6.アデルバード=ガーラント
扉の向こうにいたのは、例の若い兵士――ヨシュアの酷い言葉から、そして、ガルシアの恐ろしい剣から自分をかばってくれた、あの青年だった。
背はハナエより少し高いくらい。兵士としては小柄な方だろう。
昼間はなかったはずの傷が、その左頬に痛々しく刻まれている。
「と、突然すいません! 白の騎士様、これを、その……」
ひどく緊張した様子の青年は、小さな箱を差し出す。
「こ、これっ、傷によく効くんです! 解毒作用もあって、その、だから……」
「……これを、あたしに?」
青年はコクコクと頷いた。
ふいに――それこそ、堰を切ったように。
ハナエの目から、涙が一気にこぼれだした。
ビー玉がばらばらとこぼれていくように、涙粒が頬を転がり落ちていく。
どうしよう、泣くつもりなんてなかったのに。
慌てて手で押さえるものの、涙は止まらない。
「し、白の騎士様、大丈夫ですか?」
「ごめん、なさ……っ」
……コツ、コツ、コツ
足音だ。徐々にこちらへ近づいてくる。
青年ははっと体を硬くしたが、次の判断は早かった。
ハナエを引っ張って部屋の中へと飛び込むと、静かにドアを閉める。
コツ、コツ……
足音はそのまま通り過ぎていく。
青年はほっと息を吐いた。
が、次の瞬間には「わあっ」と声を上げて、ハナエの肩からあわてて手を離す。
「も、申し訳ありません! ご無礼をお許しください!」
「だい、じょ、ぶ……です、っ」
ふるふると首を振って、ハナエは声を絞り出した。
押さえていた感情がやっと今になって、涙に溶けてあふれてくる。
情けなくて、怖くて、辛くて、悔しくて……涙がぼろぼろ落ちていく。
「あ、あの、白の騎士様。傷、痛みますか?」
「わたし、そんな、じゃ、ない、です……ごめん、なさい……そんなの、じゃ、ないん、です……っ」
ハナエは震えていた。
両手で顔を覆うけれど、それでも指の間から涙がこぼれていく。
こんなにも自分を心配してくれた青年を、きっとがっかりさせてしまっただろう。こんな泣き虫が白の騎士だなんて、きっと軽蔑しただろう――情けなさに、また涙がこみ上げてくる。
痛いほどの沈黙――自分のしゃくりあげる声だけが、やけに響く。
そんな中、やがて彼は静かに口を開いた。
「私は――いえ、僕は、アデルバード=ガーラントといいます」
落胆でも、軽蔑でもなかった。
ハナエの耳に届いた声は、どこまでも優しかった。
「あでる、ばーど……?」
「長いので、アデルとお呼びになってください」
顔を上げると、榛色の瞳と目があった。
アデルは人なつっこい笑顔を浮かべると、少し屈んでハナエを見つめる。
「あなたは、なんとおっしゃるのですか?」
「えっ?」
「教えてください、あなたの名前を」
風が吹いて、カーテンをふわりと揺らす。
「……城田、英恵、です」
「シロタ――ハナエ様、ですね」
「長いから、ハナエでいいです」
「では、ハナエ様とお呼びしてもよろしいですか?」
「ハナエって、呼び捨てでいいですよ」
アデルは困ったように笑うと、かぶりを振る。
「白の騎士は本来、王女様と同等の地位なのです。呼び捨てだなんて、とんでもない! 王女様に対してさえ、敬語を使う必要はないのですよ」
「そう……なの?」
「ええ。だからそんなに委縮する必要はありません。ヨシュア様の非礼など、本来ならばとても許されるものではないのです。ガツンと言ってやったらいいのですよ!」
いかめしく言い切ったアデルと顔を見合わせて、ふたり同時にふふっと笑う。
いつの間にか、ハナエの涙は止まっていた。
「しかし、ハナエ様のお名前は、とても不思議な響きですね」
「そうかな。ダサくない?」
「いえ、不思議で、とても優しい響きだと思います。けれど――」
アデルは一度言葉を切ると、ハナエをまっすぐに見つめた。
「もしやあなたは、この世界の人間ではないのでは?」
「えっ!」
「やはり、そうですか」
「なんで分かったの?」
「ここに来られた時のハナエ様の服装が、見たこともない意匠のものだったからです」
「あ! あれは、その……パジャマなの! 部屋着なの! いつもはもっとちゃんとした服を着てるんだよ!」
顔を真っ赤にして弁解するハナエを見て、アデルは「冗談ですよ」と笑った。
「実は以前『白い剣』について記した書物を調べたことがあるのです。そこでは、白の騎士は世界を渡って現れるとされていました。だから、もしかしたらと思ったのです」
「そうなんだ……」
「ハナエ様は『白い剣と白の騎士』の伝説について、何かお聞きになりましたか?」
「えっと、『白の騎士』がこの世界の救世主だって」
「それだけですか?」
ハナエが頷くと、アデルは落胆した様子でため息をついた。
「そんな雑な説明だけで、白の騎士としての責務を押し付けるとは……なんと情けないことでしょう」
申し訳ございません、と、アデルは深く頭を下げた。
「分からないことばかりで、さぞ不安だったでしょう――どうかお許しください。この世界の人間でも、伝承に詳しくない者がほとんどなのです」
「そんな……アデルが謝ることじゃないよ。気にしないで」
ハナエの言葉に、アデルはふわりと笑みを返す。
「ハナエ様はお優しいのですね……幸い、僕には多少の知識があります。この国の現在や『白い剣』の伝承に関しては、僕からご説明いたしましょう」
「ホント?」
「ええ。でも、それはまた明日。今日は体を休めてください。あなたはひどく傷ついている――この世界に突然迷い込んで、怖い思いばかりされたでしょう」
そう言うと、アデルは持っていた小箱のふたを開けた。
甘やかで澄んだ香りが、あたりにふわりと広がる。
「わ、いいにおい……」
「エールの花から作った軟膏です。この香りには気持ちを落ち着かせる効能もありますから、きっとよく眠れますよ。今日のうちに、痛むところにしっかりすり込んでおいてくださいね」
アデルはハナエに小箱を手渡す。
触れた指は、その声と同じく温かかった。
「では、僕はこれで失礼いたします。詳しいお話は、また明日」
アデルは一礼すると、ドアの方へ向かう。
「アデル、待って」
振り返ったアデルの左頬に、ぺたりとハナエの手が触れる。
指先からは、エールの軟膏の香りがした。
「は、ハナエ様?」
「アデルもケガしてる」
「ぼ、僕は大丈夫です!」
「ダメだよ。ちゃんと薬塗っとかないと、痕になるよ」
ハナエはぺたぺたと薬を塗り広げていく。
「……お城の広間でも、模擬決闘のときも――かばってくれてありがとう。アデルのおかげで、今もちょっと元気出た」
「それは違います。僕は……」
アデルは辛そうに目を伏せた。
「お礼を言っていただくようなことは、何ひとつないのです。僕は結局、ヨシュア様からもガルシア様からも、あなたをお助けできなかった」
「そんなことない。ちゃんと私の名前を聞いてくれたのは、アデルだけだもん。私、すごく嬉しかった」
ハナエは頬に手を添えたままで、感謝を込めてアデルの瞳を見つめて笑う。
アデルは息が止まったように、ハナエの顔を見つめ返していた。
やがてハナエはアデルの頬から手を離すと、きゅっと眉をしかめた。
「痛そう。このケガ、誰に? まさかヨシュアじゃないよね」
「えっと、決闘に割って入った僕が悪いので、これは仕方がないのです」
「ってことは、ガルシアさん? 酷い! いつか仕返ししてやるんだから!」
「そ、そんな! 乱暴はダメですよ!」
ふたりは目を見合わせて、同時に吹き出した。
笑い過ぎて流す涙はこんなに温かい。ハナエは指先で目尻を拭った。
「さ、そろそろお休みになってください」
「うん、ありがとう。アデル、おやすみなさい」
「おやすみなさい、ハナエ様」
ドアがぱたんと閉じた。
部屋の外、アデルは閉じたドアに背中をあずけると、大きく息を吐いた。
思わず左手を自分の頬に当てる。
夜風が鼻先をくすぐっていく。
かすかに、エールの甘い香りがした。
大きく息を吸い込むと、アデルは顔を上げる。
そして、宵闇に包まれた廊下を、確かな足取りで歩き出した。
次回は3/6の夜更新予定です。




