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校長室の革張りのソファは、いったん座ったら立ち上がれないほどふかふかだった。校長はあいにく不在でして、と昨日とは打って変わって愛想のいい副校長が冬馬に話しかける。はあ、としか言いようがなく、出されたコーヒーを前に冬馬は躊躇していた。
「冷めないうちにどうぞ召し上がってください。私はちょっとコーヒーにうるさいものでしてね、お客様には自分でひいた豆で飲んでいただいているんですよ」
口だけでもつけなくてはいけないだろうな。普段まったくカフェインも取らないようにしている冬馬も、仕方なくカップを持ち上げた。
もともとは嫌いな方じゃない、というよりライターなんてコーヒー飲むのが仕事みたいなもんだと言われた。確かに彼が言うようにこれはかなりいい豆を使っている。
…それにしても愁のヤツ、来るとか言っておいておせえなあ…
おまえ一人に任せておけるか、女子高生がたんまりいるってのに。そう言いながらおれも必ず行くからなとのうのうとしていたのは愁本人じゃないか。それをこんなに遅刻して。
仕方がないので、どんどん取材を始めようとICレコーダーを取り出した。
「それで、さっそくですが学園の中に、あまりに気軽にカラオケオーディションを受けている生徒さんがいらっしゃる現状をですね、どうお考えかと…」
冬馬がかっこよく取材らしき言葉を語り始めた途端、校長室のドアが勢いよく開いた。
「わりいわりい、もうさ、歩くたんびに女子高生にとっつかまってメアド聞かれたり写メ撮られたり。まいっちまったぜ」
そこには、いつにも増してスーツをスッキリと着こなした愁が立っていた。そりゃ背もたかいしさ、ガタイはいいしさ、見栄えはいいよ?だけど僕の取材先に来てその態度はどうよ。僕だって一応、なけなしのスーツ着てきたんだぜ?すそ丈はかなり詰めたけどさ。
口を開きかけた冬馬を通り越して、副校長は愁に駆けよった。
「これはこれは高崎様。いらっしゃるのであればご連絡くださればよろしかったのに」
な、何だこの待遇の差は?っていうか、何で副校長が愁を知っているんだ?
「ご無沙汰しております、池川先生。順当なご出世おめでとうございます」
いつになく皮肉めいた声で愁がニヤリと笑う。それを全く気づかないような顔で池川は笑い声を上げた。
「またまたまたまた、高崎様こそ今はどちらの部署へ?」
ほんの少し、愁の瞳がかげる。冬馬はわざと目をそらした。
「とうに退職しました。今は何もしておりませんよ」
ということは、いよいよフリーなお立場で上に立たれるということですか。さすがは高崎様。
何をどう勘違いしたのか、池川の機嫌は始終よかった。もっとも冬馬にしたら全く状況は飲み込めていなかったが。
こいつら一体どういう関係なんだよ。何で知り合いで、何で愁の方が偉そうにしてんだよ。そんな疑問は顔には出せない。けれどわき上がる不安と、また一人残される寂寥感に襲われそうになって、慌てて冬馬は言葉をつないだ。
「それではですね、できれば浅倉麻美子さんの担任の方にお話が伺えると…」
浅倉ですか、3Aの生徒ですね。ハイハイお待ちを。愁が現れてからの池川の態度。
冬馬の力ではこうはいかない。それを見せつけられたようで気持ちはもうすっかり萎えていた。どうせ僕は零細著述業者だよ。
愁はわざわざ取り替えさせた緑茶をうまそうに飲み、ソファにふんぞり返っていた。ふと冬馬のカップに目をやり、眉をひそめた。
「おまえまさか、禁断のコーヒー飲みやがったんじゃねえだろうな?」
「いやあの、だって、うまそうだったから。豆からして違うって池川先生自慢してて…」
知らねえぞ、吐き捨てるように愁が言うのにふくれっ面をしてみせる。何だよ、全部愁のペースじゃないか。
この仕事を引き受けたのは僕だぞ!
校内の写真撮影及び、顔出しは禁止。学校名が出ることはもちろんのこと、推測されるような書き方は止めていただきたい。それが学校側の条件だった。こちらとしても当たり前のことなので素直に承諾する。
彼ら二人はより素顔に近い学園の様子が見たいということで、校長室ではなく三年学年室へと案内してもらうことにした。
浅倉麻美子、そして末嗣あゆみのいる3A担任の光井に会うために長い廊下を歩いてゆく。案内するという池川を断り、二人だけで歩くとどうしても注目は愁にばかり集まる。
どうせ、そんなもんさ。冬馬は心の中で毒づいた。若い女の子たちの好奇心旺盛な瞳が、多少は冬馬にも向けられる。
人人人。それも若い生徒ばかり。さっきのコーヒーが胸焼けを起こしたように、胃が痛む。
「大丈夫か?だから言ったろ」
愁がほんの少し腰をかがめて冬馬の顔をのぞき込む。その仕草に何を思ったのか、一部の女子から悲鳴じみた声が上がる。
…見せもんじゃねえ。素直に副校長と来ればよかった…
冬馬は少しどころじゃなく、激しく後悔した。
光井は、空き時間だと言ってにこやかに迎えてくれた。穏やかそうな年配の女性。やはり麻美子の欠席を心配しているようだった。
「無遅刻無欠席の生徒さんだったのですよ。とても真面目でおとなしくて。オーディションのお話を伺ってこちらがびっくりしてしまって」
末嗣さんならわかるんです、光井は静かに言った。
「あのお嬢さんはとにかく積極的で、生徒会の活動にも学園ボランティアにも参加しておりますし。そう、何かとクラスの輪に入りづらい浅倉さんを誘って差し上げる優しさも持ち合わせていて」
歴史ある東峰学園のOGであるという担任の光井は、育ちの良さを感じさせるおっとりとしたしゃべり方であゆみを褒め称えた。
「麻美子さんは、浅倉さんには他に友達は?」
「おそらくいらっしゃらなかったと思います。末嗣さんが何かと活動で忙しくしていると、いつも教室でお一人で本を広げて…」
一人きりの、美少女。まあ、本当にかわいいのかどうかなんて顔を見てないんだからわからないけれど。
でも、あゆみは彼女を恐れていた。本当の麻美子を見れば誰だって彼女に惹かれるって。
たった一人で麻美子は何を考えていたんだろう。そして歌手になる夢を誰でもなくあゆみにだけ打ちあけて、当のあゆみが、彼女にそんな仕打ちをしていることも知らず。
冬馬は頭ががんがんしてきた。おそらくさっきのコーヒーのせい。カフェインなんか取っちゃいけない。あれだけ言われてたのに。
不意に懐かしい予鈴のチャイムの音が鳴り響いた。それではこれで、と言いかけた光井に、せめて麻美子の連絡先だけでも教えて欲しいと愁は食い下がった。
「わたくしには答えかねます。できれば管理職に言っていただけませんでしょうか」
優雅にお辞儀をして去ってゆく女教師。廊下をまだ騒がしくしゃべりまくる女子生徒。ああそうだ、ここは学校だ。生徒が千人近くもいてみんなそれらが一人ひとり思いを持ち、大声を上げて主張しまくる。その中でたった一人、黙って輪から外れる麻美子。
ぐっ。
だからおまえは想像力が豊かすぎるんだ、いつも愁にバカにされる。現実と妄想の区別がついてねえじゃねえか。
本当の麻美子なんて知らない。僕の中の彼女は孤独に押しつぶされそうになった泣き顔。
「おいっ!」
急に肩を掴まれる。愁の怖い顔が冬馬をにらむ。
「おまえは浅倉麻美子じゃねえ。わかってんだろうな」
冬馬は口を利くことすらできずにただただうなずいた。わかってる、それは十分。過去の自分と彼女は違う。一緒にするな。僕はもう大人で無力だった生徒でも何でもない。集団生活すら、今の僕には必要ない。わかってるさ、そんなこと!
口元を押さえて冬馬はうずくまった。吐き気がする。目の前が暗くなってゆく。
やばい。このままじゃ。
あわてて取材道具一式を詰め込んだバッグから薬を取り出そうとするが、冬馬の手も腕もガタガタと震えて、ジッパーが押さえられない。
ぎゅうと喉が詰まる。息が全く入ってこない。パニックの本発作だ。
「おい!冬馬!冬バカ!!ちっきしょう、だから言わんこっちゃねえ」
愁は、冬馬の細っこい身体を軽々と抱き上げると、乱暴に足で学年室のドアを開けた。
冬馬の呼吸は今度は逆に過呼吸が始まっていて、荒く苦しげになるばかりだ。
廊下にまだ残っていた数人の女子生徒が、何ごとかと振り向く。
背の高い、がっしりとした力強い体格の愁が、華奢で細い手足の冬馬を抱きかかえる姿に、一部の、いやかなりの生徒が頬を赤らめて見つめている。
冬馬は苦しげな息の元で、彼女らにどう思われているのかつい想像してしまい、急に暴れ出した。
「だ、大丈夫だから、お…おろせ!」
「ざけんなバカ!しゃべるなよ!舌噛むぞ。なあ、姉ちゃん!保健室はどこだ?」
「あ、あの廊下の端です」
真っ赤になってうつむく三つ編みの純情娘に、違うんだ、誤解だ!と冬馬は言いたかった。
なのに発作は治まるどころか酷くなるばかりで、つい冬馬は苦しさに愁の腕をぎゅうと握りしめてしまった。
「きゃあーーー」
甘い悲鳴が大きくなる。違う!!僕は全くもってノーマルだ!!
冬馬の心の声は、誰にも理解されることなく、長い廊下に誤解の種をまき散らしていくばかりだった。
(つづく)
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