第02話:消える名前
背中に、視線が触れた。
振り返るより先に、誰のものかは分かった。教室の後ろに立ち尽くしている俺を、彼女が席から見ている。
俺は座席表の前を離れ、自分の席へ戻った。通路越しに、彼女の袖口を指先で二度叩く。合図。彼女の視線が、教室の後ろへ動いて——止まった。
息を呑む音は、しなかった。
彼女は座席表を見て、それから、教室を見回した。笑っている生徒たち。胸の名札。彼女の目が、名札の上を一つずつ渡っていく。数える目だった。怯えるより先に、数えていた。
「……全員?」
唇の動きだけで、彼女が訊いた。
俺は、小さく頷いた。
※
五時間目の前に、担任が入ってきた。小テストの返却。名前を呼び始める。
前の席の男子二人。窓際の女子。呼ばれた生徒は、はい、と答えて教卓へ取りに行く。声も、足音も、生きていた。
教師の声が、途中で、掠れた。
名前の形をした音が、母音だけを残して崩れた。教師は言い直さなかった。掠れたことに気づいた様子もなく、次の名前へ進んだ。誰も、顔を上げなかった。
呼ばれなかったのが、どの席の生徒なのか、俺には分からなかった。呼ばれた側は答えて立つ。呼ばれなかった側は——呼ばれなかったことごと、教室から抜け落ちている。取りに行かれない答案だけが、教卓の上に静かに残っていった。
授業が始まる頃、残った答案は、三枚になっていた。
六時間目、俺は教科書を盾にして、教室を見た。
後ろの列に、三人いた。
どこがおかしい、と問われたら、答えられない。制服は同じ。ノートを取る手も動いている。ただ、目が滑る。一人ずつ顔を確かめて、視線を外すと、もう思い出せない。三人の顔が、頭の中で一枚に重なっていく。整いすぎた、誰でもない顔に。
腕に、鳥肌が立った。意味が追いついたのは、その後だった。
あの三人は、教卓に残った三枚の答案と、数が合う。
笑い声が起きる。教室と同じ高さ、同じ長さで、三人も笑った。笑い方だけは、誰よりも正確だった。
※
放課後、空き教室で、俺たちは声に出して並べた。俺たちの記録方式で。
「座席表の滲み。胸の名札の滲み。出席の声の掠れ。取りに行かれない答案が三枚。後ろの列の、顔の思い出せない三人」
「三人とも、笑うのだけ、上手だった」
彼女が繰り返し、それから、付け足した。二重に置くための復唱ではない、彼女自身の観測だった。
彼女は、机の天板を見つめていた。指先が、木目の上を、ゆっくりと一方向になぞる。
「……わたしの時と、違う」
低い声だった。
「わたしは、押し込められた。名前を呼ばれるたびに、外から、あの形に。……でも、これは逆。押してない。剥がしてる」
指が、止まった。
「名前が、流されてる」
流されてる。
その言葉が耳に入った瞬間、俺の頭に浮かんだのは、理屈ではなかった。座席表の字だった。墨が水に触れたようにほどけていく、あの滲み方。紙は乾いているのに、字だけが濡れたように流れていく。彼女の言葉は、説明ではなかった。俺が見たものの、正しい呼び名だった。
「呼ばれなかったところから、順に」
彼女は続けた。
「呼ばれなくなった名前から、さらわれてる。……ねえ、名札の教室。見に行きたい」
顔を上げた彼女の目に、怯えはあった。あったが、それだけではなかった。
「怖いから見ない、じゃなくて。怖いけど、見ておく」
いつかの彼女自身の言葉だった。俺は頷いた。
※
四階の奥。増えた扉は、まだそこにあった。
教室に入って、彼女は敷居で止まらなかった。自分の足で、机の間を進んだ。
白い札は、同じ位置、同じ角度で並んでいた。だが、読める札を探すほうが、難しくなっていた。前は、滲む札を数えられた。今は、読める札を数えるほうが早い。等間隔に並んだ白い長方形の上で、名前という名前が、輪郭をほどきかけている。
格子だ、と前に思った。名前で人を留めておく、静かな檻。
いま、その格子が、溶けていく。留めるものが消えれば自由になる——そうは、思えなかった。首筋が冷えている。檻が開くのではない。檻ごと、中身ごと、押し流されていく。そんな冷え方だった。
崩れる昇降口で、名前に引き戻された時の感触を、俺の身体はまだ覚えている。留める名前と、引き戻す名前。同じものが、両方になる。流されれば——両方とも、なくなる。
彼女は、奥の窓際の机の前に立っていた。
あの札。文字の気配は、まだあった。画数の多い字と、柔らかい字。滲みは進んでいる。だが、ほどけ切ってはいない。
「……まだ」
彼女は言った。まだ見ないで、の続きなのか、まだ残ってる、なのか。どちらでもあるような、短い一語だった。
俺は札から目を外した。
そして、黒板で止まった。
図は、あった。白いチョークの四角の列。全体を囲う枠。右端の切れ目。切れ目から外へ伸びる、あの囁くような薄い線も、そのままだった。
その上に。
線が、増えていた。
太かった。チョークを何度も重ねたような、指二本ぶんの幅。枠の切れ目からではない。枠の一辺を、内側から外側へ、まっすぐに貫いていた。囲いも、通路も、四角の列も、構わずに横切って。
迷いのない線、ではなかった。図の他の線には、引いた手の気配があった。これには、なかった。手で引いた線ではない。そう思った瞬間、もう黒板の線には見えなくなった。
線は枠の外で止まらず、黒板の縁まで届いて、板の外へ続く途中のような形で、切れていた。
俺の足が、半歩、退がっていた。退がれ、と命じた覚えはなかった。
枠の外へ。
太い、一本。
図の中の教室から、まっすぐに外へ向かう線が、昨日までの黒板には、なかったはずの線が——書き足されていた。




