24.逃走
ずいぶん話し込んでしまったらしい。
結局、三人が客室に戻るころには、夜が白く解け始めていた。
廊下にはまだ、夜の帳が降りている。ひんやりと静まり返った薄暗い廊下を抜けて、三人は部屋の前までたどり着いたのだった。
さすがに眠くなってきたハナエが、ドアノブに手を伸ばした――その時。
ヨシュアが素早くその手を抑える。
思わず声を上げそうになったハナエの口を、アデルの手がふさいだ。
(何するのっ!)
ハナエが無言で抗議すると、ヨシュアが低い声でつぶやいた。
「……様子がおかしい」
「えっ?」
ヨシュアは「ここで待て」とささやくと、慎重に扉を開けた。
部屋は暗く、ぼんやりと窓のかたちが分かる程度だった。
それでもハナエにさえ、その異常は感じ取れた。
部屋に充満した匂い――鼻をつく、鉄くさい匂い。
これは、血の匂いだ。
ヨシュアが音もなく剣を抜く。
「……ハナエ様も、白い剣を」
アデルが耳元で囁いた。
ハナエは頷いて、白い剣を抜く。緊張で手が汗ばんで、剣を取り落としてしまいそうだ。ハナエは両手で強く柄を握った。
アデルはハナエを廊下に残して、足音をしのばせて部屋の中へと進んでいく。手探りでマッチをさぐり、机の上のランプに火をともす。
部屋がほうっと明るくなって、そして、その惨劇が照らし出された。
壁まで赤い飛沫が飛び散る室内。
ベッドと机の間は血だまりで、その中に誰かが横たわっていて――。
ハナエは思わず声を上げていた。
「バカ、大声出すな!」
ヨシュアが飛んできて口をふさいだが、もう遅い。
悲鳴はもう、廊下中に響き渡った後だった。
体ががくがくと震えている。目をそらしたいのに、それができない。
倒れ伏している男――顔はよく見えないが、ずたずたに切り裂かれた背中は鮮血でぐっしょりと濡れている。ランプの光が揺れるたび、それがてらてらと生々しく光る。
「ハナエ様、落ち着いてください。僕らがそばにいます、大丈夫ですよ」
アデルの手のひらがハナエの両目を覆う。それでも猛烈な吐き気が胸を襲う。立っていられなくなって、ハナエはアデルの腕の中に倒れ込んだ。
廊下を駆けてくる足音がする。
「ハナエ、どうしたの!」
アヤの声だ。ヨシュアが止める間もなく、アヤは部屋へと駆けこんでくる。
そして次の瞬間、耳を疑う言葉を叫んだ。
「王様……っ!」
ハナエは驚いて顔を上げた。
アヤは血だまりに座り込むと、膝の上に男の頭を抱き起している。アヤがうわごとのように呼び続けても、男はぐったりと脱力したまま動かない。生きているかどうかさえ、ここからでは分からない。
「はやく、お医者さんを……」
ハナエがそう言いかけたが、それを遮ったのはアヤの声だった。
「あんたたち……よくも王様を……!」
鋭いまなざしが、ハナエを射貫くようににらみ付ける。
「待って、アヤ! その人を傷つけたのはあたしたちじゃない!」
「あんたたち以外に誰がいるのよ!」
「よく考えてよ! あたしたち、さっきまで一緒にいたじゃない!」
廊下の奥から、いくつもの靴音が近づいてくる。
ヨシュアはハナエの手を掴むと、舌打ちをして言った。
「もういい、逃げるぞ!」
「なんで? あたしたち、何もしてないじゃない!」
「そんな話が通るわけねえだろ! ハメられたんだよ俺たちは!」
ヨシュアの言葉に、アデルも荷物を担ぐと早口で言った。
「今捕まったら、確実に処刑されます。無実を証明するためにも、ここは逃げ切らなくては!」
ハナエも、もう頷くしかなかった。
だが――。
「――待ちなさい」
三人の前に、ゆらりとアヤが立ち塞がった。
「逃げられると思ってるの?」
アヤが腰の剣に手をかける。
とたんに、その手の甲に黒い紋章が浮かび上がる。
黒炎一閃――。
刃が信じられない速度で奔る。
間一髪だった。
白い刀身が、黒い刃を受け止めていた。
主を守るためか、因縁の相手だからか――いずれにせよ、白い剣が反応していなければ、三人とも切り伏せられていたに違いない。
はじめて目にする黒い剣は、白い剣とほぼ同じ造りだった。
同じ長さ、同じ装飾――たった一つ違うのは、それがすべて漆黒であるということだけ。
対になったふたつの伝説の剣が、音を立ててぶつかり合う。
ハナエにも分かっていた。並の剣では、黒い剣には対抗できない。
ヨシュアやアデルを守れるのは、白の騎士である自分だけだ。
ハナエは柄を握り直す。
白い紋章が、ハナエの右手の甲に浮かび上がる。
「もうやめて、アヤ!」
黒い剣をはじき返して、ハナエが叫ぶ。 だが、アヤは怒りに歪んだ顔で怒鳴り返す。
「うるさい! 何が「協力する、力になる」よ! この嘘つき! よくもだましてくれたわね、絶対に許さない!」
黒い剣が鋭く打ち込んでくる。
白い剣に導かれるまま、ハナエはそれを跳ね返す。刀身がぶつかるたびに、剣戟の音が激しく部屋に響く。
アヤの気迫は凄まじかった。
ハナエは徐々に、壁際へと追い詰められていく。
(このままじゃ、まずい)
すぐそこまで、大勢の足音が迫ってきている。
黒い剣も脅威だが、兵士たちに取り囲まれては逃げられない。
(白い剣、力を貸して!)
ハナエが祈ると、白い剣がまばゆく輝いた。
覚悟を決め、大きく振った剣――強く弾かれて、アヤが体勢を崩す。
その一瞬を、ヨシュアは見逃さなかった。
スキをついて間合いに飛び込むと、アヤに当て身を食らわせる。
アヤは「ぐぅっ!」とうめくと、その場に倒れ込んだ。
「ハナエ、来い!」
ヨシュアはハナエを抱きかかえると、窓を蹴破って飛び出した。すぐにアデルが続く。
石造りの舗道に着地すると、三人は即座に走り出した。
***
城内はまだ静かだ。
闇に紛れて、三人は人気のない方へと走る。
足が痛むのだろう、遅れがちになるアデルの腕を掴んで、ヨシュアは闇雲に走っていく。ハナエも懸命にそのあとに続く。
「くそ、どこに行きゃあいいんだ!」
荒い息を繰り返しながら、ヨシュアが吐き捨てる。息を切らしながら、アデルが答える。
「このまま真っすぐ走ってください!」
「何だと? 行き止まりじゃねえのか?」
ヨシュアがちらりと振り返る。アデルは苦しそうに息を吐きながら言う。
「東の城壁に門があるのを見ました。『落とし格子』になっていますが、今ならまだ閉まっていないはずです!」
「よし!」
ヨシュアはハナエの手を掴む。ふたりを引きずるようにして、ヨシュアは夜の城内を駆け抜けていく。
強く手を引かれながら、ハナエは足を動かすことだけを考えていた。息が苦しいが、それどころではない。逃げ切るんだ、はやく、はやく……!
とにかく走る、走る、走る――。
まっすぐ先に、かがり火が揺れている。
城壁に一か所、口を開けた部分が見える。非常用なのだろうか、ここが『落とし格子』――扉を吊るしたロープを切ることで、門が閉まる構造になっているのだ。
見張りは一人――好機だ。
ヨシュアはふたりから手を離すと、一気に速度を上げた。
「だ、誰だ!」
やっと三人に気づき、見張りの男が叫ぶ。だが、次の瞬間にはヨシュアの強烈な蹴りの前に、気を失って倒れてしまった。
ハナエがヨシュアに駆け寄ろうとしたその時、急に後ろから押し倒され、地面に顔をぶつけてしまった。口の中に、じわっと血の味が広がる。
耳元でアデルの声がした。
「ハナエ様、伏せていてください!」
ヒュ、ヒュ、と風を切る音がして、地面に鋭い矢が突き刺さる。
いくつも、いくつも、雨のように矢が降り注ぐ。
闇を引き裂くように、警笛が鳴り響く。
(追いつかれた!)
ガッシャァァン!
派手な音がして、周囲がぷつりと暗くなる。
ヨシュアが、かがり火を台ごと蹴り倒したのだ。照明を失って狙いがあいまいになった矢を、ヨシュアが剣で次々に叩き落とす。
それでも賊を仕留めんと、暗がりから次々と矢が飛んでくる。三人が逃げ出そうと背を向けたら、まず間違いなく避けられない。
だが、このままでは、いずれ取り囲まれてしまう。
「お前ら、はやく行け!」
襲い来る矢の雨を防ぎながら、ヨシュアが怒鳴った。
アデルが立ち上がって叫ぶ。
「いいえ、約束したはずです! それは僕が……!」
「いいから行けっつってんだろ!」
でも、と言いかけたアデルを、ヨシュアが思い切り蹴り飛ばす。
「行け! ハナエ!」
ヨシュアはハナエを引きずり起こすと、城門の外に突き飛ばした。
「ヨシュアっ!」
顔を上げたハナエの前で、ヨシュアの剣がロープをブツンと切った。
ドォン!
目の前が突然遮られ、すべての音が消えた。
「ヨシュア、ヨシュアっ!」
ハナエは悲鳴を上げて、目の前を塞いだ門に駆け寄る。
鉄と丸太でできた頑強な門は、強く叩いてもびくともしない。それはもう壁の一部になったかのように、動く気配も見せなかった。
門に縋りつくハナエの肩を、アデルが強くつかむ。
「ハナエ様、こっちです!」
「でも、ヨシュアが!」
「ここにもすぐに追手が来ます!」
「……っ!」
ハナエは頷いた。涙と汗でぐしゃぐしゃの顔で、それでも顔を上げる。
行かなければ――このまま捕まるわけにはいかない!
アデルはハナエの手を取ると、城壁に背を向けて走り出す。
少しでも遠くへ、矢の届かない場所へ――。
目の前に広がるのは、針葉樹の林だ。
アデルはハナエを連れたまま、暗い木々の合間へと飛び込んでいった。
次回は3/24の夜に公開予定です。




