホント料理上手ねえ。わたくしこんなお嫁さんが欲しいわあ」


バスローブ姿でくつろぎながらビール片手に沙織がしみじみと言うのに、麻美子はずっとやってたからだけですと伏し目がちに答えた。


「よく、頑張ってきたわね。そういうあなたが一番強いのかもしれないわ」


ちょっとだけ真顔で、沙織は麻美子を見つめた。


「沙織先生…」


「この部屋で先生はなしよ。沙織さんでも沙織さまでも、ああ、お姉様がいいわあ」


せっかく少し真面目になったというのに、もう既に沙織の目にはハートが浮かんでいる。

麻美子はどう返事をしていいかわからず、頬を赤らめた。


「あ、あの片付けてしまいますから」


「いいって、それくらいわたくしがやるから。何も本当に家事担当の為にあなたにここにいてもらってるわけじゃないんだから」


そう言うと、沙織は皿を持って立ち上がった。

不意に聴き慣れた着信音。

手でゴメンとだけ麻美子に合図すると、沙織は自分の携帯を手に持った。


白瀬冬馬…表示された文字にほんの少し動揺する。


息をすうっと吸うとなぜか沙織はいつものキャラクターを演じなければというような気分になって、にこやかに電話に出た。


「はあい、沙織でーす。冬馬くんなあにぃ?」


わざとらしく媚びた甘え声。なのに相手から聞こえてくるのは不規則な荒い息遣い。

途端に沙織の表情が引き締まった。


「どうしたの?過呼吸程度で治まってる?それ以上なら…ああ、いいわあなたが別にしゃべる必要はないから。こっちが勝手に言うから、ね?」


そう言いながら沙織はゆっくり息を吐くように冬馬に伝えた。吸うことよりも吐くことに意識して。心臓に異常はないのよ。それ以上酷くなることはないから。


冬馬の荒い息は止まらない。何かを言おうとするけれど言葉にならない。黙っててと沙織が必死にそれを止める。


もう夜も遅い。飲んでしまって運転もできないし、タクシーで駆けつけると行っても詳しい住所はわからない。この間は適当なところで降ろしてしまったから。

麻美子を残して行くことも心配だ。


二人を繋いでいるのは、不安定な携帯電話の電波だけ。


「麻美ちゃん、先に休んでて。ちょっと時間がかかりそうだから」


でも…、言いかけた麻美子に、大人の話は込み入ってるからとわざとウィンクしてみせる。はにかむように笑った麻美子は素直に自分の部屋にとあてがわれた寝室へと戻っていった。



電話の向こうで時折苦しげなうめき声が上がる。沙織は思わず目をつぶった。看護師時代にもっと酷い状況の患者だっていくらでも見てきているのに。パニック発作なんて、と冷たくあしらう医師も多いほどだ。パニック障害自体はれっきとした病気ではあるけれど、パニック発作なら時間が来れば治まるし何処がどう悪いわけでもない。冬馬のような症状は派手だが、長く続くものでもない。


でも苦しんでいることは事実。彼の場合は別に辛い辛い思いを心に抱えていて、決して一筋縄で治るものではないだろう。それがわかるだけに沙織は切なかった。


別に好みでも何でもない男。沙織の理想はあくまでも仕事のできる、自分をいくらでも贅沢させてくれるエリート。あんな頼りなさげなお子ちゃまじゃない。

安達新之介の家とは親戚づきあいのような関係で、沙織の方がずいぶん歳上だと言ってもおそらく結婚するのだろうと、漠然と両家の誰もが思っていた。

恋愛感情があったわけでもなかった。そもそも沙織は誰とも本気で付き合ってなどいないのかもしれない。それでも新之介なら別に不満とも思ってはいなかった。


それなのに、あの事故がすべてを変えてしまった。

沙織が見限ったのではない。彼女の方が新から拒絶されたのだ。

資格マニアで次々と医療職を渡り歩いて仕事を楽しんでいた沙織が初めて味わった屈辱。


私ならあなたを支えてあげられるのに。いつもの彼女らしからぬ叫び声にも、耳さえ貸してもらえなかった。


苦い想い出が沙織の心によみがえる。新之介の心を取り戻したいのか。そのために冬馬を利用したいのか。わからない、自分の気持ちが。

そんな自分が理解不能でイヤだった。わたくしはいつだって強い女。それでいいじゃない。



携帯に言葉を途切れさせないように語り続ける。どうやら一番酷い嵐は去ったようで、少しばかり呼吸が安定してきた。


「今どの辺りにいるの?床に横になっているのならベッドまで行ける?」


冬馬からの返答はなかった。代わりに聞こえてくるのはすうすうという規則正しい寝息。

沙織はほうっとため息をついた。落ち着いて眠ったんだわ。もう大丈夫。

すぐ切ればいいのに、何故かそのやわらかな寝息が聞いていたくて、沙織は電話を離すことができなかった。


どれくらいそうしていただろう。ようやく携帯のボタンを押す。沙織は画面をパタンと閉じると、気の抜けたビールを飲み干した。






「ふわああ」


不謹慎だとはわかっていたが、たった一人の保健室で沙織は大きなあくびをした。眠れなかった。本人は寝ているつもりだったのに、頭がちっとも休んでいない。早退しようかしら、麻美ちゃんの授業が終わったら。呑気なことを考える。


不意にがらりとドアが開き、入ってきた女子生徒は、思わずそんな沙織の表情に吹き出した。


「ヤダ、真鍋先生。麻美子がいるんだから夜遊び厳禁でしょ?」


「あら、わたくしが夜遊びなんてするキャラに見えますこと?あゆみさん」


思いきり見えると思いますけど。あゆみのつぶやきはあえて無視した。


あゆみはかなり行儀悪く淡いピンクのベッドに腰掛けると、ミニスカートにした制服にもかかわらず脚を組んだ。


「それにしても、うまく行きましたね。ここまで計算通りにことが進むとはいくら私でも…」


「しっ!あのね、そういうことは不用意に言っちゃダメでしょうが」


「誰も来ませんよ、今は授業中だし」


あら、末嗣あゆみ様ともあろうお方がおサボりですの?沙織はふふっと笑った。


「もう授業はだいぶ取ってしまったし、私としてはこの麻美子デビュー作戦の方がずっとわくわくしてるんだもの」


これが順調にいったら、私やっぱりプロデュースの仕事しようかなあ。あゆみは意味ありげににこっとした。


「劇団フォーシーズンズのお受験は止めるおつもり?」


彼女はすくっと立ち上がると、古いシェイクスピアの長ったらしい文章や最近の新進劇団の有名な決めぜりふまでも、よどみなく演じてみせた。


「このあゆみ様が落ちるわけないじゃないですか、真鍋先生。そんなことに比べたらあんな冬馬さんをその気にさせるくらいなんてこと……」


そこまで高らかにあゆみが張りのある声で言い切ったところで、ドアがまたしてもいきなり開けられた。


「もう!小学校みたいにノックをしてから開けましょうって看板書かないとダメなのかしら!!」


沙織が怒って見せたが、入ってきたのがよりによって彼だったので絶句した。焦ったのはあゆみも同じだ。



乙女チックな保健室にあわてて飛び込んできたのは、その白瀬冬馬本人だったのだから。


(つづく)


北川圭 Copyright© 2009-2011  keikitagawa All Rights Reserved

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