#14
#14
冬馬はそっと携帯に入れておいた浅倉麻美子のフォトデータを開けてみた。細い薄い青のフレームのメガネに、清潔そうな三つ編み。携帯の写メだから細かいところまでわからなかったけど、いかにも手作りのカバーをつけた文庫本が似合いそうな清楚な美少女。
ねえ、一人は寂しいよ。
でもきっと、あの家族の中にいても君は寂しかったに違いないね。
そして学校でも。
なら、どこに行けば君の仲間はいるのだろう。
みにくいあひるの子は無事に白鳥を見つけられたけれど、おそらく本当のご両親に会えたところで受け入れてもらえるかどうか。
いま君はいくつだっけ。大丈夫、大人になれば誰もが一人だ。あと少しで君は自由になれるんだよ。
冬馬はそんなことを思いながら画面を閉じた。歌が聴きたかったな。急に閉じられてしまったというサイトを先に見つけておくんだった。ものすごい後悔。
冬馬の携帯が鳴る。一瞬びくっとして慌てて取ると真鍋からだった。
「見つかったんですか!?」
冬馬のあわてぶりに、そうじゃなくてそっちはどうかなってと、のんびりした声が帰ってきた。
「真鍋先生!そんなことで電話してこないでください!!」
「あら、そんな固い呼び名じゃなくて沙織って呼んでいいのよ」
あのねえ、言いかけてふと冬馬は真鍋に訊いてみた。ここで話すことじゃないのはよくわかっていたけれど。
「ねえ真鍋先生、教えてもらいたいことが…」
「沙織って呼んでくれなきゃイヤ!他人じゃないのにぃ」
拗ねたようにわざと甘えた声を出す。いやあの僕とは思いっきり他人だし。どうしようかなあこの人。
「じゃあ、沙織先生。新と、新之介と婚約してたって本当なんですか?こんなときに訊いてごめんなさい」
僕は新之介のことも愁のことも何一つ知らないんです、と。
「ふふっ、気になる?本当よ」
わかりましたと電話を切ろうとする冬馬を、真鍋は慌てて止めた。
「ちょっとお、その先を訊こうとは思わないの?友達なんでしょう?知りたくないの?」
誰にだって触れられたくないことはあるでしょうから。冬馬はそう言った。
「あなたって、そうやって人と必ず距離を取るのね。まあだからフリーライターが合ってるのかしら。なのにどうして浅倉さんにはそんなに熱心なの?」
どきっとして冬馬は言葉を失った。そんなこと、考えてみたこともなかったから。
「それから、新之介くんとはすっぱり縁が切れてるから今はわたくしフリーなの。よおく覚えておいてね」
最後はデコメールのハートマークがつきそうな声で電話が切れた。
踏み込みたくないさ。だから僕は二週間に一度のフェリスで十分だったんだ。
あいつらの普段なんか、関係なんか、知りたくもない。どうせ僕には入れない世界なんだろう。それだけは確実だ。
やば、これじゃまたいつもの負のスパイラルだ。今はとにかく浅倉麻美子を捜さなきゃ。
与えられた店を一軒一軒捜して歩く。店員に訊いたって覚てるわけなどないから、間違えたフリしてヒトカラやってそうな部屋を開けて確かめていく。すっげえ迷惑なヤツだろうな。
ダメだ、どこにもいない。がなり立てる歌声と、その周りの騒音にすっかりやられて冬馬は目眩がした。
かなりやばいかもしれない。こんなところから今すぐ離れて静かな静かな、何も音のしないところへ。
気づくと冬馬は、さっきの川べりへと戻っていた。橋と鉄塔と廃墟ビル。もう人工の音はしない。その代わり、もの悲しい自然の音と、ささやくような歌声。
歌声!?
冬馬は急いで周りを見渡した。もう遊んでいた子どもらも家に入ったのだろう。人気はない。なのに聞こえてくる微かな曲。
どこから?いったいこの澄んだ歌声がどこからなんだ?
橋には車の往来があるだけ。鉄塔には帰りそびれたカラスが一羽。
そして廃墟ビルのてっぺん……。
ひらつくスカートの人影。まさか、まさかあれが。
不意に人影が動いた。冬馬はどきっとしたけれど、それは単にふちに腰掛けただけだった。
ふち、建物のふちにか。
建物は四階建てで、下から叫べば声は届くだろう。でもそれで刺激でもしたら。
薄暗がりで顔がはっきり見えない。見えたのはスカートと三つ編み。
冬馬はそっと携帯の発信ボタンを押した。誰にかかっているのか確かめる暇もなく、その人に向かって話し出した。
「ねえ、もう一度歌ってくれない?」
できるだけ静かに、穏やかにゆっくりと。決して驚かさないように。
彼女の身体がびくっと震えるのが、冬馬にもはっきりわかった。動悸が激しくなる。どうかどうか、こんなところで僕が発作を起こしたりしないでくれよ。
「おどかしてゴメン。僕は冬馬、白瀬冬馬。もしかして君は……麻美子さん?」
廃墟ビルのてっぺんからは、何の声も返っては来ない。
それでも冬馬はゆっくりと話し始めた。
「不思議だね、初めて会ったのに僕は何だか君とはずっと前から知り合いのような気がする。何でだろ」
君は僕のことを知らないだろう?だから僕はここで勝手に話をするけどいいかな。よかったら、足をぶらぶらさせてみせて。
そんな冬馬の呼びかけに、ためらいがちに彼女は足をわずかに動かした。
「ありがとう。ホントはね、誰かに聞いて欲しかったんだけどこんな話、重いしさ、友達もいなかったから」
冬馬は、言葉を選びながら自分のことを話し始めた。フリーのライターを始めて、けっこう自己紹介というか自分の趣味や好きな音楽なんかを先に話すと、相手はリラックスして話し始めることが多いことはわかってきたけれど、今から話すことは誰にも言ってはいなかった。自分の心にずっとしまっておいた、重い重い秘密。
「高校はね、男子高だったんだ。何でだと思う?何かいつまでたっても男っぽくならない僕を心配して両親は、少し男の中で揉まれてこい、って親切心で進めてくれたんだ。僕だって別に女の子になりたい願望がある方じゃなかったから、行けば何か変わるかもしれないって思ったんだ。でも、逆だった」
冬馬はいつまでたっても身長も伸びず、声も低くならず、手足は細いまま、顔はまるっきりの童顔。運動部で名をはせた校風の男子高でいじめの対象になるには時間はかからなかった。
女だとからかわれるくらいならまだマシ。でたらめの告白メールに手紙。女性用の下着が机の上に置かれていたこともある。その気のある先輩に言い寄られたことなんか数知れず。マジギレして言い返せるか、おちゃらけるキャラクターだったらよかった。
冬馬はどれもできずに、真っ正面から受け止めてしまった。
学校に行こうとすれば酷い吐き気と目眩。登校してそのまま倒れたこともある。そうすればまた、ひ弱なイメージから女だと揶揄され、さらにからかわれる。怖くて教室には入れない。保健室にようやくたどり着くと、ほっとしてベッドに潜り込む。
理由がわからない。冬馬は自分自身は男だし、女になりたいと思ったことは一度もないし、女装にすら興味もない。なのに白い肌に薄い体毛。ただの体質ならどうしようもないのか。
二年に上がれるかどうかわからないというときになって、ようやくこれはおかしいと養護教諭は両親に話しをし、一度大きな病院で詳しい検査を受けた方がいいと言った。それもできれば専門の科がある病院を、と。
「……結果、どうだったんですか」
初めて聞く彼女の声。透明で柔らかな、人の心にすっと入ってくるような声。
「検査してもらってわかったんだけど、僕には染色体が一本余計に多いんだって」
薄闇の中では、彼女の顔も表情もわからない。聞いているのかもどうかも。それでもよかった。きっと僕は彼女に話したかったんだろう。だからこんなふうに必死に捜して。
「クラインフェルター症候群っていうんだけどね、普通はほとんど症状が出なくて、子どもができない人が調べてもらったらこの病気だったなんてこともあるくらいなんだってさ。ああそうか、僕は生まれついてそういう性質を持ってきちまったんだなって、どこかほっとした。自分のせいじゃないんだって」
「みんな違って、みんないい?」
柔らかい声が頭上から降ってくる。天使のような温かさで。
「そうだね。まあ僕のは違いすぎるっちゃ違いすぎるけど。でもそのとき、僕はけっしてマジョリティの側にはいないんだということだけは自覚したよ。日常生活には不自由しない。気にしなければ何も困らない。けれど僕はマイノリティなんだなって」
「マイノリティは辛いですか」
彼女の声をずっと聞いていたくなる。なんて優しい音色なんだろう。
「辛くないと思ってた。何だ、と割り切れたと信じてた。結局高校では誰一人にも打ちあけられず、友達もできなかったけど。都会に出ればマイノリティなんていくらでもいるだろうと思ってた。言わずにすんで友達も多くできた。でもね、どこか心が空っぽなんだ。病気のことをどうのこうの思っているんじゃないよ。だけどイヤでも思ってしまう。なぜ僕なんだろう、どうしてたまたまこの病気にかかったのが僕なのだろうかってさ。もっと心の強い人が引き受けてくれたらよかったのに。やっとのことで卒業した高校生活でもう僕はボロボロだったし、一生こんなガキくさい顔で、人には気軽に言えない思いを抱えて生きていかなきゃいけないのかって思うとさ。だって少なくとも深く付き合う彼女にはいつか言わなきゃいけないだろ?君はそんな思いをしたことはない?」
彼女の言葉が途切れた。僕が一人でしゃべりすぎたせいなのか、と冬馬も黙った。
しばらく静寂が続く。でもそれは二人にとって決して嫌じゃない。
初めて、さっき会ったばかりなのに。
「あなたは浅倉さんなんでしょう?浅倉麻美子さん。さっき君の家に行ってきた。事情もある程度聞いた。麻美子さん、って呼んでいいかな」
人影はふたたびそっと足を振った。まるでそれが二人の発明した新しい合図でもあるかのように。
(つづく)
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